時は明和五(一七六八)年秋、江戸の外れ谷中の笠森稲荷の水茶屋’鍵屋’に一人の武士が一休みするために入って行った。
茶を運んできた娘に、
(なんて美しい娘なんだろう)と、武士が見とれてしまった。
この武士、太田南畝と言い、当時十九歳で幕臣として勘定役を務めていた。
独学で和漢の故事典則を学び、江戸風俗に通じまた、狂歌にも長じていた。
南畝は、この年になってはじめて一目ぼれをした自分に苦笑してしまった。
茶を飲み終わって、店を出て知り合いの浮世絵師鈴木春信(四十四歳)の住んでいる神田白壁町の家に行って、水茶屋の娘の話をした。
春信は役者の錦絵を主に描いていたが、その娘の話を聞いて興味を持ち、翌日さっそく笠森稲荷に出かけて行った。
茶屋は繁盛していた。
縁台に座ると、しばらくしてから茶を娘が運んできた。
春信は一目見て、その娘に魅かれてしまった。
「娘御、名前は?」と、春信は居てもたってもいられずに聞いた。
「お仙と、申します。」と、その娘は鈴を転がしたような声で答えた。
お仙、十八歳であった。
お仙は色白で、うりざね顔そして、涼しげな眼をしたしなやかな体つきをしていた。
燈籠鬢・島田髷を結って、大小あられの小紋の小袖が良く似合っていた。
今日は、ひとまず春信は帰ることにして、茶代を払った。
春信は、家に帰ってもお仙のことが頭から離れない、なんとか絵にできないかと考えていたときに、同じ町内に住んでいる平賀源内(四十歳)が訪ねてきた。
平賀源内、享保十三(一七二八)年、讃岐の高松藩下級武士の家に生まれた。若き頃より本草学を学ぶとともに、長崎でオランダの科学も学んだ。そして、今から十一年前に江戸に来たのだが、主家から暇を出され浪人の生活を送っていた。
この時代は十代将軍徳川家治の執政の元、田沼意次が積極的な経済政策を推し進めており、江戸は文化も栄え、活気に溢れていた。
学問では、蘭学が興り、文学方面では、川柳、狂歌、黄表紙、洒落本などの風俗や人情を書きつづった大衆小説も盛んになっていた。
また、芸能面では歌舞伎においては二代目瀬川菊之丞が女形で人気を集めた。また、江戸浄瑠璃も流行った。
美術の世界、特に浮世絵では、二、三色摺りによる木版画紅摺絵を何色も重ね摺る東錦絵へと飛躍した。この時、中核にいたのが源内で、彼の周辺には南畝や春信らの多くの文化人が集まっていた。
春信は、「源内さん、笠森稲荷の水茶屋にお仙という娘がいるんだが、めっぽう美人で驚いたよ。」と言った。
源 内は翌日、笠森稲荷に行って、お仙を見てきて、
春信の家に昼ごろ訪ねた。
「春信さん、お仙さんに一目ぼれだよ。」と嬉しそうに言った。
しばらくすると、南畝もやって来た。
「源内さん、この間発明した‘タルモメートル(寒暖計)’売れましたか。」と、早速南畝は聞いた。
「まったく、皆信用してないのか、不思議そうに見るだけで買い手がつかないんだよ。」と、苦笑いした。
「今、源内さんと、美人の娘さんを江戸町民に売り込もうかと話をしているのだが、誰がよいかと悩んでいるんだ。今候補に挙がっているのは、浅草の茶屋蔦谷のお芳さん、浅草寺裏の楊枝売りの本柳屋仁平次の娘お藤さんそして、南畝さんが見つけてきた笠森稲荷の水茶屋鍵屋五兵衛の娘お仙さんの三人なんだが。」と、春信はいっきに話した。
南畝は、「お仙さんは磨かずしてきれいに容をつくらずして美人です、また、お藤さんは玉のような生娘とはこの方を言うのです。」と、南畝は二人を誉めあげた。
「南畝さん、それではどちらの娘さんにするか決まりませんね。」と、源内は笑いながら南畝を見た。
しばらくして、春信が「お藤さんは外見を飾って美しく見せているが、お仙さんは地で美しいのでお仙さんを私は描きたいのだが、どうだろうか。」と、二人に言った。
「お仙さんに決まりだ。」と、源内は言った。
「では、私はお仙さんの登場する作品を書いてみます。また、源内さんすみませんけど、去年の‘寝惚先生文集’と同様に序文を書いていただけませんか。」と、南畝は源内のほうに向かって頭を下げた。
「承知した。春信さんにお願いだが、南畝さんの作品にお仙さんの錦絵を挿絵として入れてもらえませんか。」と、今度は、源内は春信に向かって言った。
