第一話。推古の苦悩
今から千五百年ほど前、日本の礎を築いた人々の物語である。
推古三十年(六百二十二年)、二月五日夜半、斑鳩の里にて、聖徳太子は、四十九年の短い人生の幕を閉じた。
太子の晩年、推古天皇のもと、天皇家中心の国家を目指していることに、用明・崇峻・推古の三代にわたり大臣職を務めていた蘇我馬子は、危機感を持った。馬子との意見の対立が、事あるたびに起きた。
巷では、崇峻天皇の暗殺のように、太子も暗殺されるのではないかとの噂が飛び交った。
身の危険を感じた太子は、斑鳩の里に住居を移し、政務には一切関わらず、ひたすら仏教に帰依していた。
そして、太子の死後から一年も過ぎずに、女帝推古の苦悩は、始まった。
推古三十一年、朝鮮半島では新羅が任那を攻めていた。小墾田宮(こはりだぐう)の大殿の広間では、大和に応援を求めてきた任那の使者に接見した推古は、大臣の蘇我馬子と貴族たちを集めて、どう対処するか会議を開いた。
「皆の者、我は応援を出す時ではないと思うがいかがであろうか」推古が自分の意見を述べた。
席が、ざわめいた。
すぐに応援を出すべきだと主張する馬子が、意見を述べた。
それに対して、敵地に行って負けたらこの国までやられてしまうと、反対する者たち、意見が真っ二つに分かれた。
結論が出ずに、五日が過ぎたその朝、推古は、付き人に起こされた。
「お上、大変でござる。朝堂から、境部臣雄摩侶(さかいのべのおみおまろ)と中臣連国(なかとみむらじくに)が大将になって、新羅に向かったと報告してきました」
「なに、すぐに、使者を鶴の間に通せ」
使者が、板の間に頭を擦り付けるように、平伏した。
「境部臣と中臣が、新羅に向かったとな、兵をどのくらい連れていったのです」
「はい、数万と見られます」
使者は、その姿勢で言った。
「分かった、下がれ」
「すぐに、大臣を呼んできなさい」
推古が、付き人に言った。
蘇我馬子は、大殿の客の間で待たされた。
しばらくして、推古が現れた。
「お上、何用でございますか」
「大臣、あなたは私の叔父にあたるが、私の命に従わずに勝手なことをしてはなりません」
「お上、なんと申された」
「おとぼけにならないで下さい。勝手に、新羅に軍をおくったではありませんか」
「お上、お言葉ではございますが・・」
(任那が我が国へ援軍を早く出してほしいと言っているのに、毎日会議ばかりで時をつぶしているだけではないか)心の中で思ったが、
「出兵は、境部臣雄摩侶と中臣連国の二人の大将が勝手にやったのです。誓って、私は関係しておりません」
「では明日の朝礼後、大殿の広間に臣たちを招集してください」
「承知つかまつりました」
父親の蘇我稲目とその子の馬子が、天皇家に食い込むために、自分の子弟を天皇家に嫁がせた。その結果、馬子は、我が物顔で、政務を進めるようになったことを推古は、歯がゆく思っていた。
大殿で、会議が開かれた。
「お上、新羅に送った使者から連絡が来ました」
「田中臣、報告を」
「先ほど戻ってきた使者によりますと、新羅は戦を避けて、日本に降伏し、貢物の準備に取り掛かっているのを見て、使者が帰ろうと港で船に乗ろうとした時、日本の軍船が目の前に現れ、新羅を目指して押し寄せて来たとのことです。
新羅は、この事態に怒り、この交渉を破棄すると伝えてきました」
「田中臣、ほかに申すことはないか」
田中臣は、低頭した。
だれが、新羅へ軍をおくったのかを究明すべきだとの意見が多く出てきた。
(ちと、早まりすぎたようだ。どいつもこいつも、俺の仕業だと思っていやがる)馬子は、心穏やかではなかったが、
「お上、この度の軍事は、いろいろ調べましたところ、新羅の陰謀でございます。まんまと我々は、その陰謀に引っ掛かってしまったのです。最初に騙された境部臣と中臣連国が悪いことに、変わりは有りませんが、お上に良かれと出兵したとのこと、二人に御慈悲を」
馬子が低頭した。
それから、会議が続いたが、馬子の権勢に押され、馬子に同意するものが多くなった。
(大臣め、覚えていなさい)
「大臣、二人の処分を任せます」
と言って、推古は、席を立った。
(馬子めが。太子が生きていたら)と思はない日はなかった。
推古の心と裏腹に、飛鳥の空は、春の青さが眩しかった。
簡単に食事をした後に、推古は近習に命じた。
「明日、法隆寺に釈迦三尊を見に行きますので、よろしく頼みます」
「お上、寺に準備させるよう、使者をすぐ送ります」
昨日と同様に飛鳥は、青空が広がっていた。
鳳輦(ほうれん:屋根の上に鳳凰を載せた天皇のみが乗れる輿)に推古は、揺られながら、叔父馬子とのこれからの対応をどうすべきか考えていた。
鳳輦が、止まって道におろされた。
「お上、お着きになりました」
従者によって上げられた御簾から、推古は出た。
朱と青丹に塗られた南門から中門まで、黄衣をまとった僧たちが両脇に低頭していた。
住職が、推古の前でひざまづいた。
「お上、ようこそいらっしゃいました。金堂にご案内いたします」
回廊の連子から、日差しが幻想的に土間を照らしていた。それを通り過ぎると、左手には、塔が青空を突くかのようにそびえ立っていた。
推古たちは金色に輝く金堂の前に立った。
「お上、この男が、像をつくった鞍作止利と申す仏師でございます」
男は、地に頭をこすりつけていた。
「面を上げなさい。案内せよ」
推古は、珍しく声をかけた。
推古は、金堂に入った。
何本ものろうそくの炎が、火炎と忍冬唐草の文様を施した舟形光背を背にした面長の顔つき、人の心を抱擁するような優しい目、そして口元に笑みを浮かべている釈迦如来、その両脇を右に薬上菩薩、左の薬王菩薩を浮かび上がらせていた。。
(太子、成仏してください)
推古は、手を合わせながら、人に悟られまいと、涙を拭きとった。
金堂から出て、推古は近習に言った。
「仏師に褒美を与えよ」
法隆寺に夕陽が照らし始めた頃、推古は鳳輦に乗って、寺を後にした。
月日が過ぎ、夏になった。
推古が宮で政務をとっていると、
「お上、大臣がお会いしたいと言って来ていますが、いかがいたしましょうか」
「通しなさい」
馬子が部屋に入って来て低頭した。
「お上、お健やかで何よりです」
「大臣、何か用ですか」
「実は、お願いに上がったのです」
推古は、嫌な予感がした。
「葛城県(かつらぎあがた)ですが、あそこは私が昔住んでいたところですので、未来永劫、葛城県を私に賜りたいのです」
「大臣。私は蘇我の出身で、大臣は私の叔父、大臣の言うことはほとんど聞いてきましたが、このことは承知できません。これを承知したら、後世の天皇から女の天皇だからこのような大事なことを勝手に決めたと誹謗されてしまいます。大臣も、誹りを受けることになるでしょう。そこは、六御県の一つで天皇家代々の直轄地です。絶対に承知できません」
馬子は、平身低頭し、むっとした顔をして退去した。
*
推古は、欽明天皇の皇女(むすめ)で、母は、蘇我稲目の娘で、馬子は、稲目の息子で、推古の母と兄弟であった。
今から三十二年前の十一月、馬子の命を受けた男により、崇峻天皇が暗殺され、その後継として、推古が飛鳥の豊浦で女帝として即位した。
崇峻も、稲目の娘と欽明天皇の間に生まれた子で、蘇我の血を継いでいたが、馬子の横暴に対して敵対したため、暗殺された。
推古は、近習に大殿と大門の警備を強化することと馬子の動静を探るよう命じた。
日の出とともに、宮門が開かれた。馬子や官人は、門の警固のための舎人の多さに驚いた。
朝堂に挟まれた庭で、馬子は朝礼を行ってから、東側の朝堂にある大臣部屋に入ったところ、一人の文官が入って来て挨拶を述べた後に、
「大臣、昨日ですが、僧が斧を持って祖父を殴ったという事件が起こったとの知らせが
ありました」
「なに、僧が祖父を殴っただと。出家したものは、ひたすら仏道に帰依して、戒法を守るのが当たり前なのに、仏門を穢しおって。お上に報告してくる」
馬子は、推古に報告した。
「仏に仕える身で、悪逆な行為を犯すなんて、とんでもないことです。太子が、苦労して取りいれた仏教を。それが事実かどうか、大臣、諸寺の僧尼に尋問せよ。事実であれば、連帯責任を取ってもらいます」
「お上、承知しました」
馬子は、朝堂に戻って、文官たちに、調査を命じた。
観勒が、庵でこのことを知った。
(これは大変なことになるぞ、大臣に会って何とか連帯責任の罪を回避していただければな)
観勒は、推古十年(六百二年)に渡来し、天文、暦本、陰陽道を伝えた百済の僧で、推古の命で、これらのことを数人の書生に教授した。
数日後、観勒が‘僧が斧で殴った件’で、馬子に会いに朝堂を訪れた。
客間に通された観勒は、
「大臣、お忙しいところ、愚僧にお会いしていただきありがとうございます」
「観勒、述べよ」
馬子に、上表文を読み上げた。
「仏法は、西国から漢に渡って、三百年が経ち、そして百済国に来て百年しかたっておりません。我が国の王は日本の天皇が賢哲であられると聞き、仏像と経典を献上いたしました。それから何年もたっておりません。それ故、日本の僧尼が未だ法に習熟していないことにより、軽率にその僧が悪辣な罪を犯してしまったのです。どうか、悪逆者を除いて他の僧尼には皆罪を問わないようお願いします。このようにすることは、大きな功徳となりましょう」
「あい、分かった。お上に伝えよう」
観勒は、馬子が退去するまで、畳に頭を擦り付けていた。
それから十日後、推古は、大殿の広間に大臣以下を招集し、皆に向かって言った。
「僧でさえ法を犯すのならば、一体どのようにして俗人を教化すれば良いのか。今後は、まず僧尼を教化する為に、僧侶を統轄する僧正と僧都を任命し、取り仕切ってもらう。よいと思う者を推薦せよ」
官吏からいろいろ名が出たが、馬子が推薦した観勒が僧正、鞍部徳積(くらくりのとくしゃく)が僧都と決まった。
「阿曇連(あずみのむらじ)、このこと、二人に伝えよ」
推古は、法頭の阿曇連に言って退席した。
それから半年過ぎて、飛鳥には秋風が吹き始めていた。
そんなある日、阿曇連が推古、大臣、臣たちに大殿に来て、報告した。
「お上、寺四六か所、僧八一六人、尼五六九人合わせて、一三八五人を調べました。この書状には、寺の由来、僧尼の入門の動機そして得度日をしたためています」
阿曇連が、推古に平伏して、書状を渡した。
馬子は今日も、体調がすぐれず、宮には参内していなかった。
「蝦夷、もう俺はそんなに長くはない。これからお前の時代だ。何とか蘇我氏の権力をしかと握れ。分かったな」
「何を、父上。気をしっかりお持ちください」
推古三十四年(六二六年)五月二十日、飛鳥川のほとりの桃源に構えた嶋の家で大臣馬子は、息を引き取った。
馬子の葬儀は、盛大にとり進められ桃源の墓に葬られた。
推古は、今更ながら、馬子の軍略や人の議論を見極める才能を惜しみつつ、それとは別に安堵する自分に気が付いた。
一方、父田村皇子の妻、宝皇女が、将来大化の改新の中心となる中大兄を出産した。
この年は、夏に雪が降り、その後は長雨が続き、国中が大飢饉となった。
老人は、草の根を食べて、道端で生き倒れ、幼児は、乳を含んだまま、母子とともに死んでいった。また、強盗、窃盗も頻繁に起こった。
