沢藤南湘の本棚

小説&時代小説

苦闘 中大兄皇子 後編

2019-10-14 18:10:27 | 時代小説
第四話。出会い
 依然緊張状態が続きながらも、中大兄は十八歳の正月を迎えた。
(入鹿は、次に我を標的にするであろう)中大兄は、焦っていた。
一方、天皇家の復活を求める男がいた。
 皇極からの神祇伯(かんづかさのみや)の任用を再三固辞した中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。
(逆賊の蝦夷や入鹿のいる朝廷に勤めることはできん、何とか、奴らを朝廷から締め出さなければ。早くしないと、皇族たちが危ない。お上には申し訳ないが)
 鎌足は体の具合が悪いと皇極の使者に伝えて、摂津の国三島に引っ越して行った。

 【神祇伯とは、律令官制の二官の一つ神祇官の長官で、職掌は神祇の祭祀,大嘗(だいじょう),祝部(はふりべ),神戸(かんべ),御巫(みかんなぎ),卜兆(ぼくちょう)など司り神祇官を決済する役目を持つ職であった。
 この時代は、既に社〔やしろ〕を設けて神を祀る『はふり』という人々がいたようだ。
祝部は把笏〔はしゃく: 右手にて置笏してある笏尾を少し上げ、左手を差入れ笏頭まですりあげて、右膝頭に笏を直立し、左手は笏の中程まですり下げて左膝頭に置き、持笏の姿勢をとること。〕を許されていた。 職掌は、諸社の祭事、社殿の保全・修理等であった。
祝部は神戸の中から任用された。
神戸は、特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。
また、御巫は、神祇官に属し、神事に奉仕した女官。
卜兆は、神祇官に仕えた職員で、占いによる吉凶の判断をつかさどった。】

 鎌足は、明哲の主を求め、動いた。
 まず、皇極の弟の軽皇子に近づいたが、線の細さに目が付き、その器ではないことをすぐに看破した。
 月日が経っても、鎌足のめがねにかなった人材は見つからず虚脱感にさいなまれていた。
そのような時に、家来が中大兄の噂を聞き、その話を鎌足に伝えた。

翌日、飛鳥寺で催された打鞠を、多くの観衆の中の一人、鎌足がいた。前列の鎌足は、中大兄から一瞬たりとも目を離さすにいた。
皆が興奮してきたとき、
「あっ」と声が重なって発せられた。
 中大兄の靴が脱げ、鞠とともに鎌足の前に転がった。
 鎌足は、落ち着き払って、恭しく靴を拾い上げ、跪き、近づいて来た中大兄に謹んで差し出した。
「ありがとう」中大兄も跪き、恭しく受け取った。
「私は、中大兄と申す、そなたの名は」
「中臣鎌足と申します」
二人の視線が、一瞬鋭く交差したが、すぐに
中大兄は、目礼をし、靴を履き直し蹴鞠の輪に戻って行った。

中大兄は、蹴鞠が終わったのち館に戻って、近習の者から、中臣鎌足についての報告を受けた。
「殿下、中臣氏は、二流以下の伴造系の氏族で、蘇我大臣家の足元にも及ばぬ家柄でございますが、鎌足殿は、頭脳明晰との誉れが高いようです。宮廷では、鎌足殿の父上の代以来、蝦夷様や入鹿様に地位を脅かされているようでございます。お二人には、個人的な恨みだけでなく、宮廷での二人の専横を何とかしたいと天皇家のお味方を探しているようです」
「そうか、ご苦労であった」

 その後、中大兄と鎌足の関係は、挨拶から日が経つにつれ親密になり、蝦夷と入鹿打倒の策を二人で練るようになった。
「殿下、蘇我一族を内部から分裂させるために、倉山田麻呂殿をお味方にしたらいかがでしょうか。彼は、摩理勢殿が、蝦夷殿と入鹿殿に殺されたことに反発と不安を抱いています。入鹿殿は、それを見透かし、倉山田麻呂殿を疎外するようにしています。倉山田麻呂殿をお味方にすれば千人力です」


数日後、南淵請安の行の帰り道、鎌足が中大兄に言った。
「殿下、この間の倉山田麻呂殿をお味方にする話ですが、彼の娘をお妃として娶って姻戚関係を結んでいただけませんか。その後、倉山田麻呂殿に我々の計画を説明しようかと思っています」
「分かった。そちの方で話を進めてくれ」
 中大兄たちの計画は、現在の国体を唐のような先進的な律令制に変えるために思い切った改革を行うことであった。

 半月ほど経った契りの日、中大兄が倉山田麻呂の屋敷にやって来るほんの少し前に事件が起こった。

「殿様、お嬢様がいらっしゃいません」
 近習の者が、慌てふためいて板戸の前で言った。
「なに、居なくなったと。そんなはずはない、早く探せ」
 倉山田麻呂は怒鳴って娘の部屋に走った。

 部屋には、舎人が呆然と立ちすくんでいたが、倉山田麻呂の大声で我に返って、
「殿様、弟の蘇我臣日向様が、お嬢様を連れ去ったのを見たものが・・」
 倉山田麻呂は、途方に暮れた。

次女の遠智姫(おちのいらつめ)が、部屋に入ってきた。
「お父上様、どうされたのですか?」
 倉山田麻呂は、長女が連れ去られたことを話した。
 しばらくの沈黙を破って、
「お父上様、私を皇子様に進上なさってはいかがですか。遅くはないでしょう」 
 倉山田麻呂は、喜んだ。
中大兄に承知してもらうよう、遠智姫に言って部屋を出た。
中大兄は、遠智姫を気に入り、契りを早々に結んだ。

倉山田麻呂は、蝦夷と入鹿の言動を、逐次、中大兄に伝えた。
その情報を考慮しながら、策は練られていったが、入鹿の目が厳しく、それを避けるように隠密裏に事は進めるのには限界があると、中大兄は苛立った。
「鎌足、これではいつまでたっても、二人を倒すことができないではないか」
「殿下、味方を増やしましょう」
「誰を。心当たりはあるのか」
「宮内警備の佐伯子麻呂と武勇では一番の葛城網田の二人はどうでしょうか」
「任せる」
 
数日後、鎌足は二人を中大兄に引き合わせた。
二人は、緊張していたが、中大兄が酒を振る舞ったことにより、だいぶ多弁になってきた。
葛城網田が、訴えた。
「皇子、蝦夷たちの専横ぶりは頂点に達しています。大臣と入鹿殿が館を甘橿岡(あまかしおか)に建て、畏れ多くも、大臣の館を上の宮屋敷、入鹿殿の館を谷の宮屋敷と呼ばせ、またそれぞれの子達を皇子と言わせています」
 佐伯子麻呂も口を開いた。
「それだけでなく、館の外を固めています。砦の垣を造り、二つの門の近くには、武器庫も造っています」
「殿下、私も大臣について同じような話を聞いています」
 
 その後も、策は、中大兄、鎌足そして、倉山田麻呂の三人で練られた。
「殿下、大臣と入鹿は常に数十人の警固の兵士を引き連れていて、中々二人を討つのは難しいですぞ。二人を討つのではなく、失脚させる方法を考えた方がよろしいのでは」
「あの二人を失脚させる前に、我の命が無いわい。一日も早く彼らを討たねばならぬ」
「彼らに悟られてはまずいので、しばらく、我々はおとなしく機が来るのを待ちましょう」
「殿下、鎌足殿の言われる通りです、彼らは我々を疑い始めています」
「しかし、彼らを倒した後の制度改革については、詰めておかねばならん」
「殿下、それは南淵請安先生の庵で先生たちのお知恵も借りて案を作るようにしましょう。決して、その案を外に持ち出してはなりません」
「鎌足、そういたそう」

請安の屋敷で中大兄と鎌足は、律令の制定内容について、請安や僧旻そして、玄理たちを巻き込んで案の策定を推し進めて行った。
 中大兄は、それ以外に周孔の道(周とは、周公という名前の人間で、西周時期が卓越している政治家、軍事者、思想家、教育家は、儒学は先駆けて、後世の尊が”元聖”とされる。孔は孔子のことです。春秋時期が卓越している思想家、教育家は、儒家学派の創始者は、後世の尊が”至聖”とされています)、唐の制度、仏教および寺院の在り方について学んだ。
翌年(六四五年)六月八日、請安の庵を出て、中大兄が鎌足に言った。
「四日後、三韓の調が朝廷に持たされる。その時、大臣を討つ。倉山田麻呂達を前日、我が館に集めてくれ」
「承知いたしました」

 謀議が行われた。
「倉山田麻呂、そちが三韓の調の上表文をお上の前で読み上げてもらうことになっている。よいな」
「殿下、承知いたしました」
 倉山田麻呂は、震えていた。
「皆の者、これからいうことは、殿下が決められたことである。しかと聞いて、それぞれの役目、違えるでないぞ」
 鎌足は、細かな説明をした。
第五話。改新
当日、十二日の朝、鎌足が、中大兄に鎌足は念を押した。
「殿下、お考えは変わりませんか」
「入鹿を斬るしかない、後世なんと言われようと、今日斬る。渡来人にこの国を牛耳られてたまるものか」
 鎌足たちは、昨日の打ち合わせ通りに大極殿の外に身をひそめた。
入鹿が、剣を携えて、大極殿に入ろうとした時、入口の警備の者が、
「入鹿様、今日はお上の命令で、剣を持った人間は中には入れるなと命ぜられています。入鹿様の剣、お預かりします」
「儂を誰だと思っている、お上は儂が剣を持って入っても許すに違いない」
「そうは言っても、お上の命です。それに従わなければ、私は腹を切らねばなりません」
 と、腹を切るまねをし、苦渋の顔をした。
「分かった、お前に預ける」
 入鹿が、席についてしばらくすると、皇極が供を連れて、大極殿に入ってきた。
 皆が、平伏し、皇極は、玉座に腰を下ろした。
 儀式は始まった。
 儀式の進行を見据えていた中大兄は、衛門府を呼び、十二ある門すべてを閉門し、一人たりとも出入りをさせぬように命じた。
 だれも、中大兄の行動に不信を持つ者はいなかった。
 倉山田石川麻呂が、皇極の前に進み出でて、上表文を代読し始めた。
 鎌足は、大極殿の傍らに弓矢を持って、佐伯子麻呂と葛城網田とともに、潜んでいた。
 そして、持ってきた箱を空けて、二人に剣と槍を授けて言った。
「佐伯殿、葛城殿。油断せずに、不意を突いて斬りつけるのだ」
 佐伯は、今朝の飯は、恐怖のためほとんど吐いてしまい、顔色が悪い。また、葛城は、緊張のあまり、体の震えが止まらない。
「しっかりしろ」
 鎌足は、弓矢を置き、二人の背を推した。

 倉山田石川麻呂は、全身汗だくになり、声が乱れ、身体が震えだしたが、何とか読み終えた。
 近くに座していた入鹿が、不審そうな顔をして尋ねた。
「どうされたのか」
「お上のおそばに近いことが畏れ多く、不覚にも・・・・・」
(佐伯たちは何をやっているのだ、早くしないと入鹿に悟られてしまう)中大兄は、焦った。
「やあっ」
佐伯と葛城が現れ、中大兄の前を通り過ぎようとした時、葛城が槍に足が絡んで転倒した。
その瞬間、中大兄は、笏を懐に収めるや否や、槍を拾い上げ、
「私が、やる、どけ」
 と、素早く走り出で、呆然と立ちすくんでいた佐伯をどけ、入鹿の前に立ちはだかった。
「入鹿、覚悟!」
「中大兄皇子、一体・・」
 入鹿は、恐怖で顔から血の気が引いていた。
「しらばくれるな、お上の地位を奪わんとしていること、知れているぞ」
「畏れ多くも、この私が、お上の地位を奪うなどと。助けて下され」
 入鹿は、笏を片手に持ちながら、後ずさりして、皇極の前まで、助けを求めて行こうとした時、
「ヤーッ」
「ギャッ~。・・・気がふれたか、皇子」
 葛城が、剣を抜いて、猛然とやって来て、背を刺した。
 続いて、佐伯が片足を斬った。
 入鹿の足から血が吹き出し、板の間に飛び散った。
 中大兄たちも、返り血を衣冠束帯に浴びた。
 入鹿は、這って皇極の前になんとか辿り着いた。
「お上・・、皇位に坐すべきは、天の御子です。私に一体何の罪があるというのでしょうか。無念です。よくお調べください」
 中大兄は、さらに入鹿にとどめを刺そうと剣を抜いた。
「皇子、もうやめよ。なぜこのようのむごいことを」
 中大兄は、床に伏して、
「入鹿や一部の蘇我一族は、ことごとく天皇家を滅ぼして、皇位を傾けようとしました。どうして、天孫を渡来人の入鹿たちに代えられるでしょうか」
「よしなに」
 皇極は、席を蹴った。
 周りにいる群臣たちは、壁際で震えながら、皇極を見送った。
「騒がないで下さい。また、この部屋から一歩たりとも出ることを禁じます。わかりましたか」
 鎌足が、群臣たちに向かって言った。
 わずかにどよめいたが、反論する者はだれ一人いなかった。

