はじめに
本報告書を作成するに至った経緯は、2010年11月に大出慎太郎、清水良一、那須直也、両角健太の4名が父島から母島にアウトリガーカヌーで横断した際に、通信手段の不備に端を発する「捜索騒ぎ」を引き起こしたことによります。本報告書の内容は以下の4点です。
・航海計画
・航海直前から終わりまでの実際
・クルー達の今航海への思い。
前述の捜索騒ぎにより、多くの人に多大なご迷惑とご心配をかけました。
そこで、本文が、今後カヌー等を用いて外洋を航海したいと思っている者(本件の当事者も含めて)の役に立つことを期待します。 2011年5月
航海の背景
本航海は、OOCC (小笠原アウトリガーカヌークラブ、代表:大出慎太朗)の元に計画されました。また、本航海の参加者は、全員が扇浦青年団要会 (団長:清水良一) の団員であったため要会の協力も得て行われました。
戦前、小笠原において、アウトリガーカヌーでの帆走は島民に根付いており、日常的な交通手段でした。しかし、現在ではアウトリガーカヌーは存在こそしますが、その大半が船外機を用いて利用するものであり、帆走を利用することは皆無です。そこで、小笠原の伝統であるカヌー文化を復興する一端として父島から母島への帆走により航海することを目的としました。また、母島へアウトリガーカ
ヌーを頂いた感謝の意を表したいという思いがありました。
航海直前から終わりまでの実際
・2010年11月20日以前の計画
2010年11月22日早朝:父島扇浦出港
2010年11月22日夕方:母島沖港到着
北東の風4~5m吹けば5knot (時速約8km) 程度の速度で走ることが可能であると練習で実感出来ていたため、8時間前後で母島へ到着出来ると予想していた。
クルーの那須、両角は翌日11月23日の母島丸で父島へ帰る予定であった。大出、清水は11月23日のお祭りに要会として参加して、25日の母島丸でカヌーと共に帰る予定であった。
・2010年11月10日頃(保安署への1回目の事前連絡)
那須が、母島航海の主旨と概略を保安署へ連絡し、必要な書類、備品等を聞きに行った。Eパブ、衛星携帯電話、救難信号、発煙筒等を装備し緊急連絡先、救命艇、地上での定期連絡場所の設置などの条件が揃っていれば、併走船を付けずにカヌー単独での航海は可能であることを確認した。後日、クルーにその旨を伝えた。
・保安署への2回目の事前連絡
ラフの航海計画書を作成し、保安署へ提出した。具体的なカヌーの大きさ、人数、食料の量、緊急時の装備(衛星携帯電話、Eパブ) 等を指摘された。
・保安署への3回目の事前連絡
衛星携帯電話のレンタルが確定し、保安署へ電話番号を報告した。使い慣れておくようにと指摘を受ける。前回に提出した計画書よりも詳細なもの(食料の量、クルーの連絡先・住所を明記した)作成するようにと指摘された。※保安署に提出した装備のリストは以下の通りです。
表-装備リスト
品名 備考
食料 水 26リットル(2リットルペットボトル13個)
おにぎり 約20個
カロリーメイト 12箱
チョコレート 板チョコ*5枚
飴
防水バック 装備を入れる
パドル 各自一本+予備2本
発煙筒
安全備品 緊急信号弾
セーフティーアマ用の予備の竹
ロープ
イリジウム衛星携帯電話 1台 IRIDIUM9505A
救急セット
アカ汲み
個人装備 ナイフ
雨具
ウェットスーツ
ヘッドライト
デジタルカメラ
防寒着
携帯電話 大出と両角が各自1台
※上記の他に、着替え、財布等は母島の宿泊先へ郵送しておいた。
・2010年11月21日夕方
クルー4人の最終打ち合わせを実施した。
22日の天気予報の情報では、北東の風6m前後、波高が3~4mであった。また、宿泊を依頼しようとしていた母島での宿泊先が断られてしまい、宿泊場所が決まっていなかった。この時点で、22日の出港は4名の総意の上で中止した。
保安署へは、「天候不順のため明日(11月22日) は行きませんと連絡した。最終的な航海計画書を保安署へ見せに行った(この計画書には出発の日付が22日と記載したままであった。)