推古は、神に天下泰平を毎日祈念していたが、なかなか好転せず、とうとう病に臥せってしまった。
推古三十六年(六二八)三月六日、昼、陽が隠れた。
床に臥せった推古は、田村皇子を呼ぶよう近習の者に命じた。
「お上、御具合はいかがでしょうか」
推古は、田村を近くに来いと手招きをした。
「これからいうことは肝に銘じて守りなさい。天皇になって、大業の基礎を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、安易なことではなく、重大なことです。それ故、お前は慎重に考え、軽々しいことを言ってはなりません。いいですね」
推古が下がってよいと手を振った。
そして次の日、推古は山背大兄を呼んで言った。
「お前は、未熟者です。もし、心に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりません。必ず官吏たちの言葉を待って、それに従いなさい」
推古は、後継をどちらにするのか、明言しなかったため、二人に期待を持たせてしまった。
第二話。継承争い
数日後、推古は官吏たちを呼んで、
「近年、五穀が実らず人民が飢えています。私のために陵を造って厚く葬ることは止めよ。竹田皇子の陵に葬りなさい。」
と命じ、瞼を永遠に閉じた。
推古の葬儀を終えるや否や、推古の後の皇位継承で、もめはじめた。
聖徳太子の嫡子の山背大兄が、
「我は、推古天皇から後継と指名されているのだ。皇位継承するのは、我である。」
と、皆にしきりに主張した。
それに対抗して、大臣の蘇我蝦夷は、古人王子に目をつけ、その父田村皇子を擁立しようと画策に走った。
春の風が飛鳥に吹き始めたある日、蝦夷は官吏たちを屋敷に呼び、饗応した。
「叔父殿、皇位継承は、田村皇子でいかがかな」
「何を仰せか、山背大兄王子が妥当であります」
蝦夷の叔父の摩理勢が、むきになって行った。
「倉麻呂は、どうじゃな。我が妹の法提郎媛(ほてのいちつのひめ)が嫁いでいる田村皇子が良いとは思わんか。」
「どちらが、よろしいかな」
従兄弟の倉麻呂は、中立の立場を守り続けるつもりであった。
息子の入鹿は、叔父や従兄弟も抑え込むことができない蝦夷を見て、苛立った。
斑鳩の里には、桜が咲き始めていた。
摩理勢からの書状を山背大兄は読んで、三国王と桜井臣の二人を呼び、対応を相談した。
「皇子、まずは、大臣の真意を直接に確かめたらいかがでしょうか。」
三国王の助言を聞き、山背はそれを文にしたため、二人を蝦夷のもとに行かせた。
朝堂の客間で、しばらく、三国王たちは待たされた。
蝦夷が、付き人を一人伴って部屋に入って来て、床に座った。
「ご苦労様です、それで何用でしょうか。」
「大臣、皇子からこれを預かってまいりました。」
三国王が差し出した文を、蝦夷は一読して、
「しばらくここでお待ちください。」
と言って、蝦夷は部屋を出て行った。
(専横の誹りを免れるために、ここは、官吏に文の内容を聞かせておこう。)
そして、大臣の部屋に戻ると近習の者に入鹿と官吏の人間を大広間に集めよと命じた。
近習の者が、広間に官吏たちが集まったと、蝦夷に伝えに戻って来たので、すぐに広間に入った。
そして、蝦夷は、山背大兄の文を読み上げ、
「ここに集まった官吏の大夫は、田村皇子が、後継の筆頭であることには意義はないな。」
と、言って官吏たちの顔を一人一人、見まわした。
「紀臣と大伴連、供に斑鳩宮に参上し山背大兄皇子に謹んで次のように申しあげよ。
『臣下の一人である蘇我蝦夷が、軽々しく、天皇の後継を定めたりしましょうか。ただ、田村皇子が後継であるとの天皇の遺詔を官吏たちに告げただけで、これに対しまして誰も異議は申し出ておりません。仮に、私自身の考えがあるとしても、人伝えに畏れ多く申し上げることはできません。お目にかかったうえで、私の口から直接に申し述べましょう。』と、分かったな。決して余計なことを言うではないぞ。」
三国王、桜井臣、紀臣と大伴連たちが、斑鳩の里に入った時には、もう既に陽が落ちていた。桜井臣が、松明に火を灯し、宮に先導した。
斑鳩の宮の客間に通され、紀臣は山背大兄に蝦夷の言葉を伝えた。
山背大兄は、訝しげに言った。
「天皇が後継者は、田村皇子と言ったと聞いた者は誰かいるのか。」
紀臣と大伴連の二人は、顔を見合わせた。
「私たちは、存じません。」紀臣は、言った。
さらに、山背大兄は詰問し続けたが、二人は知らぬ、存ぜぬを通した。
「紀臣、正しく天皇の遺詔を知りたいと山背が言っていたと大臣に伝えて欲しい。」と言い、そして、桜井臣に二人をもてなすよう命じ、席を立った。
女が、盆にかぶと生姜の酢の物、胡瓜の塩漬け、心太(寒天)、蘇(チーズのようなもの)を乗せて三人の前に置いた。そして、桜井臣や女たちの勧めで、二人は濁り酒を何杯も飲んだ。
二人は、桜井臣に、大臣の本心を聞こうと探りを何度となく入れられたが、知らないと、何度も答えた。
桜井臣は、不機嫌な顔をしながら酒を煽って言った。
「山背大兄様は、聖徳太子の御子であります。お世継ぎは皇子様しかおりませぬ。」
「桜井殿、そろそろ明日も早いので、この辺で失礼させていただきたいのですが。」
紀臣は、頭を下げて言った。
二人は、女に客間に案内された。
「紀臣様、寝て下さい。私は眠らずに見張っています。」
大伴連が、剣を抱いて壁にもたれた。
翌日、陽が昇るとすぐに、紀臣と大伴連は、山背大兄に挨拶を述べ、斑鳩の宮を後にした。
「大伴殿、山背大兄王子様は、ちょっとやそっとでは、諦めそうもないな。大臣は、難儀をするぞ。」
紀臣は、困った顔をして言った。
二人は昼ごろ、宮に着き、そして朝堂の大臣の部屋で蝦夷に山背大兄との話を伝えた。 (皇子め、太子の霊に憑りつかれおって。)蝦夷は、危機感を持った。
その翌日、なんとか、田村皇子を皇位継承の同意を得るために、蝦夷は、大夫や官吏たちを嶋の家で饗応した。
「境部臣(弟の摩理勢)が、来ていないではないか」
蝦夷が、入鹿に怒鳴るように言った。
「父上、叔父上のことなど気にせぬことです」
「何を言うか、あいつを何とか承知させなくては。」
入鹿は、祖父馬子が築いた蘇我家の権威を気の弱い蝦夷が、崩していくのが悔しかった。
それでも、蝦夷の奮闘により、阿部臣と中臣連は、田村皇子の継承に翻った。
まだ宴は続いていたが、蝦夷は、入鹿のところに行って、
「摩理勢に会って、再度、次期天皇は誰が良いか聞いて参れ。阿部臣を伴に連れて行け」
入鹿は、渋々と阿部臣を連れて摩理勢屋敷の屋敷に行った。
「叔父上、如何でしょうか」
入鹿は、蝦夷の言葉を伝え、返事を待った。
「この前、大臣自身が問われた時、私はすでに申し上げております。今またどうして、このような大事なことを人伝えにお返事しなくてはならないのか。大臣に帰ってそうお伝えせよ」怒りを露わにして、部屋を出て行った。
入鹿は、ここまで蝦夷の権威が落ちているに愕然とし、
(何とか、名門蘇我宗家を立て直せねば)と心に誓った。
桃源(現在の石舞台古墳の場所)に、馬子の墓を造るために蘇我一族が皆集まって、それぞれ仮の住まいに寝泊まりしていた。
摩理勢もそこで皆と一緒に墓を造っていたが、毎日、毎日蝦夷の執拗な要請うんざりした。
「大臣は、一体何を考えているんだ。もうこんなところにはおれん」
と怒って、蘆を打ち壊し、斑鳩にいる山背大兄の異母弟の泊瀬王(はつせのみこ)の宮に移り住んでしまった。
それを阿部臣が、蝦夷に報告した。
「勝手なことをしおって、どこまでも逆らう気か」
怒り心頭、顔を真っ赤にして近習の者を大声で呼びつけ、書状をしたためさせた。
「阿部臣、この文を山背大兄皇子に届けろ。いいか、言うことを聞かないとどうなるか、脅して来い」
さすがの阿部臣も、皇子に対する蝦夷の態度に嫌悪感を持った。
山背大兄は、阿部臣から渡された蝦夷の文を読んだ。
「何、摩理勢を渡せと」
しばらく、山背大兄は黙って文を見続けてから、
「阿部臣、摩理勢はしばらくの間、静養のために滞在しているだけで、どうして、大臣に背いたりするであろうか。どうか、咎めないでいただくよう、大臣に伝えよ」
「皇子様、それでよろしいですか。皇子様までを巻き添えにするのは、なんとも忍びないのです。御熟考下さい」
阿部臣は、板の間に頭を擦り付けた。
「五日間待ってくれ」
「承知いたしました。大臣に伝えます」
阿部臣は、ほっとして斑鳩を後にした。山々の緑の深さに気づくも、道を急いだ。
山背大兄は、摩理勢を屋敷に呼んだ。
「摩理勢、大臣に背くことは絶対に許さない。早く、大臣に詫びを入れなさい」
「皇子、そのような弱気でいらっしゃると、とてもお上にはなれませんぞ。しっかりしてください」
「お前は、前皇の御思を忘れずによくやってくれて有り難く思っている。しかし、お前一人のことで、国が乱れようとしている。私はそれを許すわけにはいかない。心を改めよ」
摩理勢は、涙を流しながら低頭し、宮を去った。
それから十日後、泊瀬王が、夕食の後急に苦しみ出した。そして、摩理勢が、王の部屋に入った時には、もう既に息を引き取っていた。突然の死であった。
「泊瀬王様・・・。蝦夷の仕業か」
摩理勢は、蝦夷たちを迎え撃つために、陣を設営する準備に取り掛かった。
山背大兄の使者が、蝦夷に泊瀬王の死を知らせた。
近習に呼びにやらせた巨勢徳陀臣(こせとこだのおみ)が、大臣の部屋にやって来た。
巨勢徳陀は、蝦夷の前に座って、低頭した。
「お前を摩理勢討伐の大将軍に任ずる。準備にかかれ」
巨勢徳陀臣は、蝦夷の命により、蘇我氏に代々仕えてきた漢直(あやのあたい:帰化系氏族)を集め、甲冑を身に着けさせ剣を持たせ斑鳩に向け、出発した。
摩理勢の軍勢は五百、それに対して蝦夷の送った二千の大軍。迎え討った摩理勢軍はあっけなく、敗戦に追い込まれた。
摩理勢は畝傍山に逃げようとした。
「摩理勢が、いたぞ」巨勢徳陀臣の率いる軍の兵士が大声を上げた。
あっという間に、摩理勢は敵に囲まれた。
「やっちまえ」数人が、摩理勢に飛びかかり、撲殺した。
摩理勢の長子、毛津(けつ)が後ろを見た時、摩理勢の首がはねられた。
(父上・・・。)山頂に辿り着いた時は、毛津一人であった。
「父上、母上、無念でございます」
剣で喉を突き刺した。
蝦夷と摩理勢の蘇我一族の勢力争いは、あっけなく蝦夷に軍配が上がった。
第三話。蘇我氏の台頭
舒明元年(六二九)正月四日、蝦夷は田村皇子に天皇の御印を献上したが、
「国家に仕えることは、重大な仕事なので私のような拙い人間にその任に当たれようか」
と言って、辞去した。
蝦夷は伏して、
「皇子は、先の天皇の愛を一身に受け、神も庶民も心を寄せています。是非、天皇を継承され、民に君臨すべきです」と、切に願ったところ、
「あい、分かった」と、田村皇子は承諾し、その日に天皇の位についた。
舒明天皇の誕生であった。
舒明は、蝦夷に飛鳥岡に宮を作るよう命じた。
舒明二年(六三十)。
中大兄は、四歳になった。
「利発そうな子じゃな、岡本宮に移っても大丈夫だろう。学問をするには、あちらのがよいぞ」
舒明は、宝に言った。
「そうですね。お上の言われる通りかもしれません」
宝は、舒明の器に酒を注ぎながら答えた。
