ひな菊の丘から

命日

今日は亡父の命日。
9年前の日曜の朝、前夜のバカ騒ぎで頭が働かないまま、携帯を見ると、長女からのメール。私がいるのは岡山、美星町のフェス会場。何やろなあ、と思いつつ朝ごはんの支度をしていると、次女が「アネがメールに返信ないけど、早く電話ちょうだい、って伝えて、ってメールしてきた。」と言いに来た。一体何事、と思いながら電話をすると、既に泣き声の娘から、父が先ほど亡くなった、と聞かされた。長期で入院していた父を、このフェスが終わったらしばらくぶりにお見舞いに行こうと思っていた。出発する前、母に「じいちゃんどう?」と聞くと、今は落ち着いてるわ、との返事。体調は決して良くはなかったけど、すぐどうこうという症状ではなかった。まあ、それを確認していたから出かけたのではあるが。

すぐ準備をして、お世話になったフェス主催者、スタッフの皆さんにご挨拶もそこそこに大阪に向けて出発した。気持ちは焦っても、どうしようもなく、物理的な移動時間は確実にかかるわけで、ここでうちの車が事故ったらえらいこっちゃ、と思い相方には「安全運転でね」とお願いした覚えがある。実はここから1週間ほど、記憶は断片的にしか残っていないのだが。


既に父は病院から葬儀場へ運ばれていて、控室には母、妹、弟一家とうちの子どもたちが揃っていた。母は葬儀告別式の相談をしており、子どもたちはお腹が空いた、というので斜め向かいにある回転寿司に揃って行かせた。良く回っていない頭で、その時は何をしていたのだろう?父の湯灌は皆でやったな。

亡くなった時の様子を聞くと、当日の朝も看護師さんと喋っていて、ジュースを飲みたいからと起き上がって、そのまま倒れてしまったとのこと。近くにいても、家族は誰も間に合わなかった。

賑やかなことが好きで、友人がたくさんいた父も、現役を離れて久しいので、静かなお葬式かと思っていたが、本当に大勢の方が弔問に来てくださった。私や相方の友人、職場の方々も。闘病生活が長かったので、ある程度の覚悟はしていたものの、やはり急な別れには気持ちが付いて行かない、しかも私はその時遠方で遊んでいた訳で、これがトラウマになって、美星のフェスをこれから楽しめなくなるんじゃないか、とそんな気もしていた。少なくとも、フェスに行ってて親の死に目に会えなかった、という事実は私の心に深い傷になって残った。でも。

今、ものすごくわがまま勝手な思いを言うと、父は私がフェス土曜日のメインのステージを全部楽しんで、夜中のバカ騒ぎも堪能して、夫がちゃんと車を運転して帰ることができるまで、待っててくれたのかなあ、と。
いつもいつも、実家に行くたびに、「お前はまだギター弾いてふらふら遊んでるんか。」と半分呆れたみたいに口にしてたけど、晩年は諦めたのか「またキャンプに行くんか、よう飽きへんな。」という言葉に変わっていた。若い頃は怖いばっかりだった父だったが、孫が生まれてからは、誰?別人?って思う位アマアマなおじいちゃんに変身してしまい、子どもたちが幼い頃は、夫婦二人で遊びに行くのに(フェスだと泊りがけになる)実家に預けていて、母はたいへんだっただろうけど、父は喜んでいたのを思い出す。

心配していた美星フェスへの参加も、翌年は法事で欠席、その次の年も大幅遅刻で、実はドキドキしていたのだが、父の代わりに連れて行った保温水筒(病院で使ってたやつ)に、「ほらな、じいちゃん、こんな楽しいところやねんで。」って報告したら、やっぱり大好きな美星は大好きなままだったことに心からほっとした。去年と今年は、コロナの関係でフェス自体が中止、まだまだ先が見えないけど、来年は父があっちで苦笑いするほど賑やかに楽しめたらいいのになあ、と思っている。

実家の仏壇(ヘリンボーンのバインディング付き)の前には、煮〆、焼き鯖、鶏とゴボウでお出汁を取った蕎麦、喜八洲の安倍川餅、稲荷寿司、天ぷらなど父の好物が大量にお供えしてあった。

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