 霧雨が舞っている中、近習の者が、筵を運んできた。
「上がって、入鹿を運べ」
 葛城が、自分を奮い立たせるように怒鳴った。
 中大兄は、佐伯と葛城達に官吏たちの見張り役として残し、門外に待たせておいた兵を率いて、飛鳥寺に入った。
「殿下、古人大兄皇子様は、既に館に戻って、門を閉め、戦の準備をしているようです」
 鎌足が、報告に来た。
「いつの間に。しばらく、様子を見るように」
 と伝え、すぐに海犬養連を呼び、入鹿の死骸を蝦夷の館に送りつけるよう命じた。
 鎌足たちは、既に寺を砦として防備を固め終わった。
「殿下、大極殿にいた官吏たちが、我々の援軍として、兵を伴ってこちらに向かっているそうです」
 身に甲冑をつけた中大兄が、戦闘態勢に入るよう下知した。

 古人大兄は、息を切って屋敷に戻っていた。
 すぐに、門を兵で固めるよう近習に命じた。
 妻が、白湯を持ってきた。
「皇子、どうされたのですか」
 古人大兄は、甲冑を身に着け終わったところだった。
「あの百済人石川麻呂の奴が、入鹿を殺した。蘇我の内部対立を中大兄が、煽っている。悲しいことだ」
「中大兄様の企みですか。なぜですか」
「政を牛耳っている帰化人たちを排除して、皇位に就くのが目的であろう。我々も危ない。女どもも、準備させよ」
 古人大兄の屋敷内は、戦闘態勢に入った。

 一方、蝦夷は、配下の漢直(あやのあたい)と呼ばれる渡来一族全員を集め、陣を張らせていた。
 お互いに、相手の出方をしばらくの間見守っていた。
「殿下、敵は怯んできたようです。この機を逃さず、敵に降伏するよう使者を送ってはいかがでしょうか」と鎌足が、具申した。
「巨勢臣徳太(こせのおみとくた)を呼べ」
「はっ、承知いたしました」
 鎌足は、近習の者にすぐに巨勢臣を連れてくるよう命じた。

中大兄は、近習に連れて来られた巨勢臣に、中大兄の手勢も連れて、蝦夷の館に説得に行くように伝えた。

巨勢臣は、蝦夷の館前に松明を持った兵で、取り囲み、叫んだ。
「誰か、おらんか。拙者、巨勢臣徳太。無駄な抵抗せずに、門を開けよ。天地開闢より、お上に逆らうは、賊である。この戦、抗戦の挙に出ても、勝てる見込みはない。武器を捨て、門を開けよ。そうすれば、命だけは助けてやる」
しばらくして、門が開き、一人の男が出てきた。
「拙者、大臣の臣下の高向国押と申す。我々の命を救うことに偽りはないな」
「しかと」
「分かった、しばらく待て」

 高向国押は、門の中に戻り、兵たちを集めて言った。
「この戦、たとえ徹底抗戦しても勝ち目はない。俺は、戦わないでここから去る。去る者は、敵は見逃すと言っている。皆のもの好きにしろ」
「蝦夷様は、如何申されているのだ」
「蝦夷様には、言ってはおらん」
 と言って、高向国押は剣を置いて、門に向かった。漢直たちも続々と後に続いた。
 それを知った蝦夷は、もうこれまでと、翌日、館に火を放って、自決した。
 蝦夷の死により、蘇我大臣家宗家は、滅亡した。

中大兄は、皇極に呼ばれた。
「このようなことが起こったのは、残念です。これから、あなたが皇位を継承するのが必然です。頼みます」
 中大兄は予想もしなかったので、返答に詰まった。
「お上、しばらく考えさせてください」
 中大兄は、次第に嬉しさがこみあがってきたが、それを押さえながら大極殿を退去した。
 朝堂の元大臣の部屋に戻って、この度功労のあった重臣たちを集めた。
 そして、皇極から皇位の譲位の話があったことを伝えた。皆喜んでいた中で、鎌足の顔が険しいのに中大兄が気付いた。
 皆が帰った後、中大兄は、鎌足に本意を聞いた。
「殿下、古人大兄様は、殿下の兄上、軽皇子様は、殿下の叔父君であられます。古人大兄様がいらっしゃるのに殿下が天皇に着かれたら、人の弟としての謙遜の心に反することになりましょう。しばらくは、叔父君を立てるのが良いと思います。いかがですか。反旧勢力から、今回の改新が個人的な権勢力欲かと見られるのは、今は避けねばなりません。当分は、計画してきた改新政治に専念するために、軽皇子様に継承させられたら良いでしょう」
 中大兄は、考えた。
「お上が引退したら、‘皇祖母尊’という称号を贈り、殿下は、皇太子になられるのがよろしいかと」
中大兄は、鎌足の具申を受け入れ、皇極に奏上しに大極殿に上った。
「お上、天位に着かれるのにふさわしい人は、軽皇子様でございます。私ではございません」
 中大兄は、皇極に軽皇子を推挙した。

 翌日、皇極は軽皇子、中大兄そして、古人大兄を呼び、軽皇子に皇位を継承するよう求めた。
しかし、軽皇子は、再三固辞し、言った。
「古人大兄皇子は、先の天皇の御子であられます。また、年長者です。よって、古人大兄皇子が、天意に着くのがふさわしいと思います」
 中大兄は、古人大兄を凝視した。
 すると、古人大兄が、座を降りた。
「お上の勅旨に従いましょう。どうして、私に譲ることがありましょうか。私は、出家いたします、そして、仏道を極める所存です」
 と言って、剣を床に置いて、部屋を出て行った。
(これでよい。古人大兄も恐れをなしたか)
中大兄は、生前の入鹿が推挙していた古人大兄を、何としても朝廷から遠ざけておかなければ、自分が計画した改革が思う通り運ぶことができないと危惧していた。

 翌日、軽皇子は、大極殿の壇に上った。
壇の右左には、金の襷をかけた大伴連馬養、犬上健部君が立った。
百官の臣、連、国造、伴造そして、百八十部たちは、列を作って、軽皇子即ち、天皇に即位した孝徳天皇を拝んだ。
式典が終わるや否や、中大兄は、鎌足を伴って、今まで練ってきた新体制を孝徳に上伸した。
孝徳は、今回の蘇我一族を打倒した立役者である中大兄に従わざるを得なかった。
十九日、中大兄は、敵対する反対派を抑え込むために、大極殿の庭に群臣たちを集め、天皇に従順することを約束させた。
そして、皆に告げた。
「帝道は、一つである。しかしながら、末代には人の情けが崩れ、君臣は秩序を失った。天は、我の手を借りて暴虐の徒を誅滅した。今ここに誠心を持って共に誓う。今後、君は二政を行わず、臣は二心を持たない。もしこの盟約に背けば、鬼神や人が誅滅する」
 大化元年の幕開けであった。
 皇極は、中大兄の妹、間人皇女を皇后とし、別に妃二人を娶った。
新政府は中大兄が、政策立案機関と政務執行機関の両方を統轄して走り始めた。
 中大兄と鎌足は、二人の国博士の助言を得ながら、政策を次々と立案し、左右大臣に執行させたが、
立案した政策が民衆にいきわたらないことに焦りを感じていた。
反対派と孝徳が、それを阻んでいるとの噂が中大兄の耳に入った。
 鎌足を呼んで、いかにしたらよいかを尋ねた。
「殿下、右大臣の倉山田石川麻呂殿に、お上の橋渡しをしてもらったらいかがでしょうか」
「よかろう、頼む」
 また、孝徳と左大臣の阿部内麻呂のラインを政略的に朝政の前面に押し立てることにして、鎌足は、その実行に腐心した。
 それでも、鎌足は不安であった。
「殿下、まだまだ、新政府は盤石でありません。反政府派や地方豪族を一日も早く押し込む必要があります」
「名案はあるか」
「はい、一石二鳥の策があります。名門の大夫を選んで東国の国宰(くにのみこともち)に任命したらいかがでしょうか。これで、宮廷の臣や連たちは改新派になびくでしょう」
「そうだな、東国には、屯倉、子代や名代が多いから早く手を打った方が良いな。早く我々の基盤を磐石にしなければならん」
 大和朝廷に服属しなかった地方豪族に対しては、土地を奪い「屯倉」(大和朝廷の直轄地)を設け、そこで働く農民集団(部)を田部といいます。部の構成員を部民といい、
 他方、国造という姓を与えた氏からは、部曲の一部を割いて、大王家やその一族の生活の資を後納する農民集団である部を設定しました。これを「名代」「子代」「品部」という。
 この方法を発展させ、中央集権的に地方支配を拡大していったのが、屯倉の管理者であった蘇我氏であったが、蘇我氏滅亡により管理者不在であった。
八月、東国に向かう国宰たちに左大臣は、まず国造(くにのみやっこ)に新政府の基本方針を伝え、そして、造籍と田畑の実測をさせることを命じた。また、大化改新以前の「国」を治める世襲の首長の国造は、倭王権に服属して任じられた職で、軍事・裁判権などを保持しており、その権限を侵さぬよう訓示した。
 国宰となった大夫たちが、それぞれの国へ旅立った。

中大兄の計画が着実に進み始めた頃、鎌足から中大兄に古人大兄に謀反の噂が伝えられた。
「殿下、その噂、吉備笠臣垂(きびのかさのおみたる)が持って参りました」
「吉備笠臣垂から石川麻呂にその噂を伝えさせよ」

鎌足から命を受けた吉備笠臣垂が、朝堂で執務を取っていた石川麻呂を訪ねた。
「右大臣、古人大兄様が、新政府を転覆させようと企んでいるようです、お気をつけなされ」
「何っ、それは本当か」
「噂だけかもしれませんが、火のないところに煙は立たないと申します」
「吉野に行って、調べてまいれ」
 倉山田石川麻呂は、吉野にいる古人大兄の様子を探るよう命じた。
 吉備笠臣垂は、朝堂を辞退して鎌足の館を訪ねた。
鎌足は既に吉野に使者を送っていた。
その内容を誇張して、吉備笠臣垂に伝えた。
「そちは、吉野に行かずにこのことを右大臣に伝えよ」
翌日の昼。吉備笠臣垂は、石川麻呂に会った。
「右大臣、蘇我田口臣川堀、物部エノイノ連シカや漢直たちが古人大兄皇子を担ぎだそうとしているようです」
「また、漢直たちか」
「はっ」
「苦労であった、下がってよい」
 倉山田石川麻呂は、孝徳に急ぎ伝えた。
 孝徳は、中大兄を呼んで古人大兄の謀反のことを話した。
「お上、早くしないとお命が危のうござります」
 孝徳は、しばし目を閉じた。
「早く吉野へ兵を送って、討ってでよ」
「承知いたしました」
 中大兄は、館に戻って、吉備笠臣垂を呼んで、古人大兄の討伐の将軍を命じた。
 吉備笠臣垂が、立ち上がろうとすると、中大兄が言った。
「ちょっと、待て」
「はつ」
 吉備笠臣垂は、座りなおした。
「我の兵も連れて行け」
「ありがとう存じます」
 中大兄は、近習の者に、兵を集めるよう命じた。
翌日、朝。吉備笠臣垂は、六百の兵を従え吉野に向かった。
二刻ほどで、吉野に入った。
「皆の者、敵は古人大兄様のみぞ。ぬかるでない、攻めろ」
「オー」