中大兄は、舒明に連れられて、宝と弟の大海人そして、妹の間人と、飛鳥寺の正面に造られた岡本宮に遷った。
三月、高句麗と百済の使者が、舒明の即位の祝いに飛鳥にやって来た。
「お上、是非、日本の使者を唐に送って下され。沢山の貢物を渡して、唐の太宗のご機嫌を取っておいた方が、良いかと存じます。また、唐が我らを攻めて来たときは、是非援軍を出していただきたい」
(太宗の出方を探っておかなければなるまい、大国の唐が南下して来たら、朝鮮半島は一年ももつまい。)
飛鳥に秋風が吹き始めた。
舒明は、大極殿に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(すしのえにち)を呼んだ。
「犬上御田鍬、薬師恵日。唐に行って来てくれ。御田鍬、お前を大使で、薬師恵日は、副使を命ずる。よいか、太宗の動静を探って、逐次、知らせてくれ。唐は、高句麗を討ち、新羅、百済を攻め、我が国に攻め寄せてくるやもしれん。くれぐれも、悟られないように。詳細は、大臣と相談するがよい。」
それから一か月後、御田鍬たちは、難波港にいた。
御田鍬は感慨深かった。
(これが、俺の最後の渡航だ。)
長さ二十間、幅五間、帆柱2本の平底箱型の派手に朱に塗られた船二艘が、真っ青な空と海にくっきりと浮かび上がって、穏やかな波に揺れていた。
御田鍬は、知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)に聞いた。
「総勢何名か」
「はい、二百名ほどになります」と言って、船長、船大工、操舵手、書記官、通訳,神主、医師、陰陽師,天文観測、占い師、 留学生、学問僧、楽師、ガラス工人、鍛冶鍛金工、鋳物師、大工らであると答えた。
(と言って、内訳が、船師(船長)、船匠(船大工)、柁師(かじし、操舵長)、挟抄(かじとり、操舵手)、水手長(かこおさ)、史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)、訳語(やくご、通訳)、新羅・奄美等訳語、主神(神主)、医師、陰陽師(易占、天文観測)、卜部(うらべ、占い師)、射手(いて)、音声長(おんじょうちょう、楽長)、 留学生(るがくしょう、長期留学生)、学問僧(長期留学僧)、請益生(しょうやくしょう、短期留学生)、還学僧(げんがくそう、短期留学僧)、音声生(おんじょうしょう、楽師)、玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)、鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)、鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)、細工生(さいくしょう、木工工人)であると説明した。)
次第に見送りの人々たちの数が増えてきた。
「大使、出航の準備が整いました」
薬師恵日が来て、御田鍬に伝えた。
「分かった」
御田鍬たちが乗った船は、出港した。
筑紫~壱岐~対馬~朝鮮半島西岸北上~渤海湾横断し、山東半島上陸まで、危険を伴う長旅に。
御田鍬たちが唐に向かって出航してから一年数か月が過ぎた、舒明四年(六三二)。
中大兄(改新までは葛城皇子と呼ばれていたようだが、ここではすべてこの名で呼ぶことにする)は、六歳になった。
父の舒明は、今までの天皇と違い、神教よりも仏教に心酔していた。
舒明の勧めで、中大兄と弟の大海人は飛鳥寺で学問を学ぶことになった。
初夏の朝、従者を伴って、二人は、飛鳥寺に行った。
「兄上、大きなお寺ですね」
「この寺は、大臣の父上、蘇我馬子殿が建立を発願された寺だ」
「皇子様、お待ちしておりました」
僧たちが、門前で二人を出迎えた。
座主と言った僧が、二人の前に出て説明しながら、歩き始めた。
「この寺は、五八八年に百済から仏舎利が献じられたことにより,蘇我馬子様が寺院建立を発願し,五九六年に創建された寺院です。今も、蝦夷様や入鹿様が時々、来られます。ご覧ください、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍で、東西二町、南北三町の広さの境内です」
中大兄は、蘇我一族の権勢に改めて驚いた。
「北の金堂には、推古天皇が止利仏師に造らせた釈迦如来像が安置されています。御案内いたしましょう」
青空に飛び立つかのような五重塔の傍を通り抜けると、高いだけでなく、堂々とした建物の前に来た。北の金堂であった。
「さあ、中へどうぞ」
座主が、二人を促した。
金堂に入ると、涼しさとともに荘厳さが、二人を包み込んだ。
丈六(約五メートル)の金銅で造られた釈迦如来像が、ろうそくの炎に輝きながら浮かび上がっていた。
(なんと大きなこと)中大兄と大海人は、肝をつぶした。
仏は、優しく遠くを見やって眼、毅然とした心を口元に表し、物静かに座していた。
二人は、仏の前で合掌し、それぞれの思いを祈念した。
中大兄たちは、飛鳥寺で基本の文字、算術を一か月で学び、そして、初歩的な仏典を二か月目で習得した。
そして、今日から四書五経を学びに、寺に行った。
学問所で、二人を座主が迎えた。
「今日は、四書五経とは何かをまずわたくしの方から説明します。四書とは、『孔子の論語』、『覇道政治を否定し、王道政治を提唱した孟子の言行録』、『大学という儒教の入門的な読みやすい書物』、『孔子の孫の子思が著述した深遠な世界の摂理を説いた中庸』を四書と言います。次に五経ですが、『歴史書であります書経』、『孔子が編纂したと伝えられる中国最古の詩集である詩経』、『陰陽説を汲んだ周王朝期の占いに関する書物である易経』、『礼について形式だけでなく、理論化した礼記』、『孔子が作成編纂したと伝えられる、中国古代・魯国の歴史書、春秋』の五つになります。量が多いのでしっかりと勉強してください」
中大兄と大海人は、四書五経を学ぶのが楽しみになった。
座主が、部屋から出て行ってからしばらくして、四書の専門の僧が、入ってきて講義が始まった。
昨年発った御田鍬たちが、唐から帰ってきて、岡本宮に舒明を訪ねた。
「お上、ただ今戻りました」
御田鍬と薬師恵は、平伏した。
「ご苦労であった。面を上げえ。唐はどうであったか」
御田鍬が答えた。
「お上、太宗は、朝鮮三国を攻める準備をしています」
「我が国を攻めてくるのは、二年後くらいか。大臣に九州の防備を固めるよう命じる」
「薬師恵、どうであったか」
舒明は、薬師恵には唐の文化や技術を問うた。
「唐では、陰陽道(おんみょうどう)が盛んになっています。僧や仏師を連れてまいりましたので、いろいろお聞きなさるとよいかと思います」
「我は陰陽道についてよく知らんのだが」
「陰陽道は、古代中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行説を起源としています。陰陽五行説とは、木、火、土、金、水、の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配します。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になります。陰陽は語尾の‘え’が陽、‘と’が陰です。天文、暦数、時刻、易の学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として受け入れられております。このような技術は、わが国では漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われております」
「よく分かった。御田鍬、薬師恵、連れてきた者たちの面倒を見てやってくれ。僧については、寺を建立するのでそれまで頼む」
薬師恵は、低頭した。
「下がってよい」
百済寺が建立され、薬師恵が連れてきた僧たちは、寺に入った。
そして、中大兄と大海人は、飛鳥寺から百済寺に変え、二人は、唐の最新の陰陽道を学んだ。
中大兄たち二人の理解の早さには、僧たちも驚いた。
舒明も喜んだ。
中大兄と大海人は、暑い夏も毎日、朝は百済寺で講義を受け、昼は、屋敷で武術を学んだ。
二人の成長は早かった。
十月末日朝、舒明は、中大兄と大伴連馬養(おおとものむらじうまがい)を大極殿に呼んだ。
「明日、唐からの使者 高表仁が朕(わたし)に唐の宰相太宗が璽書を渡すために難波津に来るそうだ。そこで、中大兄に接待知ることを命ずる。そして、大伴連、お前たちは、中大兄の補佐をするよう頼む」
二人は、大極殿を辞去し準備にかかり、そして昼近くに、難波津に向かった。
夕暮れ時に、難波津鴻臚館に到着した。
「殿下、ここに今日は泊まります。お食事をして、湯に入りごゆっくりしてください。明日は、くれぐれも、よろしくお願いします」
大伴連馬養は、中大兄に言った。
中大兄は、すぐに床に就いたが、あまりの緊張のため、一睡もできずに、朝を迎えた。
「おはようございます」
大伴連馬養が、朝の挨拶に来た。
「皇子様、よく寝れましたか」
「よく寝たぞ」
馬養は、中大兄の顔を見て、寝不足の表情を読み取っていた。
朝飯を取って、中大兄たちは、交渉の策を練った。
そして、大伴連馬養たちは、高表仁を出迎えに館を出て行った。
高表仁たちは、大伴連馬養に案内され、鴻臚館に到着した。
迎賓の間で、中大兄が迎えた。
簡単な挨拶を終え、宮での儀式について、打ち合わせが始まった。
高表仁がすぐに、提案した。
「日本(倭)の天皇は、太宗の臣なので九三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を以って、太宗天王からの国書を受けよ」
中大兄は、毅然とした態度で言った。
「日本の天皇は、太宗の臣ではない。唐で行われる太宗の前で、臣下が行う儀式は行わない。日本の儀式で、お前が、天皇の前で膝間づき国書を渡せ」
「話にならん。大伴連馬養殿は、如何」
「殿下と同じです」
「覚悟しておけ」
椅子を蹴って、高表仁は去った。
この話は、岡本宮にいる舒明と大臣たちにすぐ伝わった。
皆このことを聞いて、震撼した。
「なんてことをしたのだ」
蝦夷は、怒り狂った。
「大臣、お上がお呼びです。」
近習が、来て言った。
「分かった」
*
大極殿に入ると、蝦夷は客間に通された。
「大臣、高表仁が怒って帰って行ったことは、知っているだろう」
「はい、お上。存じております」
「唐が、これ機会に我が国を攻めてくるやもしれん。それに対抗するために、九州を防備するよう策を立て、実行せよ」
「承知いたしました」
蝦夷は、蝦夷は怒りを抑えて、大極殿を後にした。
*
舒明は、大伴連馬養から中大兄の高表仁に対した行動を聞き、驚いた。
(息子には、もっともっと学問をさせ、我の後継者として育てよう)
閨で、舒明は妻の宝に言った。
「この間唐から帰ってきた霊雲に学問を、息子たちに教えさせようと思うが、どうであろう。霊雲は、吉蔵に三論を学んだそうだ。今、元興寺に入っている」
「そうですね。飛鳥寺の学問僧は、蝦夷にくみしていますので、そろそろ代わった方がよいと思います。また、最近の唐の知識を学ばせることは、きっと役に立つでしょう」