源内は、気鋭新進作家の太田南畝の将来を期待していたので、なんとか自分も力になってやりたいと常々考えていた。
南畝は一瞬驚いたが、すぐに春信に向かってそして、源内にも頭を下げた。
それから、十日間ぐらいの間、三人はそれぞれお仙のところに足繁く通った。
最初に行ったのは、春信でその翌日に行った。
相変わらず鍵屋は混んでいた。
そしてしばらくして、席が空いたので縁台に腰をかけた。
すぐに、お仙が茶を運んできた。
春信はここぞと、お仙に声をかけた。
「お仙ちゃん、私は、浮世絵師の鈴木春信という絵描です。」とそして、春信はお仙を絵に載せたいと、言ったが、
「おとっつあんと、おっかさんに相談してみます。」と、お仙は顔を赤らめ答えた。
その日は返事をもらえなかったので、春信は諦めて帰った。
その二日後、春信は昼過ぎにお仙に会いに行ったところ、お仙は奥に春信を連れて行った。
すると、お仙の父親五兵衛が出て来て、
「春信様、お仙をよろしくお願いしますだ。」と、頭を下げて頼んだ。
春信も「こちらこそよろしくお願いします。」と、丁重に頭を下げた。
それから、店が混んでいるので、細かい話は翌日の朝空いている時に来るからと言って、春信は茶屋を後にした。
そして、春信は、そのまま源内の家に行った。
源内の家には、南畝も来ていた。
さっそく、二人に、お仙たち一家が、喜んで話を承知してくれたことそして、細かい話は明日する予定であることも伝えた。
「春信さん、良かったですね。これから忙しくなりますよ。私も、お仙さんに会っていろいろ話を聞いて文を書きます。」と、南畝が嬉しそうに言った。
「春信さん、最初はどのような絵の構成にしますか。」と、源内は嬉しそうに聞いた。
「今、大店のご主人から見立絵を頼まれていますので、見立絵にしたいと思うのですが、どんな見立絵がよいのか悩んでいます。」
見立絵とは、簡単に言うと、古典的な画類を当世風に描いたもので‘雅’から‘俗’への変容を表す言葉である。
春信は謡曲の内容と関わりある絵の構成について、二人に相談した。
源内が「‘蟻通(ありとおし)’でどうですか。」と言った。
「どういう謡曲なんですか。」と、南畝が聞いた。
「話はこうです。紀貫之(平安前期の歌人で、古今和歌集の撰者として有名。また、『土佐日記』の作者、)が玉津島参詣のため蟻通神社まで来ると、俄に日が暮れて大雨となり、乗馬さえ倒れてしまいます。途方に暮れていると、年老いた宮人が現われ、この処は物咎めをする蟻通明神の境内であるから、そうと知って馬を乗り入れたのであれば、命がないと言われます。貫之が名を告げると、それでは和歌を詠じて神慮を慰めなさいと言われ、そこで‘雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは’と詠じると、宮人は感心し自分が蟻通明神である由を告げる。・・・という謡曲です。
和歌の徳を讃えるのを目的とした曲です。また、シテの宮人が傘と燈籠を持って現われるのも珍しいと言われています。」と、源内はいっきに説明した。
この中に出てくる蟻通神社は、現在大阪府泉佐野市に現存しているが、筆者は残念ながら行ったことが無い(単身赴任で大阪にいた時に行っておけばよかったと思ったが、良く考えてみるとその時はこの話を残念ながら、全く知らなかったのである。
話を戻そう。
「源内さん、それで行きましょう。下絵を考えてみます。またできたら来ます。」と喜んで、春信は帰って行った。
春信からお仙たちとの細かい話の内容について聞いた後に、南畝はお仙に会いに行った。
その後、南畝はひたすらお仙について書き続けていた。
源内は、ただお仙を見に行くだけだった。
この頃、源内は田沼意次に自分を売り込むのに忙しかった。
十月の初旬、春信は源内の長屋に下書きを持って行った。
その下書きは、激しい風雨に細い体をしならせて、宮へと向かっている絵である。鳥居を背景に、お仙が傘を掲げ、提灯を持っている。雨の夜、宮の前を通り過ぎようとした紀貫之を呼びとめた宮人をお仙の姿に置き換えたものであった。
「春信さん、なかなか良いですね。お仙さんの目をもう少し切れ長にしたらどうでしょうか。」と、源内は指でさした。
