沖縄の駄菓子。。

2004年12月19日 | 食べ物
子供の頃、学校が終わって「道草をくう」といえば駄菓子屋でした。

僕のポケットには10円玉が2枚。
友達と学校の階段を駆け下りて一目散に走っていきます。
もちろん毎日お金を持ってるわけではなかったのでたまにでしたけど(^^)

その時よく買っていたお菓子のお話。

そのお菓子は20円で一枚でした。
その名は。。。


「塩せんべい」

文字通り塩味が聞いた一品で、
そのカリッ、バリッという食感は老若男女の心を捉えて離しません。



しばらく食べてなかったのですが、
このあいだファミリーマートに売ってるのを発見して買ってしまいました。

自分で買うのはほんと小学校中学校以来だと思います。
一枚、一枚、バリバリ食べていくとなんだか懐かしい気分になりました。
シンプルな塩味がとってもうまいんですよ(^^)!

この塩せんべいは沖縄にしかないんですかね??


そして何よりうれしかったのは


塩せんべいにチョコがついていた事!!
子供のころ、ポケットに30円入ってる時は20円で塩せんべいを買い、
残りの10円でこのチョコを買って食べていたんです。

さっそく塗りたくって一口いただきました。
懐かしい味が広がります。

でも・・・
子供の頃食べた時ほどうまいなぁ、とは思えませんでした。

月日が経ち、大人になって僕の味覚が変わってしまったのかなぁ。


PS...
みなさんはどんな駄菓子を食べて育ちましたか(^^)?



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2004年12月19日 | 沖縄 
♪お玉つれづれ日記♪さんの空の神兵を読んで。

そこにはお玉さんが触れ合ったご老人のお話がありました。
それを読んで僕のある記憶が頭の中から引っ張りだされてきました。

19の冬、いまだ中国留学中の身だったのですが、
学費を稼ぐ為に一時帰国した時のことなんです。

ぼくは知り合いのつてで観葉植物のアルバイトをしていました。
とにかく鉢を運んだり苗を植えたりと雑用的な肉体労働です。



そこにあるじぃちゃんがいました。
寡黙で足腰も強く、バリバリ働きます。
そのじぃちゃんはオーナーのお父さんでした。
90近いという話を聞いた時はとても信じられませんでしたけど。


最初はあまり口も聞きませんでしたが、
ある時僕が中国へ留学していると言うのを聞いた時に
急に懐かしそうな顔をして、




「私も中国へ行ったことがあるよ」




と僕に言いました。

それは戦争の話。
ひどく遠い昔の話をするように
断続的にぽつり、ぽつりと僕に話してくれました。

一緒に聞いていたオーナーさんですら聞いた事ない話を。


沖縄から徴兵されたそのじぃちゃんは中国大陸へと渡ります。
そこで通信兵として配属されたといっていました。

「中国はものすごく広い国だった、例えば遠くに山が見えるのだが、それに向かって行軍するんだが歩けども歩けども一向に距離が縮まらない、四日目にしてやっとついたことがあった」

あの時代、すべての移動は自分の足だったという事に驚いた。
僕自身少なからず中国という国のでかさは知っている、
だかそれは電車やバスを使った上での話しだ。

中国の大地をバスで移動していると景色が全く変化しない時がある。
いったい自分がどこを走ってるのかすらわからないぐらいに。

それを歩いて行ったというのだからどれくらい大変なのかは想像もできない。
バスで移動するにもかなり大変だったから。。。

その事実だけでも僕はじぃちゃんを尊敬する。
そういう行軍があったからこそ、今の足腰の強さがあるのかもしれない。




僕がじぃちゃんと会えるのは週に2回、わずかな休憩時間の間だけだった。
そのわずかな時間に毎回ではなかったが、ぽつり、ぽつり話してくれる内容。

「今考えたらあれは海外旅行にいったと思えばいいんじゃないかな、僕も若かったが、色々な場所を見ることができたし、たくさんの人に出会う事ができた。」


ぼくに気を使ってか戦闘のことなどは話してくれなかった。


最近僕は戦中の通信兵の写真を見る機会があった。
それは戦闘の最前線から作戦本部へと情報を送る仕事。
それがどれだけ生半可な事ではないのか、かんがえてみたらわかる。
銃弾が飛び交うなかを這いずり回りながら戦況を把握し
黒電話を貧弱にしたような機械で本部へと伝えなくてはいけないのだ。



「昔の方(日本軍の将校)はとてもできた人が多かった。戦争で多くの人をなくし、とても残念だ。」





「中国の方もいい人がたくさんいた。終戦直後、私は中国の南部にいて日本へと引き上げる途中だったのだが、その時に助けてもらった中国人の一家がいる。私が沖縄出身だという事を聞いて助けてくれたんだ。「琉球の人は元々中国人の親戚のようなものだから」とそういって。中国から引き上げる時に「絶対も一度会いに行く」と約束をしたんだ。だけど戦後焼け野原となった沖縄で生活もままならない。いつしか時が過ぎて今になってしまった。僕の人生で唯一心残りがあるとすればその事だけだ。今となっては連絡も取り様がない。。。」




一つ一つの話に驚きを隠せない。

その時代からわずか50年ほど前には琉球という国が存在したこと。
中国の方が「沖縄出身」というだけで見知らぬ他人を助けてくれたこと。
儒教の流れなのか、歴史というのが生きていた時の話。

ぼくは「そんなことないですよ、一度その地を訪れてみてはどうですか?」
なんて軽々しく言う事はできなかった。

じぃちゃんなりにとても複雑な思いがあるのは明白だったから。
ぼくが中国に留学して、そこにすんでいたからこそそんな話を聞かせてくれたんじゃないかな。




そんなじぃちゃんとはちゃんと挨拶もできないままバイトが終わってしまい、
授業にでるべく僕はまたいそいそと中国・北京へと戻った。
生の時代背景を聞いてきた分、色々なことを考えながら。

もうひとつ特筆しておきたいのが、じぃちゃんの日本語が完璧だったということ。
今沖縄のおじーおばーと話すのならかなり流暢なうちなー口がつかえないと無理だ。
僕が何を言ってるのか理解できないから。

でもこのじぃちゃんは通信兵をしていたから日本語をばっちり話せたのだろう。
でも戦争のことは誰がも口をつぐむ。

戦後、アメリカ指導のもと戦争はすべて悪だと教えられて育った子供達とはどうしても溝ができるだろうから。
じぃちゃんたちにはじぃちゃんたちの命がけの青春があったんじゃないかな。。



それを「戦争はすべて悪だから・・」と子供や孫に言われるのは。。。。
僕の意見だけど「かわいそうだな。。」と思う。
友達や仲間が死んだりするの事もあったし、つらいこともたくさんあったと思うから。

なんでも切り捨てるのはあまりにもかわいそうだな。。
だからその年代の人は言いたくても言えない話があると思う。。。。





あるサイトを検索中に見つけました。
ある通信兵のはなし

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