「元興寺も蘇我の息がかかっているだろうから、霊雲に屋敷を与え、そこに通わせよう」
中大兄は喜んで、毎日通った。
飛鳥は、夏になった。
百済の使者が、やって来た。
舒明は、大極殿の接待の間で歓待した。
舒明から唐のことを聞かれたので、使者の一人が、答えた。
「お上、唐が日本を攻めると決めたようです」
「太宗が攻めてくるか」
「この間、中大兄皇子様が、高表仁に対して軽んじたことに怒り心頭したようです」
「いつ頃になりそうか」
「太宗は、その前に、高句麗、新羅そして我が百済を手に入れなければと言っているようです」
百済の使者が帰ったのちに、舒明は大極殿の広間に官吏たちを集め、唐が朝鮮三国を攻め、そして日本を攻めるであろうとのこと話した。
「お前たちの意見を述べよ」
「お上、太宗に貢物を献上し、今回の件について、詫びをいれるのが常套かと思われます」
田中臣が、言った。
「田中臣、何を仰る。我が国が唐の属国になってもよいというのか。お上、ここは、百済に援軍を送って、唐の軍を朝鮮半島から一掃いたすことが、肝要かと思います。今回の件、太宗が我が国の出方を試したのです。ここまで来たら、徹底抗戦しかありません」
蝦夷が反論した。
「大臣、勝算は、あるのか」
「朝鮮三国と組むことができれば、勝てます。万が一のことを考え、九州に砦を作り、兵士を送り込みましょう」
蝦夷が答えた。
「お上、太宗に詫びを入れるなんてとんでもありません、中大兄皇子を人質に出せと言い出すかもしれません。任那を復興して、唐の攻撃の楯にしてはいかがでしょうか」
大伴連馬養が答えた。
「お上、早く兵を集める御命じ下さい」
蝦夷が、逸った。
「分かった、大臣。思う存分集め、九州に送り込め。また、百済にいつでも援軍を出せるよう、多くの船を準備いたせ」
*
舒明八年(六三六)、中大兄は、九歳になった。
飛鳥に蝉がけたたましく鳴いている朝、百済の使者が、舒明を訪ねて来て、
「お上、太宗は、高句麗を攻めるも攻略できず、撤退しました」と伝えた。
舒明たちは、安堵し、この時より防備を怠るようになった。
また、宮中では、宮人たちが、地方の豪族がその娘を天皇家に献上した采女(うねめ)たちを奸していた。
このような荒んだ状況に我慢できず、中大兄は、宮中の秩序を守るためにも、舒明に采女を奸した人間は断罪にすべきと進言した。
「皇子、分かった。すぐに処分致そう」
舒明は、大臣を呼び、宮人をすべて調べ上げ、采女を奸したものは、皆晒し首にせよと命じた。
処分は、一斉に行われ、宮中の規律が元に戻った五月ごろから長雨が続き、各所で川が氾濫し、民たちの多くは、家や畑を失った。
雨も収まった六月十五日の夜、
「火事だ、火事だ」大殿で叫び声が聞こえた。
近習の者が、息を切らせて、舒明の褥にやって来た。
「お上、東の朝堂から火が出ています」
「何、早く宝や皇子たちを安全な場所に避難させよ」
中大兄は、妹の間人の手をしっかりと握っていた。その後を大海人が続いた。
「兄上、怖い」
「間人、泣くな」
中大兄たちは、岡本宮が燃え盛るのを見て涙した。
半時ほどで、火は岡本宮を燃え尽くした。
舒明たちは命からがら、岡本宮を後にした。
「お上、付け火です。しばらくは、我慢してください」
近習の者が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「火をつけたのは、一体、何奴。しっかり調べよ」
半月後、蝦夷の住んでいる豊浦宮西北近くに、宮として、田中宮が作られ、舒明たちは移り住んだ。
数日後、舒明は大臣を呼んで、命じた。
「大臣、ここに移ってから、官吏の中で参朝に遅れる者が多い。綱紀粛正、明日から皆、卯刻(午前五時)に参朝させ、そして、巳刻(午前九時)退朝せよ。それを鐘で知らせ守らせるのだ」
「承知いたしました」
蝦夷は、言った。しかし、蝦夷は、いつまでもこのことを実行せず、舒明の命を無視し続けた。
舒明は、高句麗と百済を支援することに、蝦夷は、反対していた。
蝦夷は、四月に入った頃から、参朝しなくなった。
「いよいよ、蝦夷が、乱を起こそうとしている」との百姓、町民たちのもっぱらの噂でもちきりになっていた。
*
舒明は、上野毛君形名(かみつけのきみかたな)を大殿に呼んだ。
「そなたを蝦夷追討の将軍に命ずる、しかと、討って来い」
(やはりそうか。なんでこの儂が、蝦夷は手強いから、気をつけねば)上野毛君形名は、床に頭をつけ、
「承知しました」と言った。
数日間、上野毛君形名は準備して蝦夷の館を攻めた。
「攻めよ。蝦夷を逃がすな」
上野毛君形名は、焦った。蝦夷の軍が、上野毛君形名の軍を押し返してきた。
「引き返せ」 上野毛君形名は、一目散に逃げた。
上野毛君形名の妻が嘆いた。
「殿、情けない。忌々しいことですね。蝦夷に負けるなんて。殿の先祖は、海外の政権を平定するという後世に名をのこしたのに、こんなことでは、後世の人たちに笑われます」
酒を夫に飲ませ、自ら剣を帯び女人たちに弓を取らせて、蝦夷の軍に立ち向かった。
今度は完勝した。
蝦夷は、逃げた。
それから何事もなく、四季は流れ、舒明十二年(六四〇)、中大兄、十五歳の秋。
十月十一日、唐に留学していた学問僧の南淵清安と高向 玄理(たかむこのくろまろ)が、百済と新羅の使者を伴って帰国し、舒明に挨拶した。
「ご苦労であった。清安と玄理、そちたちは、来月から、ここに居る中大兄と大海人に最近の唐のことを教えてやってくれ。今月中に、百済宮が完成するので、そこで頼む」
「お上、光栄に存じます。皇子様にお教えいたします」
十月末日、舒明は、宝、中大兄たちを連れて、百済宮に移った。
宮前には、百済寺が建立されていた。
「父上、あれは、九重塔ですか」
中大兄が、立ち止まって、指さした。
「そうだ、日本で一番高いであろう」
舒明は、清安と玄理を宮に呼びつけて言った。
「おぬし達は、共に百済寺を運営してくれ。留学帰りの僧たちをこの寺に受け入れるのだ」
「有り難き幸せ」
舒明は、仏教を受容した初めての天皇であった。
それに対して、任那復興、対新羅強硬路線とる、死んだと思われていたが蝦夷と入鹿父子は、舒明に敵対した。
蝦夷は、入鹿の館でしばらくの間おとなしくしていたのであった。
舒明十三年(六四一)十月九日、百済宮で、宝、山背大兄、古人大兄たちに看取られ、陽が昇ると同時に、舒明は、息を引き取った。
宝の落ち込みは、尋常ではなかった。 蝦夷にとって代わって実力者となった息子の入鹿は、舒明の葬儀を恐れながらも差配したいと宝たちに伝えたが、中大兄は、直径の自分が舒明の葬儀を取り仕切ると入鹿の申し出を断った。
宝もそれを聞いて、
「中大兄、よろしく頼みます」と、涙を拭きながら言った。
また、入鹿は、舒明の後継として、馬子の娘、蘇我法堤郎媛(ほほてのいらつめ)が生んだ古人大兄の擁立を企てた。入鹿は、深慮遠謀、蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子を推した。
しかし、宝や、中大兄たちは、蘇我一族に染まることを懸念して、真っ向から反対した。
一年もの間、舒明の後継がなかなか決まらずにいたため、中大兄たちは、入鹿の妥協案をやむなく取り入れ、
六四二年正月、宝が皇位についた。皇極天皇誕生であった。
入鹿は、皇極を中継ぎとして、次に古人大兄を皇位に付けることを狙っていた。
「お上、大臣の息子入鹿殿が、政に口を出す機会が増えてきて、皆困っております」
群臣の一人が、さっそく、皇極に注進したが、皇極は、何も答えなかった。
大臣の蝦夷より子の入鹿が、国の政治を執るようになり、その権勢は、父親を勝るようになった。それだけでなく、大臣の蝦夷と入鹿の専横ぶりに皆なにも反対できなくなった。
さらに、息子の入鹿は、国中の民を徴発し、大臣の墓を大陵、自分の墓を小陵と言って、葛城の高台に造らせた。そして、そこで八つらの舞を演じさせた。八つらの舞とは、天子のみに許された八列六十四人による舞のことである。
それを知った中大兄は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとする野心を露わにしたものと、激怒した。
中大兄は、大極殿に参じた。
「お上、蘇我一族は、天皇家を乗っ取ろうとしています。早く対処すべきかと」
中大兄は、目がつりあがっていた。
「皇子、宮を移ることにした。入鹿たちから遠ざかるのだ」皇極は苦々しく言った。
二か月後、皇極たちは、小墾田宮に移った。
この一連の皇位継承問題で、天皇家と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
十月、入鹿は各国へ派遣される国司たちを朝堂で饗応した。
そして、最後に大夫の筆頭頭、阿部内麻呂が壇に立った。
「お前たち、これから任じられたところへ行き、気を引き締めて土地を治めよ」
「おう」
それから数日後、蝦夷は床に臥せって、参朝することができなかった。
近習の者を呼んで、
「入鹿を連れて来い」と命じた。
入鹿がやって来た。
「父上、何か御用ですか」
「もう儂も長くない。これをお前に引き継いてもらう。皇子たちには気をつけろ。」
と言って、置かれていた紫冠を与えた。
「父上、このようなことを勝手にやっては、まずいのではありませんか」
「お上には、儂から書状をしたためておくので、心配するでない」
上宮の王たちは、威光があるという評判に、入鹿は憎々しげに思っていた。
(上宮の王たちを廃し、古人大兄を跡継ぎにしないと我々は危ない)
入鹿は、軽皇子と安倍内麻呂を呼んで、斑鳩にいる山背大兄を攻め滅ぼす策を練った。
十一月、入鹿は、巨勢徳太臣を大将軍にして山背大兄を攻めさせた。
山背の数十人の舎人が、迎え撃ったが、多勢に無勢であった。
山背は、生駒山に妃と一族を率いて、逃げた。
しかし、数日後。
「皇子、これから東国に逃げましょう。東国を本拠にして、再起を掛けましょうぞ」
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が、山背の前に出て言った。
「お前が言う通り、そうすればきっと勝てるであろう。しかし、我一人のために、万民を苦しめ、煩わせることが出来ようか。我のせいで、父母を亡くしたなどと言われたくない。ここは、身を捨てて国を固めるのが、一番だ」
山背たちは、山を下りて、法隆寺に入った。
それを知った入鹿は、兵を館に集めた。
「今度こそ、山背の首を取るぞ」
入鹿は、兵一千で法隆寺を囲んで銅鑼と鐘を鳴らした。
「山背大兄様、お出ましなされ」
金堂では、山背が三輪文屋君に、将たちに伝えるよう命じた。
「我が兵を起こして、入鹿を討伐すれば勝つこと必定である。しかし、我一身のため人民を殺傷させたくない。我が身一つを入鹿に与えよう」
「皇子、それはなりませぬ」
山背たちは、あっけなく滅ぼされた。
「大臣、入鹿様が山背大兄様を討ったそうです」
蝦夷の近習の者が、息を切らせて報告した。
「何、入鹿の愚か者めが、お前もいつかは討たれるぞ」
蝦夷は、愕然とした。
蝦夷は、入鹿が戻って来たら、すぐ来るように家来に命じた。
「入鹿、なんてことをしでかした。天皇家たちの報復を受ける覚悟はあるのだな」