この時代の美人のあり様は、もう少し先に出る‘都風俗化粧伝’にこのように書かれている。
(目は顔の中央にありて、顔の恰好を引き立てる第一は凛と強きがよい。然れどもあまり大き過ぎたるは見苦し。無理に細き眼にせんとて、目を狭めるのはよくない。・・・)と、現在とはちょっと違うようである。
春信と源内がしばらく話していると、南畝がやって来た。
「南畝さん、できましたよ。」と、春信は源内の意見を取り入れた下書きを見せた。
「素晴らしいですね。春信さん、さすがです。」
この下書きを本摺りすることが決まった。
十日後、春信は摺りあがった錦絵を持って、源内の長屋を訪ねた。
「春信さん、美しく摺りあがりましたね。これはすごい。是非南畝さんにも見せないと。
一枚いただけませんか。」
「源内さんと南畝さんの分です。」
と、源内に二枚渡した。
春信は翌日、笠森のお仙に出来上がった錦絵を持って行った。
今日のお仙の髪は、髱(たぼ)と鬢(びん)を大きく張り出させて、生え際や襟足が引き立ち華やいで、また、青い縦縞の小袖に赤い前だれを掛けて、なお一層体がすらりと見え魅力的であった。
髱(たぼ)とは日本髪を結った際の後頭部の部分の髪をまた、鬢(びん)は頭髪の左右側面の部分を指す。
「わあ、すごく綺麗。春信さん、ありがとうございます。おとっつあんとおっかさんに見せてくる。」と言って、奥に入って行った。
しばらくすると、父親の五兵衛と母親のタエが出て来て春信に何度も頭を下げて礼を言った。
しばらく、奥で話をしていたが店のほうから客の声がしたので、春信は鍵屋を後にした。
そして、この錦絵を頼んできた大店の主人の所にこの絵を渡しに行った。
「春信さん、これはよくできている。本当に綺麗にできている。」と、大満足のようであった。
春信は早々に、大店を後にして源内の家に行った。
春信は、次に出す錦絵の下絵を源内に見せた。
「春信さん、今度は江戸の町人に売れますね。これも良いです。」と源内がほめた時に、南畝の声がして、部屋に入って来た。
「南畝さん、春信さんが挿絵を描いてくれましたよ。」と源内は嬉しそうに言って、下絵を南畝の前に置いた。
「これですか、すばらしいじゃないですか。」と南畝は驚いたように言った。
この絵は‘団子を持つ笠森お仙’と名付けられた。
後ろに鳥居、茶の縦縞の小袖を着たお仙が、右手に団子を持ち、体をやや左側に反らしひざ下から素足が覗いている姿が描かれていた。
「南畝さん、‘売飴土平伝’の序文を書きました。」と源内はその原稿を南畝に渡した。
この三人のなじみの版元から一ヶ月後戯作‘売飴土平伝’が売り出された。
当初予想していたよりも、順調に売れていた。
その後しばらくして、錦絵‘団子を持つ笠森お仙’も売り出されたが摺られていた二百枚は一日のうちに飛ぶように売れてしまった。
お仙の評判は湯屋で広まり、男だけでなく町娘もお仙の恰好に夢中になった。
一躍、お仙は今で言う‘江戸のファッションリーダー’にもなってしまったのである。
春信は引き続き、お仙を描きたいが良い案が浮かばないので、源内に相談を持ちかけた。
「春信さん、今歌舞伎が流行しており、また、最も人気ある役者は女形の瀬川菊之丞です。
この菊之丞をお仙さんと一緒に絵がいたらどうだろうか。人気がこれ以上出るのは間違いないと思いますよ。」と、源内は言った。
「なるほど、お仙さんと歌舞伎役者か。それは良い案です。」
そして、数日後春信は、出来た下絵を持って源内に評価を仰いだ。
‘笠森お仙と団扇売り’という題の絵が出来上がった。
その絵の構成は、背景には赤い鳥居、お仙は当代一の人気歌舞伎役者瀬川菊之丞の定紋が描かれている団扇を手にしている。
売り物の団扇には勝川春幸や一筆斎文調の役者絵をはったものを置いた。
また、菊之丞を団扇売りとして描いたものであった。
この錦絵も売り出したら爆発的に売れた。
これによりお仙の人気も確固たるものとなり、お仙の絵は草双紙(挿絵がついたかな書きの読み物)、双六(すごろく)、読売(瓦版のこと)にのるだけでなく、手拭いにも染められた。
また、森田座ではお仙の狂言を歌舞伎役者の初代中村松江が演じ大当たりした。