この時点で保安署から救命艇サザンクロスが故障中のため、救出に行くことが出来ないので、漁協・観光業などの救助の出来る船に緊急時のために連絡しておくように伝えられる。
この時点では、那須はどこにも連絡していない。今からではとても間に合わないと判断した。また、イリジウム電話が那須宅に到着し、携帯から自宅、定時連絡先であった清水宅にそれぞれ送信、着信のテストをした。
・2010年11月22日昼
23日のポイント天気予報の情報では、1時から南東の風3~4m、7時から南南東から南の風に変わる予報であった。波高は、1.5~2.0mであった。
また、母島観光協会から母島での宿が確保できたことが確認された。明朝(11月23日) 2:00 に扇浦集合、出港することを決定した。
以降,11月23日に出港してから、母島北港に到着するまでを時系列に沿って表で表します。
時刻 風向風速 カヌー 父島待機班
2:40 3:00 南東 2.3m 扇浦出港 マストを立てずにパドリングで野山羊山沖を目指す。 市野が見送りに行くも、既にだれもいなかった。
3:13 4:00 南東 4.4m マストを立て帆走&パドリングで軽快に走る。月の明かりを頼りにコンパスを200度程度にして進路をとる。上げ潮流の影響でかなり西に流れていたと推察される。
6:00 5:00
南南東 4.4m
6:00 南南東5.0m 1回目の定時連絡を試みる。イリジウム電話でプーランに 連絡。千花さんと通話成功。通話を終了後、千花さんからもイリジウム電話へかけてもらい通話成功。航海が順調であることを伝えた。イリジウム衛星携帯電話は電源をONにしたまま防水バックに入れシートの下においた。 1回目の定時連絡。那須、千花さんが通話した。「順調に進んでいる」(那須) 「10回コールが鳴った」(千花)「コール3回で切ったけど」(那須) ※ウェザーステーションから双眼鏡で探すがカラマ号見えず。
6:05 日の出
7:30 7:00 南南東4.8m 風が南に周り、向かい風のため帆走が困難と判断。マストを倒しパドルのみで進むことにした。進路を南に進路を取る。
7:46 クロアシアホウドリ飛来。
8:00 8:00 南南東5.1m 2回目の定時連絡を試みるが通話不可。呼び出し音も鳴らず事前にインターネットで調べておいた、他の番号での掛け方も試みたが交信不可。2つの方法で約5回交信を試みたが通話不可。 2回目の定時連絡 帰宅が5分遅れてしまい交信の有無不明。8:05に通話を試みるも通話不可(呼び出し音にならず掛けなおすというアナウンスが流れる。母島さんの宮城さんから電話がある。状況を報告した。
8:33 虹が北西にかかる
10:00 10:00 南南東5.0m
11:00 南西
2.4m 3回目の定時連絡を試みるも通話不可 3回目の定時連絡の時間。着信無し。2回の定時連絡が無かったことにより心配し始める。宮城さんより電話がある(カラマ号の所在を確認する方法を提案してくれる。) 小笠原海運にユリ丸の船舶電話の番号を聞き、所在を目撃したか聞くが、目撃はしなかったとの返答。ユリ丸によると海はそんなに悪くない(ワントネはすごく悪いが)。・佐藤さんに電話し状況を説明。漁業無線で状況を確認出来ないか試みるが、「漁協としては、保安署からの依頼が無ければ動けない」と返答。漁業無線を保安署も聞いているので保安署にも連絡した方がいいと判断。
12:00 12:00
南西4.2m 4回目の定時連絡を試みるが通話不可。風が南西に変わったと判断。マストを立て帆走&パドルリングに切り替えた。進路は風に対して遡れるギリギリを狙って進路をとった。方角は南東であった。 4回目の定時連絡時間。着信無し。昼くらいに母島につくと予定と聞いていたが?引き返しているかも?思いウェザーステーションから南西方向を双眼鏡で探す。 宮城さんが夕日が見えるヶ丘から双眼鏡で探す(西側のみ)
