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さてなにげに連日映画ざんまいだが、今日のは上映時間2時間49分と言う大作。あまりフラッと観に行くような類いの作品ではない。そして、神保町の岩波ホールに到着してみると長蛇の列!ラーメン屋の行列とか、新しいウィンドウズの発売とかの祭りは時々報道などで知ることができるが、こういう単館上映作品がこんなに盛り上がるものなのか(ちなみに並んでいるのは現役引退世代。つまり平日でもこんな状態)。床屋に寄ってから、なんて甘い考えは捨てて列に並ぶことに。まだ開演まで1時間あるのになあ。
これは退屈な映画。この映画は観る者に辛抱を強いる。3時間近い上映中、あちこちで居眠りの寝息や脚を組み換える音がして(そもそもそんな雑音が聞こえるくらい静かな映画)、おそらくこの作品、ホームビデオで観たら絶対に最後まで観れないだろう。劇場だから耐えられる作品。
もちろんこれは誉め言葉である。俗世間との関係を一切断ち、神のためにのみ生きる、と言う行為を3時間弱体験するための体験映画だと思う。何か厳しい修行がある訳ではない。しかし日常生活でほとんど私語は許されず、時々労働もするが1日の大半は聖書を読むこと、礼拝すること、それだけが生活のサイクル。3時間ごときで音を上げてはならない。
おそらく、こんな修道院に入る人には様々な事情があるに違いない、犯罪を犯して世間からつま弾きにされたり、事故で家族を失ったり。病院ではないので不治の病の人はいないが、視覚障害者はいる。いずれにせよ、私語厳禁なくらいであるから、長い尺にも関わらず、そこで暮らす僧へのインタビューは3分に満たない。もちろん、現在の心境も語られない(もしかすると退屈に耐えきれずに逃げ出す人もいるのではないか)。とにかく、スクリーンには黙々と山の奥深くの修道院で暮らす僧たちの日常の姿がこの作品の全て。
現代の日本では宗教と政治がごっちゃになっている感があるが(私たちが宗教に接するのは年間行事を覗けばうざい勧誘活動に巻き込まれる時だったり、イスラム教=テロリスト集団みたいな安易な刷り込みがされていたり)、仏教でも頭を丸めて出家すれば政治どころか俗世間との関係を完全に断つ。まさに純宗教的な映画。どうも俗なものを捨てる覚悟として“頭を丸める”と言うのは洋の東西を問わないらしい。
とりあえず、人生の価値を“夢を持ち、その夢に向かって進む”ことが現代日本では刷り込まれているが、この質素で甘い誘惑を一切断った修道士たちの姿を観に長い行列ができるのも事実。『台風が来て全てを奪い、地震が来て大地を破壊したが、それでも主は来られなかった』、それをもってなお信仰に生き、少しでも神に近づこうとするのほ、一部の先進国を除けば当たり前の姿である。先進国のフランスですらこの修道院の門を叩く人が途切れることはない。
修道士の顔には、喜びも悲しみもない。あるのはひたすら悟りを開いた者の平穏な表情である。鐘の音、修道士たちの歌うグレゴリオ聖歌だけが唯一のBGM、それがまた美しい。中世からほとんど変わっていないと言われる、人類の信仰の素朴な姿。