「父上、蘇我家の権威が失墜してしまうことが心配で、山背大兄様を討ち取りました。父上に怒られる筋合いはございません」
「もう済んだことは仕方がない。いつ攻められても受けて立つことができるよう警護を固めよう、分かったな」
蝦夷と入鹿は、攻められても十分持ち堪えることができる場所として、飛鳥の甘樫岡を選んだ。
そして、家来や民を総動員させ、‘上の宮門’と‘谷の宮門’と呼ばせた館を並べて建てさせた。
そして、周りに堀を掘って、水を貯め、館を城柵で囲い、武器庫を数か所設けた。
今から千五百年ほど前、日本の礎を築いた人々の物語である。
推古三十年(六百二十二年)、二月五日夜半、斑鳩の里にて、聖徳太子は、四十九年の短い人生の幕を閉じた。
太子の晩年、推古天皇のもと、天皇家中心の国家を目指していることに、用明・崇峻・推古の三代にわたり大臣職を務めていた蘇我馬子は、危機感を持った。馬子との意見の対立が、事あるたびに起きた。
巷では、崇峻天皇の暗殺のように、太子も暗殺されるのではないかとの噂が飛び交った。
身の危険を感じた太子は、斑鳩の里に住居を移し、政務には一切関わらず、ひたすら仏教に帰依していた。
そして、太子の死後から一年も過ぎずに、女帝推古の苦悩は、始まった。
推古三十一年、朝鮮半島では新羅が任那を攻めていた。小墾田宮(こはりだぐう)の大殿の広間では、大和に応援を求めてきた任那の使者に接見した推古は、大臣の蘇我馬子と貴族たちを集めて、どう対処するか会議を開いた。
「皆の者、我は応援を出す時ではないと思うがいかがであろうか」推古が自分の意見を述べた。
席が、ざわめいた。
すぐに応援を出すべきだと主張する馬子が、意見を述べた。
それに対して、敵地に行って負けたらこの国までやられてしまうと、反対する者たち、意見が真っ二つに分かれた。
結論が出ずに、五日が過ぎたその朝、推古は、付き人に起こされた。
「お上、大変でござる。朝堂から、境部臣雄摩侶(さかいのべのおみおまろ)と中臣連国(なかとみむらじくに)が大将になって、新羅に向かったと報告してきました」
「なに、すぐに、使者を鶴の間に通せ」
使者が、板の間に頭を擦り付けるように、平伏した。
「境部臣と中臣が、新羅に向かったとな、兵をどのくらい連れていったのです」
「はい、数万と見られます」
使者は、その姿勢で言った。
「分かった、下がれ」
「すぐに、大臣を呼んできなさい」
推古が、付き人に言った。
蘇我馬子は、大殿の客の間で待たされた。
しばらくして、推古が現れた。
「お上、何用でございますか」
「大臣、あなたは私の叔父にあたるが、私の命に従わずに勝手なことをしてはなりません」
「お上、なんと申された」
「おとぼけにならないで下さい。勝手に、新羅に軍をおくったではありませんか」
「お上、お言葉ではございますが・・」
(任那が我が国へ援軍を早く出してほしいと言っているのに、毎日会議ばかりで時をつぶしているだけではないか)心の中で思ったが、
「出兵は、境部臣雄摩侶と中臣連国の二人の大将が勝手にやったのです。誓って、私は関係しておりません」
「では明日の朝礼後、大殿の広間に臣たちを招集してください」
「承知つかまつりました」
父親の蘇我稲目とその子の馬子が、天皇家に食い込むために、自分の子弟を天皇家に嫁がせた。その結果、馬子は、我が物顔で、政務を進めるようになったことを推古は、歯がゆく思っていた。
大殿で、会議が開かれた。
「お上、新羅に送った使者から連絡が来ました」
「田中臣、報告を」
「先ほど戻ってきた使者によりますと、新羅は戦を避けて、日本に降伏し、貢物の準備に取り掛かっているのを見て、使者が帰ろうと港で船に乗ろうとした時、日本の軍船が目の前に現れ、新羅を目指して押し寄せて来たとのことです。
新羅は、この事態に怒り、この交渉を破棄すると伝えてきました」
「田中臣、ほかに申すことはないか」
田中臣は、低頭した。
だれが、新羅へ軍をおくったのかを究明すべきだとの意見が多く出てきた。
(ちと、早まりすぎたようだ。どいつもこいつも、俺の仕業だと思っていやがる)馬子は、心穏やかではなかったが、
「お上、この度の軍事は、いろいろ調べましたところ、新羅の陰謀でございます。まんまと我々は、その陰謀に引っ掛かってしまったのです。最初に騙された境部臣と中臣連国が悪いことに、変わりは有りませんが、お上に良かれと出兵したとのこと、二人に御慈悲を」
馬子が低頭した。
それから、会議が続いたが、馬子の権勢に押され、馬子に同意するものが多くなった。
(大臣め、覚えていなさい)
「大臣、二人の処分を任せます」
と言って、推古は、席を立った。
(馬子めが。太子が生きていたら)と思はない日はなかった。
推古の心と裏腹に、飛鳥の空は、春の青さが眩しかった。
簡単に食事をした後に、推古は近習に命じた。
「明日、法隆寺に釈迦三尊を見に行きますので、よろしく頼みます」
「お上、寺に準備させるよう、使者をすぐ送ります」
昨日と同様に飛鳥は、青空が広がっていた。
鳳輦(ほうれん:屋根の上に鳳凰を載せた天皇のみが乗れる輿)に推古は、揺られながら、叔父馬子とのこれからの対応をどうすべきか考えていた。
鳳輦が、止まって道におろされた。
「お上、お着きになりました」
従者によって上げられた御簾から、推古は出た。
朱と青丹に塗られた南門から中門まで、黄衣をまとった僧たちが両脇に低頭していた。
住職が、推古の前でひざまづいた。
「お上、ようこそいらっしゃいました。金堂にご案内いたします」
回廊の連子から、日差しが幻想的に土間を照らしていた。それを通り過ぎると、左手には、塔が青空を突くかのようにそびえ立っていた。
推古たちは金色に輝く金堂の前に立った。
「お上、この男が、像をつくった鞍作止利と申す仏師でございます」
男は、地に頭をこすりつけていた。
「面を上げなさい。案内せよ」
推古は、珍しく声をかけた。
推古は、金堂に入った。
何本ものろうそくの炎が、火炎と忍冬唐草の文様を施した舟形光背を背にした面長の顔つき、人の心を抱擁するような優しい目、そして口元に笑みを浮かべている釈迦如来、その両脇を右に薬上菩薩、左の薬王菩薩を浮かび上がらせていた。。
(太子、成仏してください)
推古は、手を合わせながら、人に悟られまいと、涙を拭きとった。
金堂から出て、推古は近習に言った。
「仏師に褒美を与えよ」
法隆寺に夕陽が照らし始めた頃、推古は鳳輦に乗って、寺を後にした。
月日が過ぎ、夏になった。
推古が宮で政務をとっていると、
「お上、大臣がお会いしたいと言って来ていますが、いかがいたしましょうか」
「通しなさい」
馬子が部屋に入って来て低頭した。
「お上、お健やかで何よりです」
「大臣、何か用ですか」
「実は、お願いに上がったのです」
推古は、嫌な予感がした。
「葛城県(かつらぎあがた)ですが、あそこは私が昔住んでいたところですので、未来永劫、葛城県を私に賜りたいのです」
「大臣。私は蘇我の出身で、大臣は私の叔父、大臣の言うことはほとんど聞いてきましたが、このことは承知できません。これを承知したら、後世の天皇から女の天皇だからこのような大事なことを勝手に決めたと誹謗されてしまいます。大臣も、誹りを受けることになるでしょう。そこは、六御県の一つで天皇家代々の直轄地です。絶対に承知できません」
馬子は、平身低頭し、むっとした顔をして退去した。
*
推古は、欽明天皇の皇女(むすめ)で、母は、蘇我稲目の娘で、馬子は、稲目の息子で、推古の母と兄弟であった。
今から三十二年前の十一月、馬子の命を受けた男により、崇峻天皇が暗殺され、その後継として、推古が飛鳥の豊浦で女帝として即位した。
崇峻も、稲目の娘と欽明天皇の間に生まれた子で、蘇我の血を継いでいたが、馬子の横暴に対して敵対したため、暗殺された。
推古は、近習に大殿と大門の警備を強化することと馬子の動静を探るよう命じた。
日の出とともに、宮門が開かれた。馬子や官人は、門の警固のための舎人の多さに驚いた。
朝堂に挟まれた庭で、馬子は朝礼を行ってから、東側の朝堂にある大臣部屋に入ったところ、一人の文官が入って来て挨拶を述べた後に、
「大臣、昨日ですが、僧が斧を持って祖父を殴ったという事件が起こったとの知らせが
ありました」
「なに、僧が祖父を殴っただと。出家したものは、ひたすら仏道に帰依して、戒法を守るのが当たり前なのに、仏門を穢しおって。お上に報告してくる」
馬子は、推古に報告した。
「仏に仕える身で、悪逆な行為を犯すなんて、とんでもないことです。太子が、苦労して取りいれた仏教を。それが事実かどうか、大臣、諸寺の僧尼に尋問せよ。事実であれば、連帯責任を取ってもらいます」
「お上、承知しました」
馬子は、朝堂に戻って、文官たちに、調査を命じた。
観勒が、庵でこのことを知った。
(これは大変なことになるぞ、大臣に会って何とか連帯責任の罪を回避していただければな)
観勒は、推古十年(六百二年)に渡来し、天文、暦本、陰陽道を伝えた百済の僧で、推古の命で、これらのことを数人の書生に教授した。
数日後、観勒が‘僧が斧で殴った件’で、馬子に会いに朝堂を訪れた。
客間に通された観勒は、
「大臣、お忙しいところ、愚僧にお会いしていただきありがとうございます」
「観勒、述べよ」
馬子に、上表文を読み上げた。
「仏法は、西国から漢に渡って、三百年が経ち、そして百済国に来て百年しかたっておりません。我が国の王は日本の天皇が賢哲であられると聞き、仏像と経典を献上いたしました。それから何年もたっておりません。それ故、日本の僧尼が未だ法に習熟していないことにより、軽率にその僧が悪辣な罪を犯してしまったのです。どうか、悪逆者を除いて他の僧尼には皆罪を問わないようお願いします。このようにすることは、大きな功徳となりましょう」
「あい、分かった。お上に伝えよう」
観勒は、馬子が退去するまで、畳に頭を擦り付けていた。
それから十日後、推古は、大殿の広間に大臣以下を招集し、皆に向かって言った。
「僧でさえ法を犯すのならば、一体どのようにして俗人を教化すれば良いのか。今後は、まず僧尼を教化する為に、僧侶を統轄する僧正と僧都を任命し、取り仕切ってもらう。よいと思う者を推薦せよ」
官吏からいろいろ名が出たが、馬子が推薦した観勒が僧正、鞍部徳積(くらくりのとくしゃく)が僧都と決まった。
「阿曇連(あずみのむらじ)、このこと、二人に伝えよ」
推古は、法頭の阿曇連に言って退席した。
それから半年過ぎて、飛鳥には秋風が吹き始めていた。
そんなある日、阿曇連が推古、大臣、臣たちに大殿に来て、報告した。
「お上、寺四六か所、僧八一六人、尼五六九人合わせて、一三八五人を調べました。この書状には、寺の由来、僧尼の入門の動機そして得度日をしたためています」
阿曇連が、推古に平伏して、書状を渡した。
馬子は今日も、体調がすぐれず、宮には参内していなかった。
「蝦夷、もう俺はそんなに長くはない。これからお前の時代だ。何とか蘇我氏の権力をしかと握れ。分かったな」
「何を、父上。気をしっかりお持ちください」
推古三十四年(六二六年)五月二十日、飛鳥川のほとりの桃源に構えた嶋の家で大臣馬子は、息を引き取った。