 一方、古人大兄の館では、使者が古人大兄に非常事態を伝えた。
「古人様、吉備笠臣垂が攻めてきました」
「なに、奴め、謀ったな」
 古人大兄は、すぐに甲冑を身にまとった。
「古人様、すでに敵に取り囲まれています」
 古人大兄は、一人自分の部屋に入って、自決した。

 中大兄は、気の許せない敵手であった古人大兄を葬って、ほくそ笑んだ。
(これで、改革をさらに推し進めるのに邪魔が一人減った)
 朝堂に僧旻を呼んで、今後のことについて相談した。まずは、地方にいる反対派を抑えるために孝徳に国宰への詔を発することにして、その案を僧旻に命じた。
 翌日、
「古より、天皇の御世ごとに、名代の民を置いて、御世にその名を伝えた。臣、連、国造たちは、自分の民を置いて欲しいままに使ってきた。また、山海、林野、池、田を自分の財産としてきた。今後は、臣、連、国造たちは、まず自らの分を収め取り、それから民に分けることにする。今後は、『上を敬い、下を益す制度を守り、民を傷つけないこと。今なお、貧しい人民に、勢力のあるものは、田畑を貸し与え、搾取してはならない。そして、勝手に主人となって、人民を支配してはならない』以上、くれぐれもこのことを守るべし」と書かれた天皇の詔を持って、諸国に使者が走った。
 諸国の民たちは、喜んだ。
「さすが、今度のお上は今までと違う」
「いや、中大兄皇子様だ、蘇我氏を滅ぼしただけの御器量があるのさ」
 明日は、正月元日という切羽詰まった年の暮れ、中大兄の館では、朝から鎌足、左大臣の阿倍仲麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂、国博士の旻法師そして、高向玄理が集まって、明日発する詔について、打ち合せていた。
 外が闇に包まれ始めた。
「私が、お上に奏上したのちに、右大臣にこの詔を読み上げていただきたい」
「殿下、承知いたしました」
 
翌日、大化二年(六四六)正月元日。
朝廷では、恙なく賀正の礼を終えると、直ちに昨日完成した「改新の詔」を群臣たちの前で、石川麻呂が読み上げた。
「改新の詔でございます。その一、屯倉や臣・連・国造の所有している田や田を廃止する。
・・・・・・・・・」

 二月中ごろ、孝徳は、中大兄が奏上したことを、右大臣に告げた。
「私が聞くところでは、明哲な治政とは、人民の苦しみを理解し、家を往来に造って道行く人の誹謗を聞くことである。そのため、困った人や、諌言する人が上表文を櫃に投げ込めるよう鐘をかけ櫃を設ける。
そして、上表文を回収し、私が読み、群臣に調査させる。ただし、名を記した分のみ上表せよ。もし、群臣たちが怠けて、丁寧な対応をしなかったり、片方だけにおもねって味方したり、また私が諌言を聞き入れない場合には、困って訴えようと思う人は、鐘を打てばよい。良いか、くれぐれも公平、平等を先にせよ」
 半年が過ぎた。
 中大兄は、鎌足を呼んで聞いた。
「鐘櫃の訴えは、何かあったか」
「はい、民は、飢えで疲弊しているのに、雑役をやらされていることに不満と訴えてきている者が多ございます」
 鎌足は、干ばつで、農作物が昨年より六割ほどの収穫で民たちは食物が手に入りにくく、飢える民が全国に多くいることを詳しく説明した。
「分かった。すぐに雑役をやめさせるよう左大臣に命じよう」
 中大兄の行動は、早かった。
 
そして、大化四年(六四八)。中大兄は、二十二歳になっていた。
 中大兄は、従来の冠位十二階を改訂し、従来冠位外とされていた大臣(おおおみ)の大紫冠を冠位に組み込んだもので、冠位十三階とした。
 改革が進んでくると、反対派は危機感を募り、いろいろな画策を講じてきた。
 そのような時、左大臣阿倍仲麻呂がこの世を去った。
 中大兄は、未だ仲麻呂の死を嘆いていた時、
「殿下、右大臣が、謀反を起こそうと企んでおります。殿下が海に遊行に行かれる時、殺害を計画しております。十分お気を付け下さい」
 倉山田石川麻呂の異母の弟にあたる蘇我日向が、言って来た。
「何を申す、倉山田石川麻呂が、謀反を起こすわけがない。下がれ」
 中大兄は、日向が帰った後、しばらく考え込んだ。
(使者を送って、真意を確かめてみよう)
 
 使者が、倉山田石川麻呂の伝言を持って、戻ってきた。
「石川麻呂様は、ご質問の返答はお上の前で直接申し上げますと言われました」
 中大兄は、怒った。
(なぜ、私に言えないのだ。この私にたてつく気か。やはり、蘇我一族は、天皇家に再び食い込もうとしているのか。いや、一族の葛藤か。どちらにしても、この機会に、蘇我一族の長である倉山田石川麻呂を叩いてしまおう)
翌日、中大兄は、孝徳の面前にて、倉山田石川麻呂謀反ありと伝えた。
「中大兄、倉山田石川麻呂を征伐しなさい」
 孝徳は、命じた。
 中大兄は、大伴狛連を大将軍に命じ、将軍に蘇我日向を命じた。
 大軍が、倉山田石川麻呂の館を包囲した。
 石川麻呂は、我が子二人を連れて、裏山から逃げ長男の興志(こごし)の館に向かった。

「なに、父上が皇子の手に追われていると!」
 興志は、山田寺を造っていた館で使者を迎えた。
「すぐに父上を迎えに参るぞ、軍を起こせ」
 近習の者に伝えた。
 陽が山際に、かかり始めていた。
「父上の弟、蘇我日向殿が将軍ですぞ。姉君まで奪い取って。人でなしめが」
 石川麻呂の唇は震えていた。
「父上、なぜ皇子が父上を討たなければならないのですか?そんな無体なことを。私が、日向の軍を迎え討ちましょう」
「興志、もういいのだ。皇子は、儂が邪魔になったのだ」
「父上、悔しいです」
 興志は、涙した。
 石川麻呂は、興志を説得して、完成に近い山田寺に入った。
 山田寺は、舒明天皇十三年(六四一)より、整地工事を始め、二年後の皇極天皇二年(六四三年)には金堂の建立が始まっている。そして、今は、石川麻呂の一族によって、仕上げの工事が行われた。
 石川麻呂は、金堂に僧たちを集めた。
「私がここに来たのは、最期は安らかに迎えんためである。決してお上を恨むものではない」
 そして、僧たちを外に出して、蘇我倉山田石川麻呂一族は、自害した。

 中大兄の妃、遠智姫(おちのいらつめ)は石川麻呂たちの最期を聞き、号泣した。
「殿下、なぜ父上を攻めたのですか。兄弟までも自害してしまったとは」
「妃、石川麻呂は、私の命を狙っていたのだ。やらなければ、やられていた」
「そんな、父上が、殿下のお命を狙うなんて、嘘です」

 遠智姫は、悲しみに明け暮れとうとう傷心がいやされること無く、この世を去った。
 そして、白雉元年(六五〇)二月九日。
 穴戸の国宰が、群臣たちが見守る中、孝徳に白雉を献上しに大極殿に参上した。
 厳かに、献上の儀は終わった。
旻法師が、孝徳の前に進み出て、礼をして言った。
「王者の治政が四方にあまねくゆきわたると白雉が現れるのです。お上は人徳があり聖人である証なのでございます。おめでたいことでございます」
 孝徳は、白雉と年号を改元した。

 白雉二年(六五一)、十二月晦日。
 孝徳は、難波長柄の新宮、味経宮((あじみのみや)に遷った。
その五日後、孝徳は、宮に二千人余りの僧尼を招請して、庭に三千の灯火をともし経を読ませた。
中大兄、鎌足そして、国博士は、一年をかけて、戸籍と班田収授の法を作り始めていた。


  そして、白雉三年の夏。
 雨が降り続き、川は氾濫し、田は水浸し、崖は崩れ、家々はつぶされ、人馬が死んで行った。
 このような時期に、中大兄は、孝徳に戸籍法を上申した。
「お上、この法は、五十戸を里とし、里ごとに長一人を置きます。戸主にはすべて家長をあてます。戸はすべて五家で隣保を作り、一人を長として互いに見張らすのです。これによって、安定した国が作れます。」
「皇子、国宰に使者を使わそう。下がってよい」
 孝徳は、腹が立ってきた。
(私は、中大兄皇子の言いなりではないか)

 一方、中大兄は、大化の詔から七年、やっと苦労が実ったと喜んでいた。
 その後も、中大兄は、独断で政を推し進めて行った。
 
白雉四年(六五三)五月、孝徳と中大兄は、安曇の寺で床に臥せっている旻法師を見舞った。
「お上、皇子。わざわざ来ていただき・・・・」旻法師は、起き上がろうとした。
 中大兄は、それを押さえて、
「もしお前が今日死ねば、私も法師に従い明日死ぬであろう」
 と言って、旻法師の手を取りながら涙した。
 一か月後、旻法師は、他界した。
中大兄は、海外から学ぶことも無くなったので、難波から飛鳥への遷宮を考え始めた。
「皇子、飛鳥へ行くことは許さんぞ。もし、行くならば私は、皇位を去る」
 孝徳は、意地でも難波の地で政を行うと主張した。
「お上、何を仰せになるのですか」
 中大兄は、説得を試みたが、孝徳が承知しなかったので、孝徳の反対を押し切り皇極、孝徳の妻間人皇后や多くの群臣を引き連れて、飛鳥に勝手に移った。
 孝徳は、それを知って激怒したが、中大兄の専横に対しては、なすすべはなかった。
 翌年、孝徳は、心身の苦労のため、難波で寂しく息を引き取った。

 中大兄は、孝徳の死を知り、皇極に再度皇位についてもらうよう上申した。
 皇極は、中大兄が皇位を継承するのが順当であると固辞していたが、再三にわたる中大兄の説得で白雉六年(六五五)、皇極は、名を代え斉明として即位した。
 半年後、飛鳥の岡本に宮殿が完成し、斉明はそこに移った。
 斉明は、これをはじめにいろいろな土木工事に手を出した。
まずは、香具山から石上山まで溝を掘らせ、それに水を通し、舟二百隻に石上山の石を運ばせて、岡本宮の石垣を造らせた。
 多くの民たちは、
「お上は、気が狂ったようだ。疲弊した我々十万人を使役させた」
 石垣の完成から間もなく、斉明の岡本宮が炎上した。
「誰が火付したのか、皇子、徹底的に探しなさい」
「お上、承知しました」
(改新の詔の意味が無くなってしまう)
 中大兄は、斉明が自分の気持ちを察してくれないことを苦々しく思っていた。
 そして、斉明が行った。
「皇子、新しく吉野に宮を作るから手配をしてください」

 中大兄は、斉明にこの四年間振り回され続けていた。
政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行っていた孝徳天皇の子、有間皇子は飛鳥に帰って来た。そして、吉野宮を訪れた。
「お上、おかげさまで病気が完治しました」と斉明に伝えた。
「よく来てくれました」
有馬は、療養していた牟婁の湯の素晴らしさを話して聞かせた。
中大兄は、有馬が戻ってきたことを聞き、危機感を持った。
(有馬皇子が、政に口を出すに違いない。このままいくと、お上は、皇子に皇位を継承させるかもしれない。何とか早く手を打たねば)
 中大兄は、蘇我赤兄を呼び、有馬の失墜させるよう命じた。