巷では、(向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげてざっと拝んでお仙の茶屋へ腰を掛けたら渋茶を出した。・・・)と唄われた。
春信は礼を言いに、源内の家を訪れた。
「春信さんが描いた絵、町では大評判ですよ。良かったですね。」と源内は嬉しそうに言った。
「源内さんのおかげで、もう版元は増刷でてんてこ舞いです。これ、些少ですけれど。」といって、源内の前に金子を差し出した。
源内は未だ浪人のため定期の収入が無く春信の好意に感謝した。
一方、お仙は相も変わらず鍵屋はお仙見たさで毎日、客が詰め掛けていたため、その応対に忙しかった。
お仙はあちらこちらから声をかけられるものの、身持ちがよく浮いた話は一つもなかった。
春信は仕事が一段落したところで、お仙の顔を見に笠森に行った。
「お仙さんの人気、すごいですね。よかったですね。」と、お仙に言ったところ、
「春信さん、人気が出たのは嬉しいですけれど、町に出ると皆がじろじろ見たり、声をかけたりで落ち着いて買い物も出来なくなってしまいました。」
春信は困った。
評判になってしまったら、役者と同じに見られるのはいたしかたないと春信は思うのだが、まだ若いお仙にとっては、いたたまれないことかもしれない。
春信は時間が経てば、評判になる前の生活に戻るようになると話をして、鍵屋を後にした。
それから、春信はずうっとお仙の言った言葉を忘れることができなかった。
(俺がお仙ちゃんに迷惑をかけたんだ。もしかして、取り返しがつかなくなったらどうしよう。)
そして、翌年の明和六(一七六九)年夏から仕事と精神的な疲れから寝込んでしまった。
その頃、源内は風来山人の作家名で‘放屁論’という評論を書き終わったころであった。
放屁論の原文の出だしはこうだ。
【人参呑で縊る癡漢あれば。河豚汁喰ふて長寿する男もあり。一度で父なし子孕む下女あれば。毎晩夜鷹買ふて鼻の無事なる奴あり。大そふなれど嗚呼天歟命歟。又。物の流行と不流行も時の仕合不仕合歟。・・・・・(訳)にんじんを飲んで養生しながら、首をくくると言った馬鹿者もあれば、ふぐを食って長生きをする男もいる。たった一度のことで父なし子をはらむ下女がいるかと思えば、毎晩・・・・・】
九月になって、源内は春信を見舞った。
「春信さん、御加減はいかがですか。仕事が忙しかったから疲れが出たんでしょう。この薬草を煎じて飲んで下さい、きっと元気になりますよ。」
「源内さん、ありがとう。」
「実は幕府から依頼されて、来月からオランダ語の翻訳をしに、長崎に行くことになりました。当分会えなくなります。」
「それは良かった。で、どのくらい行かれるのですか。」
「一年半ぐらいかと思います。」
源内の長崎行きは、田沼意次の世話で決まったようであったが、源内はやっと幕府に食い込めてうれしくてしょうがなかった。
*
そして、翌月源内は長崎に旅立って行った。
一方、源内の友人の杉田玄白に診てもらっているが、
春信の容態はいっこうに良くならずに明和七年になった。
二月になったある日、南畝が見舞いに来て、
「笠森稲荷の鍵屋のお仙が見えなくなったそうですよ。読売では、【とんだ茶釜(お仙のこと)が薬かん(禿げた父親)に化けた。】
と書かれていました。」と寂しそうに言った。
「南畝さん、私悪いことをお仙さんにしてしまったんです。悩んでいたんでしょうね。」
「いや、そんなことはないと思います。」
春信のやつれた姿が痛々しかった。
数日後、南畝は鍵屋をのぞいた。
客はわずかだった。
床几に座って、茶を持ってきたお仙の父親に聞いたがただ笑っているばかりであった。
そして、三か月後、南畝や玄白たちの介護もむなしく、明和七年六月十五日春信は鬼籍に入った。
その直後、南畝は春信を偲んで、『東錦絵を詠ず』という狂詩で【忽ち東錦絵と移ってより、一枚の紅摺枯れざる時、鳥居は何ぞ敢て春信にはかなわん。男女写しなす当世の姿】と詠った。
お仙がなぜいなくなったか、いろいろなうわさで江戸は騒がしかった。
ある者は、静かな所へ失踪したんだとか、ある者は横恋慕にあって、殺されたとか、
また、無理心中の噂も出ていた。
歴史は幕府旗本お庭番倉地政之助へ仮親の馬場善五兵衛の家から嫁いだことを伝えている。