馬子の葬儀は、盛大にとり進められ桃源の墓に葬られた。
推古は、今更ながら、馬子の軍略や人の議論を見極める才能を惜しみつつ、それとは別に安堵する自分に気が付いた。
一方、父田村皇子の妻、宝皇女が、将来大化の改新の中心となる中大兄を出産した。
この年は、夏に雪が降り、その後は長雨が続き、国中が大飢饉となった。
老人は、草の根を食べて、道端で生き倒れ、幼児は、乳を含んだまま、母子とともに死んでいった。また、強盗、窃盗も頻繁に起こった。
推古は、神に天下泰平を毎日祈念していたが、なかなか好転せず、とうとう病に臥せってしまった。
推古三十六年(六二八)三月六日、昼、陽が隠れた。
床に臥せった推古は、田村皇子を呼ぶよう近習の者に命じた。
「お上、御具合はいかがでしょうか」
推古は、田村を近くに来いと手招きをした。
「これからいうことは肝に銘じて守りなさい。天皇になって、大業の基礎を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、安易なことではなく、重大なことです。それ故、お前は慎重に考え、軽々しいことを言ってはなりません。いいですね」
推古が下がってよいと手を振った。
そして次の日、推古は山背大兄を呼んで言った。
「お前は、未熟者です。もし、心に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりません。必ず官吏たちの言葉を待って、それに従いなさい」
推古は、後継をどちらにするのか、明言しなかったため、二人に期待を持たせてしまった。
第二話。継承争い
数日後、推古は官吏たちを呼んで、
「近年、五穀が実らず人民が飢えています。私のために陵を造って厚く葬ることは止めよ。竹田皇子の陵に葬りなさい。」
と命じ、瞼を永遠に閉じた。
推古の葬儀を終えるや否や、推古の後の皇位継承で、もめはじめた。
聖徳太子の嫡子の山背大兄が、
「我は、推古天皇から後継と指名されているのだ。皇位継承するのは、我である。」
と、皆にしきりに主張した。
それに対抗して、大臣の蘇我蝦夷は、古人王子に目をつけ、その父田村皇子を擁立しようと画策に走った。
春の風が飛鳥に吹き始めたある日、蝦夷は官吏たちを屋敷に呼び、饗応した。
「叔父殿、皇位継承は、田村皇子でいかがかな」
「何を仰せか、山背大兄王子が妥当であります」
蝦夷の叔父の摩理勢が、むきになって行った。
「倉麻呂は、どうじゃな。我が妹の法提郎媛(ほてのいちつのひめ)が嫁いでいる田村皇子が良いとは思わんか。」
「どちらが、よろしいかな」
従兄弟の倉麻呂は、中立の立場を守り続けるつもりであった。
息子の入鹿は、叔父や従兄弟も抑え込むことができない蝦夷を見て、苛立った。
斑鳩の里には、桜が咲き始めていた。
摩理勢からの書状を山背大兄は読んで、三国王と桜井臣の二人を呼び、対応を相談した。
「皇子、まずは、大臣の真意を直接に確かめたらいかがでしょうか。」
三国王の助言を聞き、山背はそれを文にしたため、二人を蝦夷のもとに行かせた。
朝堂の客間で、しばらく、三国王たちは待たされた。
蝦夷が、付き人を一人伴って部屋に入って来て、床に座った。
「ご苦労様です、それで何用でしょうか。」
「大臣、皇子からこれを預かってまいりました。」
三国王が差し出した文を、蝦夷は一読して、
「しばらくここでお待ちください。」
と言って、蝦夷は部屋を出て行った。
(専横の誹りを免れるために、ここは、官吏に文の内容を聞かせておこう。)
そして、大臣の部屋に戻ると近習の者に入鹿と官吏の人間を大広間に集めよと命じた。
近習の者が、広間に官吏たちが集まったと、蝦夷に伝えに戻って来たので、すぐに広間に入った。
そして、蝦夷は、山背大兄の文を読み上げ、
「ここに集まった官吏の大夫は、田村皇子が、後継の筆頭であることには意義はないな。」
と、言って官吏たちの顔を一人一人、見まわした。
「紀臣と大伴連、供に斑鳩宮に参上し山背大兄皇子に謹んで次のように申しあげよ。
『臣下の一人である蘇我蝦夷が、軽々しく、天皇の後継を定めたりしましょうか。ただ、田村皇子が後継であるとの天皇の遺詔を官吏たちに告げただけで、これに対しまして誰も異議は申し出ておりません。仮に、私自身の考えがあるとしても、人伝えに畏れ多く申し上げることはできません。お目にかかったうえで、私の口から直接に申し述べましょう。』と、分かったな。決して余計なことを言うではないぞ。」
三国王、桜井臣、紀臣と大伴連たちが、斑鳩の里に入った時には、もう既に陽が落ちていた。桜井臣が、松明に火を灯し、宮に先導した。
斑鳩の宮の客間に通され、紀臣は山背大兄に蝦夷の言葉を伝えた。
山背大兄は、訝しげに言った。
「天皇が後継者は、田村皇子と言ったと聞いた者は誰かいるのか。」
紀臣と大伴連の二人は、顔を見合わせた。
「私たちは、存じません。」紀臣は、言った。
さらに、山背大兄は詰問し続けたが、二人は知らぬ、存ぜぬを通した。
「紀臣、正しく天皇の遺詔を知りたいと山背が言っていたと大臣に伝えて欲しい。」と言い、そして、桜井臣に二人をもてなすよう命じ、席を立った。
女が、盆にかぶと生姜の酢の物、胡瓜の塩漬け、心太(寒天)、蘇(チーズのようなもの)を乗せて三人の前に置いた。そして、桜井臣や女たちの勧めで、二人は濁り酒を何杯も飲んだ。
二人は、桜井臣に、大臣の本心を聞こうと探りを何度となく入れられたが、知らないと、何度も答えた。
桜井臣は、不機嫌な顔をしながら酒を煽って言った。
「山背大兄様は、聖徳太子の御子であります。お世継ぎは皇子様しかおりませぬ。」
「桜井殿、そろそろ明日も早いので、この辺で失礼させていただきたいのですが。」
紀臣は、頭を下げて言った。
二人は、女に客間に案内された。
「紀臣様、寝て下さい。私は眠らずに見張っています。」
大伴連が、剣を抱いて壁にもたれた。
翌日、陽が昇るとすぐに、紀臣と大伴連は、山背大兄に挨拶を述べ、斑鳩の宮を後にした。
「大伴殿、山背大兄王子様は、ちょっとやそっとでは、諦めそうもないな。大臣は、難儀をするぞ。」
紀臣は、困った顔をして言った。
二人は昼ごろ、宮に着き、そして朝堂の大臣の部屋で蝦夷に山背大兄との話を伝えた。 (皇子め、太子の霊に憑りつかれおって。)蝦夷は、危機感を持った。
その翌日、なんとか、田村皇子を皇位継承の同意を得るために、蝦夷は、大夫や官吏たちを嶋の家で饗応した。
「境部臣(弟の摩理勢)が、来ていないではないか」
蝦夷が、入鹿に怒鳴るように言った。
「父上、叔父上のことなど気にせぬことです」
「何を言うか、あいつを何とか承知させなくては。」
入鹿は、祖父馬子が築いた蘇我家の権威を気の弱い蝦夷が、崩していくのが悔しかった。
それでも、蝦夷の奮闘により、阿部臣と中臣連は、田村皇子の継承に翻った。
まだ宴は続いていたが、蝦夷は、入鹿のところに行って、
「摩理勢に会って、再度、次期天皇は誰が良いか聞いて参れ。阿部臣を伴に連れて行け」
入鹿は、渋々と阿部臣を連れて摩理勢屋敷の屋敷に行った。
「叔父上、如何でしょうか」
入鹿は、蝦夷の言葉を伝え、返事を待った。
「この前、大臣自身が問われた時、私はすでに申し上げております。今またどうして、このような大事なことを人伝えにお返事しなくてはならないのか。大臣に帰ってそうお伝えせよ」怒りを露わにして、部屋を出て行った。
入鹿は、ここまで蝦夷の権威が落ちているに愕然とし、
(何とか、名門蘇我宗家を立て直せねば)と心に誓った。
桃源(現在の石舞台古墳の場所)に、馬子の墓を造るために蘇我一族が皆集まって、それぞれ仮の住まいに寝泊まりしていた。
摩理勢もそこで皆と一緒に墓を造っていたが、毎日、毎日蝦夷の執拗な要請うんざりした。
「大臣は、一体何を考えているんだ。もうこんなところにはおれん」
と怒って、蘆を打ち壊し、斑鳩にいる山背大兄の異母弟の泊瀬王(はつせのみこ)の宮に移り住んでしまった。
それを阿部臣が、蝦夷に報告した。
「勝手なことをしおって、どこまでも逆らう気か」
怒り心頭、顔を真っ赤にして近習の者を大声で呼びつけ、書状をしたためさせた。
「阿部臣、この文を山背大兄皇子に届けろ。いいか、言うことを聞かないとどうなるか、脅して来い」
さすがの阿部臣も、皇子に対する蝦夷の態度に嫌悪感を持った。
山背大兄は、阿部臣から渡された蝦夷の文を読んだ。
「何、摩理勢を渡せと」
しばらく、山背大兄は黙って文を見続けてから、
「阿部臣、摩理勢はしばらくの間、静養のために滞在しているだけで、どうして、大臣に背いたりするであろうか。どうか、咎めないでいただくよう、大臣に伝えよ」
「皇子様、それでよろしいですか。皇子様までを巻き添えにするのは、なんとも忍びないのです。御熟考下さい」
阿部臣は、板の間に頭を擦り付けた。
「五日間待ってくれ」
「承知いたしました。大臣に伝えます」
阿部臣は、ほっとして斑鳩を後にした。山々の緑の深さに気づくも、道を急いだ。
山背大兄は、摩理勢を屋敷に呼んだ。
「摩理勢、大臣に背くことは絶対に許さない。早く、大臣に詫びを入れなさい」
「皇子、そのような弱気でいらっしゃると、とてもお上にはなれませんぞ。しっかりしてください」
「お前は、前皇の御思を忘れずによくやってくれて有り難く思っている。しかし、お前一人のことで、国が乱れようとしている。私はそれを許すわけにはいかない。心を改めよ」
摩理勢は、涙を流しながら低頭し、宮を去った。
それから十日後、泊瀬王が、夕食の後急に苦しみ出した。そして、摩理勢が、王の部屋に入った時には、もう既に息を引き取っていた。突然の死であった。
「泊瀬王様・・・。蝦夷の仕業か」
摩理勢は、蝦夷たちを迎え撃つために、陣を設営する準備に取り掛かった。
山背大兄の使者が、蝦夷に泊瀬王の死を知らせた。
近習に呼びにやらせた巨勢徳陀臣(こせとこだのおみ)が、大臣の部屋にやって来た。
巨勢徳陀は、蝦夷の前に座って、低頭した。
「お前を摩理勢討伐の大将軍に任ずる。準備にかかれ」
巨勢徳陀臣は、蝦夷の命により、蘇我氏に代々仕えてきた漢直(あやのあたい:帰化系氏族)を集め、甲冑を身に着けさせ剣を持たせ斑鳩に向け、出発した。
摩理勢の軍勢は五百、それに対して蝦夷の送った二千の大軍。迎え討った摩理勢軍はあっけなく、敗戦に追い込まれた。
摩理勢は畝傍山に逃げようとした。
「摩理勢が、いたぞ」巨勢徳陀臣の率いる軍の兵士が大声を上げた。
あっという間に、摩理勢は敵に囲まれた。
「やっちまえ」数人が、摩理勢に飛びかかり、撲殺した。
摩理勢の長子、毛津(けつ)が後ろを見た時、摩理勢の首がはねられた。
(父上・・・。)山頂に辿り着いた時は、毛津一人であった。
「父上、母上、無念でございます」
剣で喉を突き刺した。
蝦夷と摩理勢の蘇我一族の勢力争いは、あっけなく蝦夷に軍配が上がった。
第三話。蘇我氏の台頭
舒明元年(六二九)正月四日、蝦夷は田村皇子に天皇の御印を献上したが、
「国家に仕えることは、重大な仕事なので私のような拙い人間にその任に当たれようか」
と言って、辞去した。
蝦夷は伏して、
「皇子は、先の天皇の愛を一身に受け、神も庶民も心を寄せています。是非、天皇を継承され、民に君臨すべきです」と、切に願ったところ、