中大兄は、斉明のお供で、牟婁の湯に行った。
一方、命を受けた蘇我赤兄は、飛鳥に残っていた有間皇子に近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は有馬の味方である事を伝えた。
「皇子、お上の政事に三つの過ちがあります。民の財産をいやおうなしに造った蔵に集めたことが一つです。二つ目は、あまり必要もない長大な溝を作らせて、三つ目は、それを利用して多くの石を舟で運ばせ石垣を作らせたことにより、より民を疲弊させました。このような狂ったことをこれ以上させてはいけません。私もお味方いたしますので、是非お立ちあがり下さい」
有馬は喜んだ。
「赤兄分かった。良く言ってくれた」
有馬は、赤兄に斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
有間は、確信した。
(母の小足媛の実家の阿部氏の水軍をもって、お上達を急襲すれば絶対に勝てる)
赤兄は、すぐに中大兄に有馬の謀反を文にして送った。
中大兄は、すぐにその文を斉明に見せた。
二日後、有馬は、天空に光が走ったのを見て、不吉な予感を感じたため、謀事を中止することを館に呼んだ赤兄に伝えた。
赤兄が帰った後、有馬は寝入った。
夜の静けさを破る近習たちの大声で、有馬は目を覚ました。
「何事だ」
「皇子を捕縛しに赤兄が、館を兵で取り囲んでいます。さあ、御仕度を」
「ばた、ばた」
「おとなしくしろ」
「お前たちの目的はなんだ」
「静かにしてください、謀反の疑いです」
 有馬は、中大兄に尋問されたが、
「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ。ぬれぎぬだ」
  と答えて、後は黙しているのみであった。
  二日後、一番重刑の晒し首にされた。

ほっとする暇もなく、中大兄は国宰から沿海州の外敵が、蝦夷の地に侵攻してきたとの報告を受けた。
「阿倍比羅夫を呼べ」
 宮殿に来た阿倍比羅夫に、外敵の討伐を命じた。
「比羅夫、日本海側に設けてあるヌタリノ柵、イワフネノ柵に越後国守として参って、外敵を討伐しろ」
「殿下、承知いたしました」
 
 比羅夫は、舟軍二百艘を率いて、秋田、能代まで進んで、外敵を殲滅させた。

 一方、中大兄が、国内問題に振り回されている間、中国、朝鮮半島情勢は進展していた。
翌年、斉明は、遣唐使を派遣したところ、唐は東征の準備に入っており、その遣唐使たちは
長安に抑留されてしまった。
その後、百済は、唐と新羅の軍によって、挟撃された。
斉明に百済の使者が、支援を求めに宮殿を訪れた。
 水時計(漏刻と呼ばれていた)を造ろうと屋外にいた時、
「殿下、お上がお呼びです」
 近習の者が、走って来て伝えた。
 大極殿に中大兄は、急いだ。

 斉明が、朝鮮半島の情勢を説明して、
「皇子、出兵しますぞ。準備せよ」と、命じた。
「お上、承知いたしました」
 中大兄は、大規模な動員に一年余り準備を要し、そして、斉明と伴に、筑紫の朝倉宮に軍を進めた。
 しかし、斉明は、旅の疲れから病を患い、床に臥せった。
「皇子、私はもうだめです。後を頼みます」
 斉明の顔は、やつれて生気を失っていた。
「気をしっかりお持ちください。ごゆっくりお休みになればお元気になります」
 中大兄は、斉明の命がもう長くはないことを悟った。
それから毎日、祈祷師が、斉明の平癒を祈り続けたが、その甲斐も空しく、五日後、斉明は崩御した。
中大兄は、皇位を選ばずまた自身は、称制という形で実権を握って政治を代行することにし、まず、博多湾岸に長津宮を造営し、そこで大本営として指揮を執った。
中大兄は、大錦中安曇連を大将軍に命じ、百七十隻の大軍を朝鮮半島に送るとともに、日本に人質として来ていた豊璋を再建した百済の王とした。
第六話。惨敗

 六六一年正月、ついに中大兄は、皇位についた。天智の誕生であった。
 しかし、朝鮮半島では、風雲急を告げる状況であった。
三月、百済は、新羅軍に攻められ苦戦をし、日本に援軍を求めてきたので、将軍に任命された阿倍比羅夫は、二万七千人の兵を率いて出発した。
百済では、豊璋が福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、日本国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の水軍七千の兵を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、日本国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。百七十隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して日本国軍を挟撃した。比羅夫は、中大兄に援軍を要請するために使者を日本に送った。
 中大兄は、要請に応え、廬原君(いおりはらきみ)を将軍として、一万の兵を送った。
日本国と百済連合軍は、白村江への到着が十日遅れたが、皆相手を飲んでいた。
唐軍は、既に船軍の配置を終えていた。
その状況を知っていたにもかかわらず、
「我等先を争はば、敵自づから退くべし」と比羅夫は、号令を発し、
唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃した。
しかし、日本国軍は三軍編成をとり四度攻撃したが、干潮の時間差などにより、六六三年、唐・新羅水軍に大敗した。
百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した千隻余りの日本国船のうち四百隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられた。白村江で大敗北した日本国水軍は、各地で転戦中の日本国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 
六六三年もう暮れの時、中大兄は、白村江の敗戦を聞いて愕然とした。
(奴らは、勢いに乗って、攻めて来る。何とか、防がなければ、皆殺しに会うぞ)
唐・新羅の侵攻を怖れて、北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。
次々と、百済から亡命の民が、舟でやって来た。
「鎌足、唐が攻めて来るぞ。ここでは危ない。都を内陸の近江に遷都しよう」
「殿下、ここで逃げては民の信を得られません。ここにとどまって下さい。」
 鎌足が引きとめるのを、振り切って近江に遷都した。
 遷都を願わない民たちの火付と言う暴挙が、あちらこちらで起こった。
 それには構わず、中大兄は、近江宮の防備に三年間専念した。
近江も落ち着きを取り戻した頃、
「殿下、この機に即位したらいかがでしょうか」
鎌足が、具申した。
「万民も落ち着いてきたようだ、そう致そう」
 六六七年正月、中大兄は天皇に即位し、天智と名のった。
 天智天皇、四十三歳であった。
  この年、天智の弟、大海人の妻の額田王が、十市皇女を産んだ。
 それを知って、天智は、お祝いに行ったところ、額田王に一目惚れしてしまった。
 ふっくらした頬、穏やかな目、情熱的な唇そして、知的な鼻筋、天智は、数日後に、額田王を閨に誘い、そのまま、宮中で働かせた。
 天智には、この時、古人大兄の娘を皇后として他に九人の妻がいたのだが。
 数日後、浜楼で天智は宴を催した。
天智は、機嫌よく酒を飲んでいた。その時、大海人が、槍を持って天智の前に立った。
「お上、人の妻をなんと心得る。人としてあるまじきことを」
槍を振り回し、床を刺し抜いた。天智は、盃を落とし、驚き床を這いつくばって逃げようとした。
「皇子、お待ちください。今日はめでたい宴席、お静まりなされ」
 鎌足が、大海人の腕を掴んで言った。
 しばらくもめたが、腕力の強い鎌足に槍を取り上げられ、大海人は、悔し涙を見せて部屋を出て行った。
(お上は、石川麻呂の姫君の事件より、おかしくなりあそばれた。だんだんひどくなってきた)
 鎌足は、自責の念にとらわれた。
 この事を、額田はすぐに知った。
(大海人様は、それほどまでに私を思って下さったのか)
額田は、天智の目を盗んで、大海人と逢瀬を楽しんだ。大海人の館で人目を憚ることなく、酒宴に出るようになっていた。
天智は、額田の行動に気づき、鎌足を呼んだ。
「額田の行動を逐次見張って、一部始終、私に知らせるよう」
命じた。
「お上、承知いたしました」
(お上の嫉妬心にはいささかまいる。いつか、大海人皇子の怨みから、お上に何かなければよいが)
 鎌足は、心配になった。
 数日後、天智に鎌足が宮中に報告に来た。
「お上、大海人様と額田王は、ただ会って、酒を飲んでいるだけのようです。そのようなたわいもない時を過ごして、歌を互いに詠んでいました」
「どんな歌を詠んでいたのだ」
「はい。‘あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る’それに大海人様応えて‘紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも’と詠われました」
「なんと、それは二人の愛を確かめ合っているのではないか」
「お上、お気に召されるな。天皇は、寛容な心をお持ちのはずです」
第七話。無念
 六六九年十月庚申の日(十五日)
 天智は、昨月病に倒れた中臣鎌足を見舞った。
 鎌足が憔悴していたのに、驚いた。
「鎌足、気をしっかり持て。天道は、仁徳を備えた者を助けるものだ。善行を積み重ねた者には、幸福が持たされるものだ。何か必要なことがあれば、すぐに申し出るがよい」
 鎌足の手を取って、言った。
「私は、全くの愚か者です。申し上げることなど何もありません。ただ、葬儀は簡素にしてください。存命中、国の軍事に責務を果たしておりませんのに、死去に際してまで、お上を煩わすことはできません」
 鎌足は、天智から顔をそむけた。
「もういい、静かに休め」
 天智の頬に一筋の涙が流れた。
 翌日、天智は鎌足に藤原の姓と大臣の位を授けるため、鎌足の館に使者を出した。
 
 その五日後、妻の鏡王女(かがみのおおきみ)や息子の不比等たちに見守られて、鎌足は五十六歳の生涯を閉じた。
 不比等は、一日中泣きじゃくっていた。
「不比等、いつまでも泣くではない。早く、お上に伝えてくるのです」
 鏡王女は、しっかりと不比等に命じた。
不比等は、下僕に馬を引かせ宮に行った。
 
「天はなぜ、鎌足をもう少しこの世に残さなかったのか、哀しいことだ」
 天智は、不比等から話を聞き、嘆いた。
(お上は、本当に父上を信頼していたのだ)と、不比等は、父鎌足に嫉妬するとともに、父親への尊敬の念を持った。
「不比等、父上に負けず、勤めに励めよ」
「有り難きお言葉、承知いたしました」
 不比等は、天智が部屋を出るまで、笏を両手に低頭し続けた。
 
 翌年、天智は、鎌足と作り続けていた庚午年籍を施行し、国宰に盗賊と浮浪者を取り締まるよう使者を各地に送った。
 六七〇年四月の末、雷雲から、光を発するや否や、雷鳴とともに法隆寺から火柱が立った。
 天智は、蚊帳に入って雷鳴が遠ざかるのを待った。
しばらくして、あっという間に、寺は、半焼したと、使者が天智に報告に来た。
 その後、大雨が降り、地震が起こりよからぬことが続いた。
 天智は、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、そして右大臣を中臣金連と人臣の一新を図った。
 
六七一年、近江令を施行したのち、天智は病に倒れた。
 床に臥せった天智は、近習の者に大海人を呼んで来るようにと命じた。
「兄上様、いかがいたしましたか」と息を切らせてやってきた大海人がいった。
「私はもう長くはない。後事をお前に託したい。頼む」
 大海人は、天智の真意を読み取り、天智のさらに近づいていった。
「私も病です。大友皇子に託してください。私は、お上の平癒を祈念するために、出家いたします」
(ここは、大友に譲らないと、何をされるかわからない。もうしばらく待てば、奴にとって代わることができる)
「そうか、分かった。大友を頼んだ」
 と言って、目を閉じた。

 天智は、弟の大海人が、息子の大友より権謀術策に優れていることが心配の種であった。
 大友皇子は、皇位継承して、弘文天皇となったのを天智は見届けたが、
十二月三日、翌年の壬申の乱によって、大海人が弘文を破って勝利し、天武天皇となることを知らずに、天智天皇は四十六歳の一生を閉じたのであった。