13:00 13:00
南南西5.1m 下げ潮流も重なり鬼岩の東にいることに気付いた。マストを倒しパドルのみに変更した。当初の予定の沖港を目指すのは、日没の時間等を考慮したら、無理だと判断し北港を目指すことを決定した。 宮城さん、梅野さんから捜索依頼した方がいいと提案される。(佐藤さんも同意)
14:00 14:00
南2.6M 上げ潮流による離岸流が激しく鬼岩の横を全力でパドリング 保安署へ初めての連絡。状況を報告する。保安署より「保安署のサザンクロスが壊れているので自分たちで捜索船を手配しいくと言っていたのでやってください朝出港するという連絡をもらっていない」と返答。シートリップに連絡するも、「聞いていない、出港は出来ない」と返答。佐藤さんより漁協に確認してもらう。漁協「そういう話は聞いていない、保安署からの連絡が無いと動けない」と返答。
14:30 保安署へ再び電話する。捜索依頼をする。保安署「安全対策に不備がある。2度と出港させません」「捜索費用は実費になるかもしれません」と返答。
15:00 北港到着。イリジウム電話、携帯電話で連絡を試みるも通信不可。 市野、杉原、伊関、小野寺、那須理恵、プーランに集まる。保安署より電話「父島から3隻、母島から2隻が捜索のため出港した。(保安署からそれくらいの規模でという提案があった。)市野「母島の近くにいるだろう」りえ「海は思ったよりそんなに悪くない」
15:30 警察の方が北港にやってくる。捜索されていることを知らされる。警察の携帯電話で通信を試みるも使えず清水が警察と沖港へ向かう。
16:00 携帯電話で父島プーラン市野に連絡した。関係機関に連絡を依頼した。梅野さんに連絡して車を借りた。 清水より電話。母島北港に到着したことを聞く。関係各所に連絡。保安署、小笠原島漁協にお礼とお詫びに行く。
17:00 北港に戻り、大出、那須、両角をピックアップ。
18:00 月ヶ丘神社の例大祭へお参りに行った。心配、ご迷惑をかけた方へあいさつをした。
・2010年11月24日
宮城さんに整備工場の高橋さんを紹介して頂き、2tトラックを借り、北港にあるカヌーを運搬した。村役場、警察、母島漁港へ捜索のお礼とお詫びに行った。漁協から捜索のため出港して頂いた船の名簿をもらい、母島漁協理事の築館氏と平賀氏に捜索のお礼に行った。午後3時より、漁港にて捜索に捜索して頂いた船主の方15名に捜索のお礼とお騒がせしたお詫びをした。
11月25日
午前 ユリ丸で来島された保安署の署長にお詫びした。
午後 カヌーをユリ丸に載せる手続きをするが、
見積もりの7倍以上の金額を請求されため、急遽
共勝丸で運ぶことに変更した。沖山さんに連絡し
お願いする。
14:00 母島沖港出港
16:10 父島二見港入港
小笠原島漁協、村役場、警察、保安署へお礼とお詫び
に行 った。漁協より捜索に参加された人と船を教えて
いただきお礼とお詫びに行った。
・クルー達の今回の航海への思い
母島遠征を終えて。
大出慎太郎
母島へのセーリングは、1年くらい前から構想を練り、セーリング用の大きなステアーパドルを作るなど準備を始めた。
OOCCの活動理念は、かつての小笠原におけるアウトリガーカヌーを復元すること、そして島から島へという航海を目的としている。その理念が要会のものと一致していた。そのため、清水さんの好意により要会の後援という形をとらせてもらった。
母島は肉眼で見える島である。見える島へ行くことは冒険では無いと思っている。冒険とは、成功するか失敗するか、生死の瀬戸際のところで行うことだと私個人は認識している。父島母島間をカヌーで行ききすることはかつては日常的に行われてきたことだから、「ちょっと隣の島まで」という感覚でいたし、冒険にはしたくなかった。
母島への道中で恐怖を感じることは無かった。沖港ではなく、北港へ入ったこと以外はほぼ計画通りだし、想定内であった。もしも、あのまま夜通しでも航海は続けられたとは思う。そういう意味ではいい自信になった。