「あい、分かった」と、田村皇子は承諾し、その日に天皇の位についた。
舒明天皇の誕生であった。
舒明は、蝦夷に飛鳥岡に宮を作るよう命じた。
舒明二年(六三十)。
中大兄は、四歳になった。
「利発そうな子じゃな、岡本宮に移っても大丈夫だろう。学問をするには、あちらのがよいぞ」
舒明は、宝に言った。
「そうですね。お上の言われる通りかもしれません」
宝は、舒明の器に酒を注ぎながら答えた。
中大兄は、舒明に連れられて、宝と弟の大海人そして、妹の間人と、飛鳥寺の正面に造られた岡本宮に遷った。
三月、高句麗と百済の使者が、舒明の即位の祝いに飛鳥にやって来た。
「お上、是非、日本の使者を唐に送って下され。沢山の貢物を渡して、唐の太宗のご機嫌を取っておいた方が、良いかと存じます。また、唐が我らを攻めて来たときは、是非援軍を出していただきたい」
(太宗の出方を探っておかなければなるまい、大国の唐が南下して来たら、朝鮮半島は一年ももつまい。)
飛鳥に秋風が吹き始めた。
舒明は、大極殿に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(すしのえにち)を呼んだ。
「犬上御田鍬、薬師恵日。唐に行って来てくれ。御田鍬、お前を大使で、薬師恵日は、副使を命ずる。よいか、太宗の動静を探って、逐次、知らせてくれ。唐は、高句麗を討ち、新羅、百済を攻め、我が国に攻め寄せてくるやもしれん。くれぐれも、悟られないように。詳細は、大臣と相談するがよい。」
それから一か月後、御田鍬たちは、難波港にいた。
御田鍬は感慨深かった。
(これが、俺の最後の渡航だ。)
長さ二十間、幅五間、帆柱2本の平底箱型の派手に朱に塗られた船二艘が、真っ青な空と海にくっきりと浮かび上がって、穏やかな波に揺れていた。
御田鍬は、知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)に聞いた。
「総勢何名か」
「はい、二百名ほどになります」と言って、船長、船大工、操舵手、書記官、通訳,神主、医師、陰陽師,天文観測、占い師、 留学生、学問僧、楽師、ガラス工人、鍛冶鍛金工、鋳物師、大工らであると答えた。
(と言って、内訳が、船師(船長)、船匠(船大工)、柁師(かじし、操舵長)、挟抄(かじとり、操舵手)、水手長(かこおさ)、史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)、訳語(やくご、通訳)、新羅・奄美等訳語、主神(神主)、医師、陰陽師(易占、天文観測)、卜部(うらべ、占い師)、射手(いて)、音声長(おんじょうちょう、楽長)、 留学生(るがくしょう、長期留学生)、学問僧(長期留学僧)、請益生(しょうやくしょう、短期留学生)、還学僧(げんがくそう、短期留学僧)、音声生(おんじょうしょう、楽師)、玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)、鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)、鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)、細工生(さいくしょう、木工工人)であると説明した。)
次第に見送りの人々たちの数が増えてきた。
「大使、出航の準備が整いました」
薬師恵日が来て、御田鍬に伝えた。
「分かった」
御田鍬たちが乗った船は、出港した。
筑紫~壱岐~対馬~朝鮮半島西岸北上~渤海湾横断し、山東半島上陸まで、危険を伴う長旅に。
御田鍬たちが唐に向かって出航してから一年数か月が過ぎた、舒明四年(六三二)。
中大兄(改新までは葛城皇子と呼ばれていたようだが、ここではすべてこの名で呼ぶことにする)は、六歳になった。
父の舒明は、今までの天皇と違い、神教よりも仏教に心酔していた。
舒明の勧めで、中大兄と弟の大海人は飛鳥寺で学問を学ぶことになった。
初夏の朝、従者を伴って、二人は、飛鳥寺に行った。
「兄上、大きなお寺ですね」
「この寺は、大臣の父上、蘇我馬子殿が建立を発願された寺だ」
「皇子様、お待ちしておりました」
僧たちが、門前で二人を出迎えた。
座主と言った僧が、二人の前に出て説明しながら、歩き始めた。
「この寺は、五八八年に百済から仏舎利が献じられたことにより,蘇我馬子様が寺院建立を発願し,五九六年に創建された寺院です。今も、蝦夷様や入鹿様が時々、来られます。ご覧ください、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍で、東西二町、南北三町の広さの境内です」
中大兄は、蘇我一族の権勢に改めて驚いた。
「北の金堂には、推古天皇が止利仏師に造らせた釈迦如来像が安置されています。御案内いたしましょう」
青空に飛び立つかのような五重塔の傍を通り抜けると、高いだけでなく、堂々とした建物の前に来た。北の金堂であった。
「さあ、中へどうぞ」
座主が、二人を促した。
金堂に入ると、涼しさとともに荘厳さが、二人を包み込んだ。
丈六(約五メートル)の金銅で造られた釈迦如来像が、ろうそくの炎に輝きながら浮かび上がっていた。
(なんと大きなこと)中大兄と大海人は、肝をつぶした。
仏は、優しく遠くを見やって眼、毅然とした心を口元に表し、物静かに座していた。
二人は、仏の前で合掌し、それぞれの思いを祈念した。
中大兄たちは、飛鳥寺で基本の文字、算術を一か月で学び、そして、初歩的な仏典を二か月目で習得した。
そして、今日から四書五経を学びに、寺に行った。
学問所で、二人を座主が迎えた。
「今日は、四書五経とは何かをまずわたくしの方から説明します。四書とは、『孔子の論語』、『覇道政治を否定し、王道政治を提唱した孟子の言行録』、『大学という儒教の入門的な読みやすい書物』、『孔子の孫の子思が著述した深遠な世界の摂理を説いた中庸』を四書と言います。次に五経ですが、『歴史書であります書経』、『孔子が編纂したと伝えられる中国最古の詩集である詩経』、『陰陽説を汲んだ周王朝期の占いに関する書物である易経』、『礼について形式だけでなく、理論化した礼記』、『孔子が作成編纂したと伝えられる、中国古代・魯国の歴史書、春秋』の五つになります。量が多いのでしっかりと勉強してください」
中大兄と大海人は、四書五経を学ぶのが楽しみになった。
座主が、部屋から出て行ってからしばらくして、四書の専門の僧が、入ってきて講義が始まった。
昨年発った御田鍬たちが、唐から帰ってきて、岡本宮に舒明を訪ねた。
「お上、ただ今戻りました」
御田鍬と薬師恵は、平伏した。
「ご苦労であった。面を上げえ。唐はどうであったか」
御田鍬が答えた。
「お上、太宗は、朝鮮三国を攻める準備をしています」
「我が国を攻めてくるのは、二年後くらいか。大臣に九州の防備を固めるよう命じる」
「薬師恵、どうであったか」
舒明は、薬師恵には唐の文化や技術を問うた。
「唐では、陰陽道(おんみょうどう)が盛んになっています。僧や仏師を連れてまいりましたので、いろいろお聞きなさるとよいかと思います」
「我は陰陽道についてよく知らんのだが」
「陰陽道は、古代中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行説を起源としています。陰陽五行説とは、木、火、土、金、水、の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配します。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になります。陰陽は語尾の‘え’が陽、‘と’が陰です。天文、暦数、時刻、易の学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として受け入れられております。このような技術は、わが国では漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われております」
「よく分かった。御田鍬、薬師恵、連れてきた者たちの面倒を見てやってくれ。僧については、寺を建立するのでそれまで頼む」
薬師恵は、低頭した。
「下がってよい」
百済寺が建立され、薬師恵が連れてきた僧たちは、寺に入った。
そして、中大兄と大海人は、飛鳥寺から百済寺に変え、二人は、唐の最新の陰陽道を学んだ。
中大兄たち二人の理解の早さには、僧たちも驚いた。
舒明も喜んだ。
中大兄と大海人は、暑い夏も毎日、朝は百済寺で講義を受け、昼は、屋敷で武術を学んだ。
二人の成長は早かった。
十月末日朝、舒明は、中大兄と大伴連馬養(おおとものむらじうまがい)を大極殿に呼んだ。
「明日、唐からの使者 高表仁が朕(わたし)に唐の宰相太宗が璽書を渡すために難波津に来るそうだ。そこで、中大兄に接待知ることを命ずる。そして、大伴連、お前たちは、中大兄の補佐をするよう頼む」
二人は、大極殿を辞去し準備にかかり、そして昼近くに、難波津に向かった。
夕暮れ時に、難波津鴻臚館に到着した。
「殿下、ここに今日は泊まります。お食事をして、湯に入りごゆっくりしてください。明日は、くれぐれも、よろしくお願いします」
大伴連馬養は、中大兄に言った。
中大兄は、すぐに床に就いたが、あまりの緊張のため、一睡もできずに、朝を迎えた。
「おはようございます」
大伴連馬養が、朝の挨拶に来た。
「皇子様、よく寝れましたか」
「よく寝たぞ」
馬養は、中大兄の顔を見て、寝不足の表情を読み取っていた。
朝飯を取って、中大兄たちは、交渉の策を練った。
そして、大伴連馬養たちは、高表仁を出迎えに館を出て行った。
高表仁たちは、大伴連馬養に案内され、鴻臚館に到着した。
迎賓の間で、中大兄が迎えた。
簡単な挨拶を終え、宮での儀式について、打ち合わせが始まった。
高表仁がすぐに、提案した。
「日本(倭)の天皇は、太宗の臣なので九三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を以って、太宗天王からの国書を受けよ」
中大兄は、毅然とした態度で言った。
「日本の天皇は、太宗の臣ではない。唐で行われる太宗の前で、臣下が行う儀式は行わない。日本の儀式で、お前が、天皇の前で膝間づき国書を渡せ」
「話にならん。大伴連馬養殿は、如何」
「殿下と同じです」
「覚悟しておけ」
椅子を蹴って、高表仁は去った。
この話は、岡本宮にいる舒明と大臣たちにすぐ伝わった。
皆このことを聞いて、震撼した。
「なんてことをしたのだ」
蝦夷は、怒り狂った。
「大臣、お上がお呼びです。」
近習が、来て言った。
「分かった」
*
大極殿に入ると、蝦夷は客間に通された。
「大臣、高表仁が怒って帰って行ったことは、知っているだろう」
「はい、お上。存じております」
「唐が、これ機会に我が国を攻めてくるやもしれん。それに対抗するために、九州を防備するよう策を立て、実行せよ」
「承知いたしました」
蝦夷は、蝦夷は怒りを抑えて、大極殿を後にした。