苦闘 中大兄皇子 前編

2019-10-14 18:00:27 | 時代小説
第一話。推古の苦悩
 今から千五百年ほど前、日本の礎を築いた人々の物語である。

推古三十年(六百二十二年)、二月五日夜半、斑鳩の里にて、聖徳太子は、四十九年の短い人生の幕を閉じた。
太子の晩年、推古天皇のもと、天皇家中心の国家を目指していることに、用明・崇峻・推古の三代にわたり大臣職を務めていた蘇我馬子は、危機感を持った。馬子との意見の対立が、事あるたびに起きた。
巷では、崇峻天皇の暗殺のように、太子も暗殺されるのではないかとの噂が飛び交った。
身の危険を感じた太子は、斑鳩の里に住居を移し、政務には一切関わらず、ひたすら仏教に帰依していた。
そして、太子の死後から一年も過ぎずに、女帝推古の苦悩は、始まった。

推古三十一年、朝鮮半島では新羅が任那を攻めていた。小墾田宮(こはりだぐう)の大殿の広間では、大和に応援を求めてきた任那の使者に接見した推古は、大臣の蘇我馬子と貴族たちを集めて、どう対処するか会議を開いた。
「皆の者、我は応援を出す時ではないと思うがいかがであろうか」推古が自分の意見を述べた。
席が、ざわめいた。
すぐに応援を出すべきだと主張する馬子が、意見を述べた。
それに対して、敵地に行って負けたらこの国までやられてしまうと、反対する者たち、意見が真っ二つに分かれた。
結論が出ずに、五日が過ぎたその朝、推古は、付き人に起こされた。

「お上、大変でござる。朝堂から、境部臣雄摩侶(さかいのべのおみおまろ)と中臣連国(なかとみむらじくに)が大将になって、新羅に向かったと報告してきました」
「なに、すぐに、使者を鶴の間に通せ」

 使者が、板の間に頭を擦り付けるように、平伏した。
「境部臣と中臣が、新羅に向かったとな、兵をどのくらい連れていったのです」
「はい、数万と見られます」
 使者は、その姿勢で言った。
「分かった、下がれ」
「すぐに、大臣を呼んできなさい」
 推古が、付き人に言った。
 
蘇我馬子は、大殿の客の間で待たされた。
しばらくして、推古が現れた。
「お上、何用でございますか」
「大臣、あなたは私の叔父にあたるが、私の命に従わずに勝手なことをしてはなりません」
「お上、なんと申された」
「おとぼけにならないで下さい。勝手に、新羅に軍をおくったではありませんか」
「お上、お言葉ではございますが・・」
(任那が我が国へ援軍を早く出してほしいと言っているのに、毎日会議ばかりで時をつぶしているだけではないか)心の中で思ったが、
「出兵は、境部臣雄摩侶と中臣連国の二人の大将が勝手にやったのです。誓って、私は関係しておりません」
「では明日の朝礼後、大殿の広間に臣たちを招集してください」
「承知つかまつりました」

父親の蘇我稲目とその子の馬子が、天皇家に食い込むために、自分の子弟を天皇家に嫁がせた。その結果、馬子は、我が物顔で、政務を進めるようになったことを推古は、歯がゆく思っていた。

 大殿で、会議が開かれた。
「お上、新羅に送った使者から連絡が来ました」
「田中臣、報告を」
「先ほど戻ってきた使者によりますと、新羅は戦を避けて、日本に降伏し、貢物の準備に取り掛かっているのを見て、使者が帰ろうと港で船に乗ろうとした時、日本の軍船が目の前に現れ、新羅を目指して押し寄せて来たとのことです。
新羅は、この事態に怒り、この交渉を破棄すると伝えてきました」
「田中臣、ほかに申すことはないか」
 田中臣は、低頭した。
だれが、新羅へ軍をおくったのかを究明すべきだとの意見が多く出てきた。
(ちと、早まりすぎたようだ。どいつもこいつも、俺の仕業だと思っていやがる)馬子は、心穏やかではなかったが、
「お上、この度の軍事は、いろいろ調べましたところ、新羅の陰謀でございます。まんまと我々は、その陰謀に引っ掛かってしまったのです。最初に騙された境部臣と中臣連国が悪いことに、変わりは有りませんが、お上に良かれと出兵したとのこと、二人に御慈悲を」
 馬子が低頭した。

 それから、会議が続いたが、馬子の権勢に押され、馬子に同意するものが多くなった。
(大臣め、覚えていなさい)
「大臣、二人の処分を任せます」
と言って、推古は、席を立った。

(馬子めが。太子が生きていたら)と思はない日はなかった。
 推古の心と裏腹に、飛鳥の空は、春の青さが眩しかった。

 簡単に食事をした後に、推古は近習に命じた。
「明日、法隆寺に釈迦三尊を見に行きますので、よろしく頼みます」
「お上、寺に準備させるよう、使者をすぐ送ります」
 
 昨日と同様に飛鳥は、青空が広がっていた。
鳳輦(ほうれん:屋根の上に鳳凰を載せた天皇のみが乗れる輿)に推古は、揺られながら、叔父馬子とのこれからの対応をどうすべきか考えていた。
鳳輦が、止まって道におろされた。
「お上、お着きになりました」
 従者によって上げられた御簾から、推古は出た。
 朱と青丹に塗られた南門から中門まで、黄衣をまとった僧たちが両脇に低頭していた。
 住職が、推古の前でひざまづいた。
「お上、ようこそいらっしゃいました。金堂にご案内いたします」
 回廊の連子から、日差しが幻想的に土間を照らしていた。それを通り過ぎると、左手には、塔が青空を突くかのようにそびえ立っていた。
 推古たちは金色に輝く金堂の前に立った。
「お上、この男が、像をつくった鞍作止利と申す仏師でございます」
 男は、地に頭をこすりつけていた。
「面を上げなさい。案内せよ」
 推古は、珍しく声をかけた。

 推古は、金堂に入った。
 何本ものろうそくの炎が、火炎と忍冬唐草の文様を施した舟形光背を背にした面長の顔つき、人の心を抱擁するような優しい目、そして口元に笑みを浮かべている釈迦如来、その両脇を右に薬上菩薩、左の薬王菩薩を浮かび上がらせていた。。
(太子、成仏してください)
 推古は、手を合わせながら、人に悟られまいと、涙を拭きとった。
 
 金堂から出て、推古は近習に言った。
「仏師に褒美を与えよ」
 法隆寺に夕陽が照らし始めた頃、推古は鳳輦に乗って、寺を後にした。

 月日が過ぎ、夏になった。
 推古が宮で政務をとっていると、
「お上、大臣がお会いしたいと言って来ていますが、いかがいたしましょうか」
「通しなさい」
 馬子が部屋に入って来て低頭した。
「お上、お健やかで何よりです」
「大臣、何か用ですか」
「実は、お願いに上がったのです」
 推古は、嫌な予感がした。
「葛城県(かつらぎあがた)ですが、あそこは私が昔住んでいたところですので、未来永劫、葛城県を私に賜りたいのです」
「大臣。私は蘇我の出身で、大臣は私の叔父、大臣の言うことはほとんど聞いてきましたが、このことは承知できません。これを承知したら、後世の天皇から女の天皇だからこのような大事なことを勝手に決めたと誹謗されてしまいます。大臣も、誹りを受けることになるでしょう。そこは、六御県の一つで天皇家代々の直轄地です。絶対に承知できません」
 馬子は、平身低頭し、むっとした顔をして退去した。
 *
 推古は、欽明天皇の皇女(むすめ)で、母は、蘇我稲目の娘で、馬子は、稲目の息子で、推古の母と兄弟であった。
今から三十二年前の十一月、馬子の命を受けた男により、崇峻天皇が暗殺され、その後継として、推古が飛鳥の豊浦で女帝として即位した。
崇峻も、稲目の娘と欽明天皇の間に生まれた子で、蘇我の血を継いでいたが、馬子の横暴に対して敵対したため、暗殺された。

 推古は、近習に大殿と大門の警備を強化することと馬子の動静を探るよう命じた。

日の出とともに、宮門が開かれた。馬子や官人は、門の警固のための舎人の多さに驚いた。
 朝堂に挟まれた庭で、馬子は朝礼を行ってから、東側の朝堂にある大臣部屋に入ったところ、一人の文官が入って来て挨拶を述べた後に、
「大臣、昨日ですが、僧が斧を持って祖父を殴ったという事件が起こったとの知らせが
ありました」
「なに、僧が祖父を殴っただと。出家したものは、ひたすら仏道に帰依して、戒法を守るのが当たり前なのに、仏門を穢しおって。お上に報告してくる」
 馬子は、推古に報告した。
「仏に仕える身で、悪逆な行為を犯すなんて、とんでもないことです。太子が、苦労して取りいれた仏教を。それが事実かどうか、大臣、諸寺の僧尼に尋問せよ。事実であれば、連帯責任を取ってもらいます」
「お上、承知しました」
 馬子は、朝堂に戻って、文官たちに、調査を命じた。

観勒が、庵でこのことを知った。
(これは大変なことになるぞ、大臣に会って何とか連帯責任の罪を回避していただければな)
観勒は、推古十年(六百二年)に渡来し、天文、暦本、陰陽道を伝えた百済の僧で、推古の命で、これらのことを数人の書生に教授した。
数日後、観勒が‘僧が斧で殴った件’で、馬子に会いに朝堂を訪れた。
 客間に通された観勒は、
「大臣、お忙しいところ、愚僧にお会いしていただきありがとうございます」
「観勒、述べよ」
馬子に、上表文を読み上げた。
「仏法は、西国から漢に渡って、三百年が経ち、そして百済国に来て百年しかたっておりません。我が国の王は日本の天皇が賢哲であられると聞き、仏像と経典を献上いたしました。それから何年もたっておりません。それ故、日本の僧尼が未だ法に習熟していないことにより、軽率にその僧が悪辣な罪を犯してしまったのです。どうか、悪逆者を除いて他の僧尼には皆罪を問わないようお願いします。このようにすることは、大きな功徳となりましょう」
「あい、分かった。お上に伝えよう」
 観勒は、馬子が退去するまで、畳に頭を擦り付けていた。

 それから十日後、推古は、大殿の広間に大臣以下を招集し、皆に向かって言った。
「僧でさえ法を犯すのならば、一体どのようにして俗人を教化すれば良いのか。今後は、まず僧尼を教化する為に、僧侶を統轄する僧正と僧都を任命し、取り仕切ってもらう。よいと思う者を推薦せよ」
 官吏からいろいろ名が出たが、馬子が推薦した観勒が僧正、鞍部徳積(くらくりのとくしゃく)が僧都と決まった。
「阿曇連(あずみのむらじ)、このこと、二人に伝えよ」
 推古は、法頭の阿曇連に言って退席した。

それから半年過ぎて、飛鳥には秋風が吹き始めていた。
そんなある日、阿曇連が推古、大臣、臣たちに大殿に来て、報告した。
「お上、寺四六か所、僧八一六人、尼五六九人合わせて、一三八五人を調べました。この書状には、寺の由来、僧尼の入門の動機そして得度日をしたためています」
 阿曇連が、推古に平伏して、書状を渡した。
 馬子は今日も、体調がすぐれず、宮には参内していなかった。
「蝦夷、もう俺はそんなに長くはない。これからお前の時代だ。何とか蘇我氏の権力をしかと握れ。分かったな」
「何を、父上。気をしっかりお持ちください」