だが、このたびの騒動で悔やまれるのは明確な意思、モチベーションを持ったうえでのサポート班を設定しなかったことである。今回は成り行きで千花ちゃんに定時連絡等をお願いすることになった。しかし、定時連絡は機能せず千花ちゃんには自分たちには想像を絶するストレスを与えた。今騒動の最大の被害者は彼女だと思う。元々、遊びで好きでやっていることである。誰かに頼まれたから、ヒーローになりたいからやっていることではい。カヌー、海が好きなクルーが集まって、自分たちのためにやっているのである。だから、誰かに頼んだりということは避けていかなくてはいけない。出かけていく側、送り出す側も同じクルーなんだという気持ちでいないと上手くいかないのは当然である。今後はそういうつもりでことに当たりたいと思う。これからさらに遊びのレベルが上がっていく。今回の件を良い糧としたい。
清水良一
今回、OOCCの大出君が企画したこの航海への参加は、かなり楽しみなことでした。この航海への大出君の情熱は熱く毎日のようにカヌーを改造し、帆走の練習に励んでいた姿に、私自身も感じるものがありました。要会の目的の一つでもある、アウトリガーカヌーの伝統の復活に大きな意味のあることと思い、要会からの予算提供を考えました。
当初、カラマ号での帆走はかなりのリスクがあると感じました。しかし、大出君の情熱による船と帆走システムの改造改良により日々違う乗り物に変わっていきました。また、今回参加したクルーのチームワークも向上し、出発前の最終練習ではかなりのコンディションまで対応できることを確認しました。そして、この船とクルーで母島へ行くことはコンディションさえ整えば可能だと確信しました。
また、4人のクルーの関係の中でステアマンとしての大出君に遠慮が無いようにと、私の立場は1クルーとして参加をしていこうと考えました。
以下に今航海で私が感じた問題点、原因を列挙します。
問題点
1 この航海をサポートする人が家族しかいなかったこと。
2 サポートする家族とのコミュニケーション不足。
3 携帯電話という物の機能と責任義務の欠如。
4 航海及びもしもの時の自分たちの対処に集中しすぎて、家族の対処の仕方を考えていなかった。
5 母島のサポートしてくれる人を確定していなかった。
原因
1 周りの家族仲間たちとのコミュニケーション不足
2 今回の航海に対する難易度の評価をクルーとサポートする家族と周りの仲間の意識がずれていた。
3 冒険には二つのタイプがあると思う。一つは、オープンに情報を共有していくタイプ。もう一つはクローズにして秘密にやるタイプ。この島に住みこの島をフィールドにする場合は後者のタイプは不可能になりつつあることを気付いていなかった。
対策
コミュニケーションの回復。今回の報告書の作成はこのことを意味する。
今回の航海に関わり捜索、ご心配をかけた皆様に感謝とお詫びを申し上げて私の感想と致します。
今回の母島航海について
那須直也
はじめに、私は今回のこの個人のレポートを書くつもりはありませんでした。今回の航海についての記述、事件についての多方面からの事実、見解、今後の対策を載せるものだと考え、クルー個人の感想等を言えた立場ではないと解釈したからです。報告書はあくまで報告書、それ以外は別書にするべきだと思っておりましたが要望がありましたので、ここに感想を交えたレポートを書かせていただきます。
率直に申し上げれば、急ぎすぎた、と思います。