 推古三十四年(六二六年)五月二十日、飛鳥川のほとりの桃源に構えた嶋の家で大臣馬子は、息を引き取った。

馬子の葬儀は、盛大にとり進められ桃源の墓に葬られた。
 推古は、今更ながら、馬子の軍略や人の議論を見極める才能を惜しみつつ、それとは別に安堵する自分に気が付いた。
 一方、父田村皇子の妻、宝皇女が、将来大化の改新の中心となる中大兄を出産した。
 この年は、夏に雪が降り、その後は長雨が続き、国中が大飢饉となった。
 老人は、草の根を食べて、道端で生き倒れ、幼児は、乳を含んだまま、母子とともに死んでいった。また、強盗、窃盗も頻繁に起こった。
 推古は、神に天下泰平を毎日祈念していたが、なかなか好転せず、とうとう病に臥せってしまった。
 推古三十六年(六二八)三月六日、昼、陽が隠れた。
床に臥せった推古は、田村皇子を呼ぶよう近習の者に命じた。
「お上、御具合はいかがでしょうか」
 推古は、田村を近くに来いと手招きをした。
「これからいうことは肝に銘じて守りなさい。天皇になって、大業の基礎を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、安易なことではなく、重大なことです。それ故、お前は慎重に考え、軽々しいことを言ってはなりません。いいですね」
 推古が下がってよいと手を振った。
 そして次の日、推古は山背大兄を呼んで言った。
「お前は、未熟者です。もし、心に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりません。必ず官吏たちの言葉を待って、それに従いなさい」
 推古は、後継をどちらにするのか、明言しなかったため、二人に期待を持たせてしまった。

第二話。継承争い
数日後、推古は官吏たちを呼んで、
「近年、五穀が実らず人民が飢えています。私のために陵を造って厚く葬ることは止めよ。竹田皇子の陵に葬りなさい。」
と命じ、瞼を永遠に閉じた。

 推古の葬儀を終えるや否や、推古の後の皇位継承で、もめはじめた。
 
聖徳太子の嫡子の山背大兄が、
「我は、推古天皇から後継と指名されているのだ。皇位継承するのは、我である。」
 と、皆にしきりに主張した。
それに対抗して、大臣の蘇我蝦夷は、古人王子に目をつけ、その父田村皇子を擁立しようと画策に走った。
春の風が飛鳥に吹き始めたある日、蝦夷は官吏たちを屋敷に呼び、饗応した。
「叔父殿、皇位継承は、田村皇子でいかがかな」
「何を仰せか、山背大兄王子が妥当であります」
 蝦夷の叔父の摩理勢が、むきになって行った。
「倉麻呂は、どうじゃな。我が妹の法提郎媛(ほてのいちつのひめ)が嫁いでいる田村皇子が良いとは思わんか。」
「どちらが、よろしいかな」
従兄弟の倉麻呂は、中立の立場を守り続けるつもりであった。 
息子の入鹿は、叔父や従兄弟も抑え込むことができない蝦夷を見て、苛立った。

斑鳩の里には、桜が咲き始めていた。
摩理勢からの書状を山背大兄は読んで、三国王と桜井臣の二人を呼び、対応を相談した。
「皇子、まずは、大臣の真意を直接に確かめたらいかがでしょうか。」
 三国王の助言を聞き、山背はそれを文にしたため、二人を蝦夷のもとに行かせた。

 朝堂の客間で、しばらく、三国王たちは待たされた。
 蝦夷が、付き人を一人伴って部屋に入って来て、床に座った。
「ご苦労様です、それで何用でしょうか。」
「大臣、皇子からこれを預かってまいりました。」
 三国王が差し出した文を、蝦夷は一読して、
「しばらくここでお待ちください。」
 と言って、蝦夷は部屋を出て行った。
(専横の誹りを免れるために、ここは、官吏に文の内容を聞かせておこう。)
 そして、大臣の部屋に戻ると近習の者に入鹿と官吏の人間を大広間に集めよと命じた。

 近習の者が、広間に官吏たちが集まったと、蝦夷に伝えに戻って来たので、すぐに広間に入った。
そして、蝦夷は、山背大兄の文を読み上げ、
「ここに集まった官吏の大夫は、田村皇子が、後継の筆頭であることには意義はないな。」
 と、言って官吏たちの顔を一人一人、見まわした。
「紀臣と大伴連、供に斑鳩宮に参上し山背大兄皇子に謹んで次のように申しあげよ。
『臣下の一人である蘇我蝦夷が、軽々しく、天皇の後継を定めたりしましょうか。ただ、田村皇子が後継であるとの天皇の遺詔を官吏たちに告げただけで、これに対しまして誰も異議は申し出ておりません。仮に、私自身の考えがあるとしても、人伝えに畏れ多く申し上げることはできません。お目にかかったうえで、私の口から直接に申し述べましょう。』と、分かったな。決して余計なことを言うではないぞ。」

三国王、桜井臣、紀臣と大伴連たちが、斑鳩の里に入った時には、もう既に陽が落ちていた。桜井臣が、松明に火を灯し、宮に先導した。
斑鳩の宮の客間に通され、紀臣は山背大兄に蝦夷の言葉を伝えた。
 山背大兄は、訝しげに言った。
「天皇が後継者は、田村皇子と言ったと聞いた者は誰かいるのか。」
 紀臣と大伴連の二人は、顔を見合わせた。
「私たちは、存じません。」紀臣は、言った。
 さらに、山背大兄は詰問し続けたが、二人は知らぬ、存ぜぬを通した。
「紀臣、正しく天皇の遺詔を知りたいと山背が言っていたと大臣に伝えて欲しい。」と言い、そして、桜井臣に二人をもてなすよう命じ、席を立った。
 女が、盆にかぶと生姜の酢の物、胡瓜の塩漬け、心太(寒天)、蘇(チーズのようなもの)を乗せて三人の前に置いた。そして、桜井臣や女たちの勧めで、二人は濁り酒を何杯も飲んだ。
 二人は、桜井臣に、大臣の本心を聞こうと探りを何度となく入れられたが、知らないと、何度も答えた。
 桜井臣は、不機嫌な顔をしながら酒を煽って言った。
「山背大兄様は、聖徳太子の御子であります。お世継ぎは皇子様しかおりませぬ。」
「桜井殿、そろそろ明日も早いので、この辺で失礼させていただきたいのですが。」
 紀臣は、頭を下げて言った。
 二人は、女に客間に案内された。
「紀臣様、寝て下さい。私は眠らずに見張っています。」
 大伴連が、剣を抱いて壁にもたれた。

  翌日、陽が昇るとすぐに、紀臣と大伴連は、山背大兄に挨拶を述べ、斑鳩の宮を後にした。
「大伴殿、山背大兄王子様は、ちょっとやそっとでは、諦めそうもないな。大臣は、難儀をするぞ。」
 紀臣は、困った顔をして言った。
 二人は昼ごろ、宮に着き、そして朝堂の大臣の部屋で蝦夷に山背大兄との話を伝えた。 (皇子め、太子の霊に憑りつかれおって。)蝦夷は、危機感を持った。

その翌日、なんとか、田村皇子を皇位継承の同意を得るために、蝦夷は、大夫や官吏たちを嶋の家で饗応した。
「境部臣(弟の摩理勢)が、来ていないではないか」
 蝦夷が、入鹿に怒鳴るように言った。
「父上、叔父上のことなど気にせぬことです」
「何を言うか、あいつを何とか承知させなくては。」
 入鹿は、祖父馬子が築いた蘇我家の権威を気の弱い蝦夷が、崩していくのが悔しかった。
 それでも、蝦夷の奮闘により、阿部臣と中臣連は、田村皇子の継承に翻った。
 まだ宴は続いていたが、蝦夷は、入鹿のところに行って、
「摩理勢に会って、再度、次期天皇は誰が良いか聞いて参れ。阿部臣を伴に連れて行け」
 入鹿は、渋々と阿部臣を連れて摩理勢屋敷の屋敷に行った。
「叔父上、如何でしょうか」
 入鹿は、蝦夷の言葉を伝え、返事を待った。
「この前、大臣自身が問われた時、私はすでに申し上げております。今またどうして、このような大事なことを人伝えにお返事しなくてはならないのか。大臣に帰ってそうお伝えせよ」怒りを露わにして、部屋を出て行った。
 入鹿は、ここまで蝦夷の権威が落ちているに愕然とし、
(何とか、名門蘇我宗家を立て直せねば)と心に誓った。

  桃源(現在の石舞台古墳の場所)に、馬子の墓を造るために蘇我一族が皆集まって、それぞれ仮の住まいに寝泊まりしていた。
摩理勢もそこで皆と一緒に墓を造っていたが、毎日、毎日蝦夷の執拗な要請うんざりした。
「大臣は、一体何を考えているんだ。もうこんなところにはおれん」
と怒って、蘆を打ち壊し、斑鳩にいる山背大兄の異母弟の泊瀬王(はつせのみこ)の宮に移り住んでしまった。
 それを阿部臣が、蝦夷に報告した。
「勝手なことをしおって、どこまでも逆らう気か」
 怒り心頭、顔を真っ赤にして近習の者を大声で呼びつけ、書状をしたためさせた。
「阿部臣、この文を山背大兄皇子に届けろ。いいか、言うことを聞かないとどうなるか、脅して来い」
 さすがの阿部臣も、皇子に対する蝦夷の態度に嫌悪感を持った。

 山背大兄は、阿部臣から渡された蝦夷の文を読んだ。
「何、摩理勢を渡せと」
 しばらく、山背大兄は黙って文を見続けてから、
「阿部臣、摩理勢はしばらくの間、静養のために滞在しているだけで、どうして、大臣に背いたりするであろうか。どうか、咎めないでいただくよう、大臣に伝えよ」
「皇子様、それでよろしいですか。皇子様までを巻き添えにするのは、なんとも忍びないのです。御熟考下さい」
 阿部臣は、板の間に頭を擦り付けた。
「五日間待ってくれ」
「承知いたしました。大臣に伝えます」
 阿部臣は、ほっとして斑鳩を後にした。山々の緑の深さに気づくも、道を急いだ。

山背大兄は、摩理勢を屋敷に呼んだ。
「摩理勢、大臣に背くことは絶対に許さない。早く、大臣に詫びを入れなさい」
「皇子、そのような弱気でいらっしゃると、とてもお上にはなれませんぞ。しっかりしてください」
「お前は、前皇の御思を忘れずによくやってくれて有り難く思っている。しかし、お前一人のことで、国が乱れようとしている。私はそれを許すわけにはいかない。心を改めよ」
 摩理勢は、涙を流しながら低頭し、宮を去った。

 それから十日後、泊瀬王が、夕食の後急に苦しみ出した。そして、摩理勢が、王の部屋に入った時には、もう既に息を引き取っていた。突然の死であった。
「泊瀬王様・・・。蝦夷の仕業か」
 摩理勢は、蝦夷たちを迎え撃つために、陣を設営する準備に取り掛かった。

山背大兄の使者が、蝦夷に泊瀬王の死を知らせた。
 近習に呼びにやらせた巨勢徳陀臣(こせとこだのおみ)が、大臣の部屋にやって来た。
 巨勢徳陀は、蝦夷の前に座って、低頭した。
「お前を摩理勢討伐の大将軍に任ずる。準備にかかれ」
 巨勢徳陀臣は、蝦夷の命により、蘇我氏に代々仕えてきた漢直(あやのあたい:帰化系氏族)を集め、甲冑を身に着けさせ剣を持たせ斑鳩に向け、出発した。

 摩理勢の軍勢は五百、それに対して蝦夷の送った二千の大軍。迎え討った摩理勢軍はあっけなく、敗戦に追い込まれた。
摩理勢は畝傍山に逃げようとした。
「摩理勢が、いたぞ」巨勢徳陀臣の率いる軍の兵士が大声を上げた。
あっという間に、摩理勢は敵に囲まれた。
「やっちまえ」数人が、摩理勢に飛びかかり、撲殺した。
 摩理勢の長子、毛津(けつ)が後ろを見た時、摩理勢の首がはねられた。
(父上・・・。)山頂に辿り着いた時は、毛津一人であった。

「父上、母上、無念でございます」
 剣で喉を突き刺した。
 
蝦夷と摩理勢の蘇我一族の勢力争いは、あっけなく蝦夷に軍配が上がった。

第三話。蘇我氏の台頭
舒明元年(六二九)正月四日、蝦夷は田村皇子に天皇の御印を献上したが、
「国家に仕えることは、重大な仕事なので私のような拙い人間にその任に当たれようか」
 と言って、辞去した。
 蝦夷は伏して、
「皇子は、先の天皇の愛を一身に受け、神も庶民も心を寄せています。是非、天皇を継承され、民に君臨すべきです」と、切に願ったところ、
「あい、分かった」と、田村皇子は承諾し、その日に天皇の位についた。
舒明天皇の誕生であった。
舒明は、蝦夷に飛鳥岡に宮を作るよう命じた。

舒明二年(六三十)。
中大兄は、四歳になった。
「利発そうな子じゃな、岡本宮に移っても大丈夫だろう。学問をするには、あちらのがよいぞ」
 舒明は、宝に言った。
「そうですね。お上の言われる通りかもしれません」
 宝は、舒明の器に酒を注ぎながら答えた。

中大兄は、舒明に連れられて、宝と弟の大海人そして、妹の間人と、飛鳥寺の正面に造られた岡本宮に遷った。
 
三月、高句麗と百済の使者が、舒明の即位の祝いに飛鳥にやって来た。
「お上、是非、日本の使者を唐に送って下され。沢山の貢物を渡して、唐の太宗のご機嫌を取っておいた方が、良いかと存じます。また、唐が我らを攻めて来たときは、是非援軍を出していただきたい」
(太宗の出方を探っておかなければなるまい、大国の唐が南下して来たら、朝鮮半島は一年ももつまい。)


 飛鳥に秋風が吹き始めた。
 舒明は、大極殿に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(すしのえにち)を呼んだ。
「犬上御田鍬、薬師恵日。唐に行って来てくれ。御田鍬、お前を大使で、薬師恵日は、副使を命ずる。よいか、太宗の動静を探って、逐次、知らせてくれ。唐は、高句麗を討ち、新羅、百済を攻め、我が国に攻め寄せてくるやもしれん。くれぐれも、悟られないように。詳細は、大臣と相談するがよい。」
 
それから一か月後、御田鍬たちは、難波港にいた。
 御田鍬は感慨深かった。
(これが、俺の最後の渡航だ。)
長さ二十間、幅五間、帆柱2本の平底箱型の派手に朱に塗られた船二艘が、真っ青な空と海にくっきりと浮かび上がって、穏やかな波に揺れていた。
御田鍬は、知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)に聞いた。
「総勢何名か」
「はい、二百名ほどになります」と言って、船長、船大工、操舵手、書記官、通訳,神主、医師、陰陽師,天文観測、占い師、 留学生、学問僧、楽師、ガラス工人、鍛冶鍛金工、鋳物師、大工らであると答えた。
(と言って、内訳が、船師(船長)、船匠(船大工)、柁師(かじし、操舵長)、挟抄(かじとり、操舵手)、水手長(かこおさ)、史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)、訳語(やくご、通訳)、新羅・奄美等訳語、主神(神主)、医師、陰陽師(易占、天文観測)、卜部(うらべ、占い師)、射手(いて)、音声長(おんじょうちょう、楽長)、 留学生(るがくしょう、長期留学生)、学問僧(長期留学僧)、請益生(しょうやくしょう、短期留学生)、還学僧(げんがくそう、短期留学僧)、音声生(おんじょうしょう、楽師)、玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)、鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)、鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)、細工生(さいくしょう、木工工人)であると説明した。)
 次第に見送りの人々たちの数が増えてきた。
「大使、出航の準備が整いました」
 薬師恵日が来て、御田鍬に伝えた。
「分かった」
 御田鍬たちが乗った船は、出港した。
筑紫~壱岐~対馬~朝鮮半島西岸北上~渤海湾横断し、山東半島上陸まで、危険を伴う長旅に。


 御田鍬たちが唐に向かって出航してから一年数か月が過ぎた、舒明四年(六三二)。
 中大兄(改新までは葛城皇子と呼ばれていたようだが、ここではすべてこの名で呼ぶことにする)は、六歳になった。
 父の舒明は、今までの天皇と違い、神教よりも仏教に心酔していた。
舒明の勧めで、中大兄と弟の大海人は飛鳥寺で学問を学ぶことになった。

初夏の朝、従者を伴って、二人は、飛鳥寺に行った。
「兄上、大きなお寺ですね」
「この寺は、大臣の父上、蘇我馬子殿が建立を発願された寺だ」
「皇子様、お待ちしておりました」
 僧たちが、門前で二人を出迎えた。
 座主と言った僧が、二人の前に出て説明しながら、歩き始めた。
「この寺は、五八八年に百済から仏舎利が献じられたことにより,蘇我馬子様が寺院建立を発願し,五九六年に創建された寺院です。今も、蝦夷様や入鹿様が時々、来られます。ご覧ください、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍で、東西二町、南北三町の広さの境内です」
 中大兄は、蘇我一族の権勢に改めて驚いた。
「北の金堂には、推古天皇が止利仏師に造らせた釈迦如来像が安置されています。御案内いたしましょう」
 青空に飛び立つかのような五重塔の傍を通り抜けると、高いだけでなく、堂々とした建物の前に来た。北の金堂であった。
「さあ、中へどうぞ」
 座主が、二人を促した。
 金堂に入ると、涼しさとともに荘厳さが、二人を包み込んだ。
 丈六(約五メートル)の金銅で造られた釈迦如来像が、ろうそくの炎に輝きながら浮かび上がっていた。
(なんと大きなこと)中大兄と大海人は、肝をつぶした。
 仏は、優しく遠くを見やって眼、毅然とした心を口元に表し、物静かに座していた。
 二人は、仏の前で合掌し、それぞれの思いを祈念した。
 

 中大兄たちは、飛鳥寺で基本の文字、算術を一か月で学び、そして、初歩的な仏典を二か月目で習得した。

そして、今日から四書五経を学びに、寺に行った。
 学問所で、二人を座主が迎えた。
「今日は、四書五経とは何かをまずわたくしの方から説明します。四書とは、『孔子の論語』、『覇道政治を否定し、王道政治を提唱した孟子の言行録』、『大学という儒教の入門的な読みやすい書物』、『孔子の孫の子思が著述した深遠な世界の摂理を説いた中庸』を四書と言います。次に五経ですが、『歴史書であります書経』、『孔子が編纂したと伝えられる中国最古の詩集である詩経』、『陰陽説を汲んだ周王朝期の占いに関する書物である易経』、『礼について形式だけでなく、理論化した礼記』、『孔子が作成編纂したと伝えられる、中国古代・魯国の歴史書、春秋』の五つになります。量が多いのでしっかりと勉強してください」
 
中大兄と大海人は、四書五経を学ぶのが楽しみになった。
 
座主が、部屋から出て行ってからしばらくして、四書の専門の僧が、入ってきて講義が始まった。

昨年発った御田鍬たちが、唐から帰ってきて、岡本宮に舒明を訪ねた。
「お上、ただ今戻りました」
 御田鍬と薬師恵は、平伏した。
「ご苦労であった。面を上げえ。唐はどうであったか」
 御田鍬が答えた。
「お上、太宗は、朝鮮三国を攻める準備をしています」
「我が国を攻めてくるのは、二年後くらいか。大臣に九州の防備を固めるよう命じる」
「薬師恵、どうであったか」
 舒明は、薬師恵には唐の文化や技術を問うた。
「唐では、陰陽道(おんみょうどう)が盛んになっています。僧や仏師を連れてまいりましたので、いろいろお聞きなさるとよいかと思います」
「我は陰陽道についてよく知らんのだが」
「陰陽道は、古代中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行説を起源としています。陰陽五行説とは、木、火、土、金、水、の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配します。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になります。陰陽は語尾の‘え’が陽、‘と’が陰です。天文、暦数、時刻、易の学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として受け入れられております。このような技術は、わが国では漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われております」
「よく分かった。御田鍬、薬師恵、連れてきた者たちの面倒を見てやってくれ。僧については、寺を建立するのでそれまで頼む」
 薬師恵は、低頭した。
「下がってよい」


 百済寺が建立され、薬師恵が連れてきた僧たちは、寺に入った。
そして、中大兄と大海人は、飛鳥寺から百済寺に変え、二人は、唐の最新の陰陽道を学んだ。
 中大兄たち二人の理解の早さには、僧たちも驚いた。
 舒明も喜んだ。

 中大兄と大海人は、暑い夏も毎日、朝は百済寺で講義を受け、昼は、屋敷で武術を学んだ。
 二人の成長は早かった。
十月末日朝、舒明は、中大兄と大伴連馬養(おおとものむらじうまがい)を大極殿に呼んだ。
「明日、唐からの使者 高表仁が朕(わたし)に唐の宰相太宗が璽書を渡すために難波津に来るそうだ。そこで、中大兄に接待知ることを命ずる。そして、大伴連、お前たちは、中大兄の補佐をするよう頼む」
 二人は、大極殿を辞去し準備にかかり、そして昼近くに、難波津に向かった。
 
 夕暮れ時に、難波津鴻臚館に到着した。
「殿下、ここに今日は泊まります。お食事をして、湯に入りごゆっくりしてください。明日は、くれぐれも、よろしくお願いします」
 大伴連馬養は、中大兄に言った。
 
 中大兄は、すぐに床に就いたが、あまりの緊張のため、一睡もできずに、朝を迎えた。

「おはようございます」
 大伴連馬養が、朝の挨拶に来た。
「皇子様、よく寝れましたか」
「よく寝たぞ」
 馬養は、中大兄の顔を見て、寝不足の表情を読み取っていた。
 朝飯を取って、中大兄たちは、交渉の策を練った。
 そして、大伴連馬養たちは、高表仁を出迎えに館を出て行った。

 高表仁たちは、大伴連馬養に案内され、鴻臚館に到着した。
 迎賓の間で、中大兄が迎えた。
 簡単な挨拶を終え、宮での儀式について、打ち合わせが始まった。
 高表仁がすぐに、提案した。
「日本(倭)の天皇は、太宗の臣なので九三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を以って、太宗天王からの国書を受けよ」
中大兄は、毅然とした態度で言った。
「日本の天皇は、太宗の臣ではない。唐で行われる太宗の前で、臣下が行う儀式は行わない。日本の儀式で、お前が、天皇の前で膝間づき国書を渡せ」
「話にならん。大伴連馬養殿は、如何」
「殿下と同じです」
「覚悟しておけ」
 椅子を蹴って、高表仁は去った。

 この話は、岡本宮にいる舒明と大臣たちにすぐ伝わった。
 皆このことを聞いて、震撼した。
「なんてことをしたのだ」
 蝦夷は、怒り狂った。
「大臣、お上がお呼びです。」
 近習が、来て言った。
「分かった」

大極殿に入ると、蝦夷は客間に通された。
「大臣、高表仁が怒って帰って行ったことは、知っているだろう」
「はい、お上。存じております」
「唐が、これ機会に我が国を攻めてくるやもしれん。それに対抗するために、九州を防備するよう策を立て、実行せよ」
「承知いたしました」
 蝦夷は、蝦夷は怒りを抑えて、大極殿を後にした。


 舒明は、大伴連馬養から中大兄の高表仁に対した行動を聞き、驚いた。
(息子には、もっともっと学問をさせ、我の後継者として育てよう)

 閨で、舒明は妻の宝に言った。
「この間唐から帰ってきた霊雲に学問を、息子たちに教えさせようと思うが、どうであろう。霊雲は、吉蔵に三論を学んだそうだ。今、元興寺に入っている」
「そうですね。飛鳥寺の学問僧は、蝦夷にくみしていますので、そろそろ代わった方がよいと思います。また、最近の唐の知識を学ばせることは、きっと役に立つでしょう」
「元興寺も蘇我の息がかかっているだろうから、霊雲に屋敷を与え、そこに通わせよう」
 中大兄は喜んで、毎日通った。

 飛鳥は、夏になった。
百済の使者が、やって来た。
舒明は、大極殿の接待の間で歓待した。
 舒明から唐のことを聞かれたので、使者の一人が、答えた。
「お上、唐が日本を攻めると決めたようです」
「太宗が攻めてくるか」
「この間、中大兄皇子様が、高表仁に対して軽んじたことに怒り心頭したようです」
「いつ頃になりそうか」
「太宗は、その前に、高句麗、新羅そして我が百済を手に入れなければと言っているようです」