自分個人もしくは、自分個人だけの視野で見える範囲だけでしか判断する能力が無い、ということなのだと思います。今回の様な活動、大小組織編成を纏めるだけの能力が弱小だということです。仮に私自身が1人で行動するのと、数人で行動する場合の違いの難しさです。一人であれば何かあった場合に叱咤でも誹謗中傷でもすべて自分で受けることができます。しかし大抵の活動というものは複数行動になるわけで、その組織の中だけの人間でもその数だけ頭脳があります。そのそれぞれの世界感を1つの方向性に統一するのは口で言うほど簡単ではありません。100%は必ず無理としても60%くらいの互換性が限界だと思います。その中でも前に進みたいというのであれば、自分ができる以上の事前活動をしなくてはならない、それがまったくいい加減であったということなのだと思います。主観でものを言えば“やったつもりだと”と片付けてしまう、結局自己満足、知識、経験はもちろん“才能”も大きな要素としてでてくるものです。正直、いつか良い意味で大きな失敗できるといいな、と思っていました(今回とは思っていませんでしたが)。カヌーに限らず扇浦の祭りでも、自分が見た範囲でうまくできたと勘違いしながら進んでいるだけで、いつも反省していても喉元過ぎれば忘却してしまうという事実が変わらないからです。
それでも良い、と言うのであれば本当に内輪だけで行動すること、それでもかける周囲への迷惑は顧みず、誰にも頼らず生きて行くこと。ほとんどの人間が出来ない筈ですが。
でなければ、自分の力を過信せず、周りの全てにリスクペクトしながら広い視野と感情を日々養う努力を忘れないこと。私も含め皆、口で言うほど言動が一致していないのが現状です。
私自身は、今後も継続的にカヌーの活動をしていきます。今回はそういう意味でものすごく多くものを一遍に学んだ機会でした。唯一プラスになったものです。言う立場に無い私ではありますが、全ては失敗からしか学べません。そして恐れてもいません。怪我の功名はいいとして、当たり前の話をさせていただきます。
集団活動には確固とした 目標
計画
計画を遂行できるクルーの選出
全てを完遂できるリーダー
特に外部の資金を必要とするのであれば一つでも弱いところがあれば前に進むべきではない。自分にそう言い聞かせられた、事件でした。
最後にご迷惑をおかけした皆様に深くお詫び申し上げます。
・佐藤氏 (小笠原島漁業協同組合)と話して
今航海での遭難騒ぎの際に、清水千花ら(父島待機班)の小笠原島漁協との窓口となった佐藤氏と当時のことをお話しする機会を頂きました。以下に佐藤氏にお答えいただいた内容を列挙していきます。
① 最初に千花さんから話を持ちかけられた時はどうでしたか?
「とにかくパニックになっていた。あるはずの連絡が無く、あのような状況だったらしょうがないと思う。暗くなる前に探さなくては、見つけなくてはいけないと思った。」
② 今回のようなケースでは漁協はどのような対応となるか?
「例えば、小笠原島漁業協同組合の遊漁部に所属している船が遭難した場合は、漁協が無償で全面的に捜索する。その際には、指揮系統を確立し、出港可能な船は全て捜索のために出港する。」
「漁協は、基本的に海上保安署からの正式な要請が出なければ何も出来ない。漁協独自での捜索はしない。それは、二重遭難、さらには闇雲な捜索は効果的では無いから。まずは、正確な情報が必要である。今回のケースではなにも知らないから最初は動き様が無かった」
③ 漁協の捜索までの流れは?
「保安署からどれくらいの規模(何隻出すか)どのように(場所)捜索するかの指示がでる。今回の場合は、父島から3隻、母島から2隻出港するようにと指示がでる。そして組合長の決裁を仰ぎ、指揮者を決定する(今回は副組合長の石井勝彦氏)。次に、出港可能でなるべく大きな船を手配する(当日は時化ていたし、一隻に多くの人員を載せられる等の理由から)。漁業無線で捜索に迎える船に呼び掛けた。」
「早朝、早い段階で転覆したことを想定して北は兄島瀬戸まで捜索に行った。早朝(5時くらい)南に漁に向かった優漁丸からはそれらしきものが見えていたらしい。南島を交わしたくらいでしょ波を食らって転覆した可能性が考えられていた。そして、西に流されているのではないかと思いその周辺を捜索していた。また、捜索にでた漁船には海上保安署の署員も同乗していた。捜索に出たのは大体3時くらいだった。発見の連絡を聞いて帰港したのは6時くらいだった。」
④ 今後どうすればいいか?
「今後、このような航海をやるときは、漁協を始め関係各所に文書を提出する。夏の祭りのカヌーレースでも提出している。その方が無難。事前に知っていれば動きやすい。漁船も遊漁船でも万が一の時に動ける船を確定させておく。」
「実績を積むことが大事。謙虚になること。自分たちの中でルール作りをする。今回は、いきなりステップアップしすぎたかもしれない。自分たちではそんなつもりでなくても漁師も含めて周囲は今回の海況は決して容易くはないと思っている。カヌーのことを知らない人からしたら想像を絶する話なんだから。日本人はハワイやポリネシアみたいな海洋民族ではない。カヌーや海に対する考え方も違うんだから。」
「今回のクルーは止めても聞かないだろうけど、もう少し周りのことを考えて行動するように」
清水千花
今回の遠征について何回かの打ち合わせ会を我が家でやっていた為、計画からずっと関わってきました。
打ち合わせ会の中で、事故、遭難、捜索などについても話し合っていましたが一応
「暗くなっても到着の連絡が無かったら海保 (海上保安署)」
となっていました。
しかし実際、朝の6時に定時連絡が取れなくなり、2時の時点で8時間経過し、日没まで3時間…
「手遅れになったら、取り返しがつかない」という思いで捜索依頼の決断に至りました。
今まで、何回かカヤックやアウトリガーカヌーの母島遠征の待機班を経験してきました。しかし、前回までは通信手段を装備せず、到着の一報が来るまでひたすら祈って信じて待つのみでした。
いつも、良い通信手段があればと模索をしていました。そして、今回、イリジウム携帯電話をレンタルして使用することになり安心感を覚えていましたが、起こり得る状況の想定が出来なくて逆に大きな落とし穴になってしまいました。
とにかく、今回の件で大勢の方に多大なる迷惑、心配をかける事態にしてしまった事に対し、私の感じた (問題点、原因、改善点) については以下の表にまとめましたが、クルーの近くにいた者の1人としてもう少し早く色んな事に気付き準備したり、話し合えていたらという送り出す側の責任というものもあると感じました。
問題点・改善・
問題点 原因
定時連絡 ・定時連絡が機能しなかった。
・通信手段、現在位置の連絡手段がイリジウム携帯電話しか準備していなかった。 ・初めてのイリジウム携帯の使用で理解が不十分だった。
・連絡内容を決めていなかったので、必要なことを聞かないで通話を終了した。
・3回コールで切れば無事という約束事になっていた。
・イリジウム携帯電話さえあれば大丈夫という認識。
・もし携帯電話が使用できない場合を想定していなかった。
サポート班 サポート体制の不備。 一人では、定時連絡等の時に負担がかかりすぎた。また、母島側にも、事前の依頼が無いまま、成り行きでサポートしてもらう事態を招いた。
サポート班 ・サポート側の計画の理解が不十分だった。
・どのような航路をとるか?
・出港を決断した根拠?
・タイムスケジュール。
・保安署、母島との話し合いはどうなっている?
・装備何をもっているのか?
捜索について ・捜索の決断が困難。
・ユリ丸から見えなかったという船長からの情報が捜索を依頼するという原因になった。 ・計画についての理解が不十分。
・経験、知識が不十分。
・相談出来る人と連絡体制がとれていなかった。
・周囲 (今回はユリ丸)からどの程度見えるのか分かっていなかった。 ・計画についての理解
・経験、知識ある人がサポート隊に入るべき。
・起こりうる事故のパターン等シュミレーションしておく。
・何時までに決断するか決めておく。
・捜索についての知識
計画 ・天気、海況、力量等から周囲の人が不安になる。 ・周囲が計画についての理解が不十分。
・何故この時期に実施すのか?