百済の使者が帰ったのちに、舒明は大極殿の広間に官吏たちを集め、唐が朝鮮三国を攻め、そして日本を攻めるであろうとのこと話した。
「お前たちの意見を述べよ」
「お上、太宗に貢物を献上し、今回の件について、詫びをいれるのが常套かと思われます」
 田中臣が、言った。
「田中臣、何を仰る。我が国が唐の属国になってもよいというのか。お上、ここは、百済に援軍を送って、唐の軍を朝鮮半島から一掃いたすことが、肝要かと思います。今回の件、太宗が我が国の出方を試したのです。ここまで来たら、徹底抗戦しかありません」
 蝦夷が反論した。
「大臣、勝算は、あるのか」
「朝鮮三国と組むことができれば、勝てます。万が一のことを考え、九州に砦を作り、兵士を送り込みましょう」
  蝦夷が答えた。
「お上、太宗に詫びを入れるなんてとんでもありません、中大兄皇子を人質に出せと言い出すかもしれません。任那を復興して、唐の攻撃の楯にしてはいかがでしょうか」
 大伴連馬養が答えた。
「お上、早く兵を集める御命じ下さい」
 蝦夷が、逸った。

「分かった、大臣。思う存分集め、九州に送り込め。また、百済にいつでも援軍を出せるよう、多くの船を準備いたせ」


 舒明八年(六三六)、中大兄は、九歳になった。
 飛鳥に蝉がけたたましく鳴いている朝、百済の使者が、舒明を訪ねて来て、
「お上、太宗は、高句麗を攻めるも攻略できず、撤退しました」と伝えた。
 舒明たちは、安堵し、この時より防備を怠るようになった。
 また、宮中では、宮人たちが、地方の豪族がその娘を天皇家に献上した采女(うねめ)たちを奸していた。
このような荒んだ状況に我慢できず、中大兄は、宮中の秩序を守るためにも、舒明に采女を奸した人間は断罪にすべきと進言した。
「皇子、分かった。すぐに処分致そう」
 舒明は、大臣を呼び、宮人をすべて調べ上げ、采女を奸したものは、皆晒し首にせよと命じた。
 処分は、一斉に行われ、宮中の規律が元に戻った五月ごろから長雨が続き、各所で川が氾濫し、民たちの多くは、家や畑を失った。
 
雨も収まった六月十五日の夜、
「火事だ、火事だ」大殿で叫び声が聞こえた。
 近習の者が、息を切らせて、舒明の褥にやって来た。
「お上、東の朝堂から火が出ています」
「何、早く宝や皇子たちを安全な場所に避難させよ」
  中大兄は、妹の間人の手をしっかりと握っていた。その後を大海人が続いた。
「兄上、怖い」
「間人、泣くな」
 中大兄たちは、岡本宮が燃え盛るのを見て涙した。
 半時ほどで、火は岡本宮を燃え尽くした。
舒明たちは命からがら、岡本宮を後にした。
「お上、付け火です。しばらくは、我慢してください」
 近習の者が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「火をつけたのは、一体、何奴。しっかり調べよ」

 半月後、蝦夷の住んでいる豊浦宮西北近くに、宮として、田中宮が作られ、舒明たちは移り住んだ。

 数日後、舒明は大臣を呼んで、命じた。
「大臣、ここに移ってから、官吏の中で参朝に遅れる者が多い。綱紀粛正、明日から皆、卯刻(午前五時)に参朝させ、そして、巳刻(午前九時)退朝せよ。それを鐘で知らせ守らせるのだ」
「承知いたしました」
 蝦夷は、言った。しかし、蝦夷は、いつまでもこのことを実行せず、舒明の命を無視し続けた。
 舒明は、高句麗と百済を支援することに、蝦夷は、反対していた。

 蝦夷は、四月に入った頃から、参朝しなくなった。
「いよいよ、蝦夷が、乱を起こそうとしている」との百姓、町民たちのもっぱらの噂でもちきりになっていた。 


舒明は、上野毛君形名(かみつけのきみかたな)を大殿に呼んだ。
「そなたを蝦夷追討の将軍に命ずる、しかと、討って来い」
(やはりそうか。なんでこの儂が、蝦夷は手強いから、気をつけねば)上野毛君形名は、床に頭をつけ、
「承知しました」と言った。

 数日間、上野毛君形名は準備して蝦夷の館を攻めた。
「攻めよ。蝦夷を逃がすな」
 上野毛君形名は、焦った。蝦夷の軍が、上野毛君形名の軍を押し返してきた。
「引き返せ」 上野毛君形名は、一目散に逃げた。
 上野毛君形名の妻が嘆いた。
「殿、情けない。忌々しいことですね。蝦夷に負けるなんて。殿の先祖は、海外の政権を平定するという後世に名をのこしたのに、こんなことでは、後世の人たちに笑われます」
 酒を夫に飲ませ、自ら剣を帯び女人たちに弓を取らせて、蝦夷の軍に立ち向かった。
 今度は完勝した。
蝦夷は、逃げた。

 それから何事もなく、四季は流れ、舒明十二年(六四〇)、中大兄、十五歳の秋。
 十月十一日、唐に留学していた学問僧の南淵清安と高向 玄理(たかむこのくろまろ)が、百済と新羅の使者を伴って帰国し、舒明に挨拶した。
「ご苦労であった。清安と玄理、そちたちは、来月から、ここに居る中大兄と大海人に最近の唐のことを教えてやってくれ。今月中に、百済宮が完成するので、そこで頼む」
「お上、光栄に存じます。皇子様にお教えいたします」

十月末日、舒明は、宝、中大兄たちを連れて、百済宮に移った。
宮前には、百済寺が建立されていた。
「父上、あれは、九重塔ですか」
 中大兄が、立ち止まって、指さした。
「そうだ、日本で一番高いであろう」

 舒明は、清安と玄理を宮に呼びつけて言った。
「おぬし達は、共に百済寺を運営してくれ。留学帰りの僧たちをこの寺に受け入れるのだ」
「有り難き幸せ」
 舒明は、仏教を受容した初めての天皇であった。

 それに対して、任那復興、対新羅強硬路線とる、死んだと思われていたが蝦夷と入鹿父子は、舒明に敵対した。

蝦夷は、入鹿の館でしばらくの間おとなしくしていたのであった。

舒明十三年(六四一)十月九日、百済宮で、宝、山背大兄、古人大兄たちに看取られ、陽が昇ると同時に、舒明は、息を引き取った。
宝の落ち込みは、尋常ではなかった。 蝦夷にとって代わって実力者となった息子の入鹿は、舒明の葬儀を恐れながらも差配したいと宝たちに伝えたが、中大兄は、直径の自分が舒明の葬儀を取り仕切ると入鹿の申し出を断った。
 宝もそれを聞いて、
「中大兄、よろしく頼みます」と、涙を拭きながら言った。

また、入鹿は、舒明の後継として、馬子の娘、蘇我法堤郎媛(ほほてのいらつめ)が生んだ古人大兄の擁立を企てた。入鹿は、深慮遠謀、蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子を推した。
しかし、宝や、中大兄たちは、蘇我一族に染まることを懸念して、真っ向から反対した。
一年もの間、舒明の後継がなかなか決まらずにいたため、中大兄たちは、入鹿の妥協案をやむなく取り入れ、
六四二年正月、宝が皇位についた。皇極天皇誕生であった。
入鹿は、皇極を中継ぎとして、次に古人大兄を皇位に付けることを狙っていた。
「お上、大臣の息子入鹿殿が、政に口を出す機会が増えてきて、皆困っております」
 群臣の一人が、さっそく、皇極に注進したが、皇極は、何も答えなかった。
大臣の蝦夷より子の入鹿が、国の政治を執るようになり、その権勢は、父親を勝るようになった。それだけでなく、大臣の蝦夷と入鹿の専横ぶりに皆なにも反対できなくなった。
さらに、息子の入鹿は、国中の民を徴発し、大臣の墓を大陵、自分の墓を小陵と言って、葛城の高台に造らせた。そして、そこで八つらの舞を演じさせた。八つらの舞とは、天子のみに許された八列六十四人による舞のことである。
それを知った中大兄は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとする野心を露わにしたものと、激怒した。
中大兄は、大極殿に参じた。
「お上、蘇我一族は、天皇家を乗っ取ろうとしています。早く対処すべきかと」
 中大兄は、目がつりあがっていた。
「皇子、宮を移ることにした。入鹿たちから遠ざかるのだ」皇極は苦々しく言った。
二か月後、皇極たちは、小墾田宮に移った。

この一連の皇位継承問題で、天皇家と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
 
 十月、入鹿は各国へ派遣される国司たちを朝堂で饗応した。
そして、最後に大夫の筆頭頭、阿部内麻呂が壇に立った。
「お前たち、これから任じられたところへ行き、気を引き締めて土地を治めよ」
「おう」

それから数日後、蝦夷は床に臥せって、参朝することができなかった。
近習の者を呼んで、
「入鹿を連れて来い」と命じた。
入鹿がやって来た。
「父上、何か御用ですか」
「もう儂も長くない。これをお前に引き継いてもらう。皇子たちには気をつけろ。」
 と言って、置かれていた紫冠を与えた。
「父上、このようなことを勝手にやっては、まずいのではありませんか」
「お上には、儂から書状をしたためておくので、心配するでない」
 
 上宮の王たちは、威光があるという評判に、入鹿は憎々しげに思っていた。
(上宮の王たちを廃し、古人大兄を跡継ぎにしないと我々は危ない)
入鹿は、軽皇子と安倍内麻呂を呼んで、斑鳩にいる山背大兄を攻め滅ぼす策を練った。

十一月、入鹿は、巨勢徳太臣を大将軍にして山背大兄を攻めさせた。
 山背の数十人の舎人が、迎え撃ったが、多勢に無勢であった。
 山背は、生駒山に妃と一族を率いて、逃げた。

 しかし、数日後。
「皇子、これから東国に逃げましょう。東国を本拠にして、再起を掛けましょうぞ」
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が、山背の前に出て言った。
「お前が言う通り、そうすればきっと勝てるであろう。しかし、我一人のために、万民を苦しめ、煩わせることが出来ようか。我のせいで、父母を亡くしたなどと言われたくない。ここは、身を捨てて国を固めるのが、一番だ」

 山背たちは、山を下りて、法隆寺に入った。
 
それを知った入鹿は、兵を館に集めた。
「今度こそ、山背の首を取るぞ」
 入鹿は、兵一千で法隆寺を囲んで銅鑼と鐘を鳴らした。
「山背大兄様、お出ましなされ」
金堂では、山背が三輪文屋君に、将たちに伝えるよう命じた。
「我が兵を起こして、入鹿を討伐すれば勝つこと必定である。しかし、我一身のため人民を殺傷させたくない。我が身一つを入鹿に与えよう」
「皇子、それはなりませぬ」

 山背たちは、あっけなく滅ぼされた。

「大臣、入鹿様が山背大兄様を討ったそうです」
 蝦夷の近習の者が、息を切らせて報告した。
「何、入鹿の愚か者めが、お前もいつかは討たれるぞ」
 蝦夷は、愕然とした。
 蝦夷は、入鹿が戻って来たら、すぐ来るように家来に命じた。

「入鹿、なんてことをしでかした。天皇家たちの報復を受ける覚悟はあるのだな」
「父上、蘇我家の権威が失墜してしまうことが心配で、山背大兄様を討ち取りました。父上に怒られる筋合いはございません」
「もう済んだことは仕方がない。いつ攻められても受けて立つことができるよう警護を固めよう、分かったな」
 蝦夷と入鹿は、攻められても十分持ち堪えることができる場所として、飛鳥の甘樫岡を選んだ。
そして、家来や民を総動員させ、‘上の宮門’と‘谷の宮門’と呼ばせた館を並べて建てさせた。
 そして、周りに堀を掘って、水を貯め、館を城柵で囲い、武器庫を数か所設けた。