・祭りに参加するためと無理していないか。
・カヌーの力量を知り、海の知識を持った人が説明できるか?
・周りの人が納得するほど、練習は十分だったか? ・引き継ぎを十分にしていくこと。
・計画に十分時間をかける。
・イベント事と重ならない日程にしたほうが無難?(なにかあった時に普段よりも迷惑がかかる。)
コミュニケーション クルー(行く人)、サポート側 (送り出す側) のコミュニケーションが円滑ではない。 ・夫婦、友人、知人間でのコミュニケーションのトラブルが起こりがち。
・言っても聞かないだろうとあきらめムードになる。
・遠征に対する盛り上がりの温度差。
・切羽詰まった計画で話し合う時間、余裕が無い。 ・お互いに理解しあえるまで話し合う。
・計画に時間をかける。
宮崎雅司氏 からのコメント
今騒動において、多岐に渡り御尽力、御配慮頂いた宮崎雅司氏(母島在住)から今航海へのコメントを頂きましたので列挙させていただきます。
・母島としては梅野さんをはじめ事前連絡が急すぎました。計画は かなり以前からあったはずなので、宿泊先としてはもっと前もって話してほしいとの事でした。
・本来、天候に合わせて航海するはずが、祭りに合わせて急いで出た為に、今回の騒ぎに繋がったと思います。しっかりとした計画、サポート側、受け入れ側の準備ができて、さらに祭りではなく、天候に合わせて航海しましょう。実際、楽しい祭りの最中も心配で楽しめなかった人がいました。
・母島で無事集落に戻って、各所挨拶に周ったのは良かったと思います。やりたいほうだいができない田舎なので、こういったことはとても大事です。ですが、信用をなくしたのもまた事実。しばらく、母島へはカヌーでは来ないほうが無難です。
こんな感じです。
少々辛口ですみません。
今後の活動に期待します。
お疲れ様でした♪
最後に 両角 健太
シンタローから、今回の航海に誘われた時はとても興奮していました。島に来て2年が経ち、サーフスキーで父島、兄島、弟島は回ったし、次は母島かケータか?へという思いがあったからです。私が漕いできたのはあくまで岸沿いであり、陸から最大で25km離れた所ではどんな風景が見れるのか?どんなうねり、風を感じられるのか?そのような思いで当日までを過ごしました。
当日、月明かりを頼りに扇浦を出発して、西に月を見送りながら、東から太陽を迎えた感動は実際にその場にいたものでしか分からないと思います。南島を超え、島影に隠れていたから感じなかったうねりを感じるようになり、日が昇るにつれ母島の姿が見えるようになるにつれ、自然と「今度は1人でここに来たいな」と思っていたような気がします。
また、道中パドリングしていて、母島で状況を知らされてからの行動も含めた上で、改めてシンタロー、清水さん、那須さんの性格が少し理解出来たと思うし、私自身の性格もさらけ出した思う。今後、このグループにおいて私が担っていけるポジションというものも分かったような気がしました。今後、より強固なクルーワークが求められる時に今回の経験は大きな糧になるだろうと思います
遠征では様々な問題が噴出しました。しかし、この時点で諸問題が明るみに出たことは良かったことだと思います。今後、より遠くの場所へ、よりハードなシチュエーションの中で出かけていくことがあるもしれません。それは、硫黄島へなのか、ハワイへなのか、ヤップへなのかは分かりませんが、その時への良い糧になるであろうとクルーは思っています。
最後に、今回の遠征では多くの人に多大なご心配とご迷惑をおかけしましたことを、謹んで謝罪を申し上げると同時に感謝の意を表します。今後も同様のチャレンジを計画するかもしれません。ですが、このような騒動を引き起こさないように物理的に精神的に万全の準備をしてから事に臨む所存です。どうか御高配を賜りますようによろしくお願います。
2011年5月