*
舒明は、大伴連馬養から中大兄の高表仁に対した行動を聞き、驚いた。
(息子には、もっともっと学問をさせ、我の後継者として育てよう)
閨で、舒明は妻の宝に言った。
「この間唐から帰ってきた霊雲に学問を、息子たちに教えさせようと思うが、どうであろう。霊雲は、吉蔵に三論を学んだそうだ。今、元興寺に入っている」
「そうですね。飛鳥寺の学問僧は、蝦夷にくみしていますので、そろそろ代わった方がよいと思います。また、最近の唐の知識を学ばせることは、きっと役に立つでしょう」
「元興寺も蘇我の息がかかっているだろうから、霊雲に屋敷を与え、そこに通わせよう」
中大兄は喜んで、毎日通った。
飛鳥は、夏になった。
百済の使者が、やって来た。
舒明は、大極殿の接待の間で歓待した。
舒明から唐のことを聞かれたので、使者の一人が、答えた。
「お上、唐が日本を攻めると決めたようです」
「太宗が攻めてくるか」
「この間、中大兄皇子様が、高表仁に対して軽んじたことに怒り心頭したようです」
「いつ頃になりそうか」
「太宗は、その前に、高句麗、新羅そして我が百済を手に入れなければと言っているようです」
百済の使者が帰ったのちに、舒明は大極殿の広間に官吏たちを集め、唐が朝鮮三国を攻め、そして日本を攻めるであろうとのこと話した。
「お前たちの意見を述べよ」
「お上、太宗に貢物を献上し、今回の件について、詫びをいれるのが常套かと思われます」
田中臣が、言った。
「田中臣、何を仰る。我が国が唐の属国になってもよいというのか。お上、ここは、百済に援軍を送って、唐の軍を朝鮮半島から一掃いたすことが、肝要かと思います。今回の件、太宗が我が国の出方を試したのです。ここまで来たら、徹底抗戦しかありません」
蝦夷が反論した。
「大臣、勝算は、あるのか」
「朝鮮三国と組むことができれば、勝てます。万が一のことを考え、九州に砦を作り、兵士を送り込みましょう」
蝦夷が答えた。
「お上、太宗に詫びを入れるなんてとんでもありません、中大兄皇子を人質に出せと言い出すかもしれません。任那を復興して、唐の攻撃の楯にしてはいかがでしょうか」
大伴連馬養が答えた。
「お上、早く兵を集める御命じ下さい」
蝦夷が、逸った。
「分かった、大臣。思う存分集め、九州に送り込め。また、百済にいつでも援軍を出せるよう、多くの船を準備いたせ」
*
舒明八年(六三六)、中大兄は、九歳になった。
飛鳥に蝉がけたたましく鳴いている朝、百済の使者が、舒明を訪ねて来て、
「お上、太宗は、高句麗を攻めるも攻略できず、撤退しました」と伝えた。
舒明たちは、安堵し、この時より防備を怠るようになった。
また、宮中では、宮人たちが、地方の豪族がその娘を天皇家に献上した采女(うねめ)たちを奸していた。
このような荒んだ状況に我慢できず、中大兄は、宮中の秩序を守るためにも、舒明に采女を奸した人間は断罪にすべきと進言した。
「皇子、分かった。すぐに処分致そう」
舒明は、大臣を呼び、宮人をすべて調べ上げ、采女を奸したものは、皆晒し首にせよと命じた。
処分は、一斉に行われ、宮中の規律が元に戻った五月ごろから長雨が続き、各所で川が氾濫し、民たちの多くは、家や畑を失った。
雨も収まった六月十五日の夜、
「火事だ、火事だ」大殿で叫び声が聞こえた。
近習の者が、息を切らせて、舒明の褥にやって来た。
「お上、東の朝堂から火が出ています」
「何、早く宝や皇子たちを安全な場所に避難させよ」
中大兄は、妹の間人の手をしっかりと握っていた。その後を大海人が続いた。
「兄上、怖い」
「間人、泣くな」
中大兄たちは、岡本宮が燃え盛るのを見て涙した。
半時ほどで、火は岡本宮を燃え尽くした。
舒明たちは命からがら、岡本宮を後にした。
「お上、付け火です。しばらくは、我慢してください」
近習の者が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「火をつけたのは、一体、何奴。しっかり調べよ」
半月後、蝦夷の住んでいる豊浦宮西北近くに、宮として、田中宮が作られ、舒明たちは移り住んだ。
数日後、舒明は大臣を呼んで、命じた。
「大臣、ここに移ってから、官吏の中で参朝に遅れる者が多い。綱紀粛正、明日から皆、卯刻(午前五時)に参朝させ、そして、巳刻(午前九時)退朝せよ。それを鐘で知らせ守らせるのだ」
「承知いたしました」
蝦夷は、言った。しかし、蝦夷は、いつまでもこのことを実行せず、舒明の命を無視し続けた。
舒明は、高句麗と百済を支援することに、蝦夷は、反対していた。
蝦夷は、四月に入った頃から、参朝しなくなった。
「いよいよ、蝦夷が、乱を起こそうとしている」との百姓、町民たちのもっぱらの噂でもちきりになっていた。
*
舒明は、上野毛君形名(かみつけのきみかたな)を大殿に呼んだ。
「そなたを蝦夷追討の将軍に命ずる、しかと、討って来い」
(やはりそうか。なんでこの儂が、蝦夷は手強いから、気をつけねば)上野毛君形名は、床に頭をつけ、
「承知しました」と言った。
数日間、上野毛君形名は準備して蝦夷の館を攻めた。
「攻めよ。蝦夷を逃がすな」
上野毛君形名は、焦った。蝦夷の軍が、上野毛君形名の軍を押し返してきた。
「引き返せ」 上野毛君形名は、一目散に逃げた。
上野毛君形名の妻が嘆いた。
「殿、情けない。忌々しいことですね。蝦夷に負けるなんて。殿の先祖は、海外の政権を平定するという後世に名をのこしたのに、こんなことでは、後世の人たちに笑われます」
酒を夫に飲ませ、自ら剣を帯び女人たちに弓を取らせて、蝦夷の軍に立ち向かった。
今度は完勝した。
蝦夷は、逃げた。
それから何事もなく、四季は流れ、舒明十二年(六四〇)、中大兄、十五歳の秋。
十月十一日、唐に留学していた学問僧の南淵清安と高向 玄理(たかむこのくろまろ)が、百済と新羅の使者を伴って帰国し、舒明に挨拶した。
「ご苦労であった。清安と玄理、そちたちは、来月から、ここに居る中大兄と大海人に最近の唐のことを教えてやってくれ。今月中に、百済宮が完成するので、そこで頼む」
「お上、光栄に存じます。皇子様にお教えいたします」
十月末日、舒明は、宝、中大兄たちを連れて、百済宮に移った。
宮前には、百済寺が建立されていた。
「父上、あれは、九重塔ですか」
中大兄が、立ち止まって、指さした。
「そうだ、日本で一番高いであろう」
舒明は、清安と玄理を宮に呼びつけて言った。
「おぬし達は、共に百済寺を運営してくれ。留学帰りの僧たちをこの寺に受け入れるのだ」
「有り難き幸せ」
舒明は、仏教を受容した初めての天皇であった。
それに対して、任那復興、対新羅強硬路線とる、死んだと思われていたが蝦夷と入鹿父子は、舒明に敵対した。
蝦夷は、入鹿の館でしばらくの間おとなしくしていたのであった。
舒明十三年(六四一)十月九日、百済宮で、宝、山背大兄、古人大兄たちに看取られ、陽が昇ると同時に、舒明は、息を引き取った。
宝の落ち込みは、尋常ではなかった。 蝦夷にとって代わって実力者となった息子の入鹿は、舒明の葬儀を恐れながらも差配したいと宝たちに伝えたが、中大兄は、直径の自分が舒明の葬儀を取り仕切ると入鹿の申し出を断った。
宝もそれを聞いて、
「中大兄、よろしく頼みます」と、涙を拭きながら言った。
また、入鹿は、舒明の後継として、馬子の娘、蘇我法堤郎媛(ほほてのいらつめ)が生んだ古人大兄の擁立を企てた。入鹿は、深慮遠謀、蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子を推した。
しかし、宝や、中大兄たちは、蘇我一族に染まることを懸念して、真っ向から反対した。
一年もの間、舒明の後継がなかなか決まらずにいたため、中大兄たちは、入鹿の妥協案をやむなく取り入れ、
六四二年正月、宝が皇位についた。皇極天皇誕生であった。
入鹿は、皇極を中継ぎとして、次に古人大兄を皇位に付けることを狙っていた。
「お上、大臣の息子入鹿殿が、政に口を出す機会が増えてきて、皆困っております」
群臣の一人が、さっそく、皇極に注進したが、皇極は、何も答えなかった。
大臣の蝦夷より子の入鹿が、国の政治を執るようになり、その権勢は、父親を勝るようになった。それだけでなく、大臣の蝦夷と入鹿の専横ぶりに皆なにも反対できなくなった。
さらに、息子の入鹿は、国中の民を徴発し、大臣の墓を大陵、自分の墓を小陵と言って、葛城の高台に造らせた。そして、そこで八つらの舞を演じさせた。八つらの舞とは、天子のみに許された八列六十四人による舞のことである。
それを知った中大兄は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとする野心を露わにしたものと、激怒した。
中大兄は、大極殿に参じた。
「お上、蘇我一族は、天皇家を乗っ取ろうとしています。早く対処すべきかと」
中大兄は、目がつりあがっていた。
「皇子、宮を移ることにした。入鹿たちから遠ざかるのだ」皇極は苦々しく言った。
二か月後、皇極たちは、小墾田宮に移った。
この一連の皇位継承問題で、天皇家と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
十月、入鹿は各国へ派遣される国司たちを朝堂で饗応した。
そして、最後に大夫の筆頭頭、阿部内麻呂が壇に立った。
「お前たち、これから任じられたところへ行き、気を引き締めて土地を治めよ」
「おう」
それから数日後、蝦夷は床に臥せって、参朝することができなかった。
近習の者を呼んで、
「入鹿を連れて来い」と命じた。
入鹿がやって来た。
「父上、何か御用ですか」
「もう儂も長くない。これをお前に引き継いてもらう。皇子たちには気をつけろ。」
と言って、置かれていた紫冠を与えた。
「父上、このようなことを勝手にやっては、まずいのではありませんか」
「お上には、儂から書状をしたためておくので、心配するでない」
上宮の王たちは、威光があるという評判に、入鹿は憎々しげに思っていた。
(上宮の王たちを廃し、古人大兄を跡継ぎにしないと我々は危ない)
入鹿は、軽皇子と安倍内麻呂を呼んで、斑鳩にいる山背大兄を攻め滅ぼす策を練った。
十一月、入鹿は、巨勢徳太臣を大将軍にして山背大兄を攻めさせた。
山背の数十人の舎人が、迎え撃ったが、多勢に無勢であった。
山背は、生駒山に妃と一族を率いて、逃げた。
しかし、数日後。
「皇子、これから東国に逃げましょう。東国を本拠にして、再起を掛けましょうぞ」
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が、山背の前に出て言った。
「お前が言う通り、そうすればきっと勝てるであろう。しかし、我一人のために、万民を苦しめ、煩わせることが出来ようか。我のせいで、父母を亡くしたなどと言われたくない。ここは、身を捨てて国を固めるのが、一番だ」
山背たちは、山を下りて、法隆寺に入った。
それを知った入鹿は、兵を館に集めた。
「今度こそ、山背の首を取るぞ」
入鹿は、兵一千で法隆寺を囲んで銅鑼と鐘を鳴らした。
「山背大兄様、お出ましなされ」
金堂では、山背が三輪文屋君に、将たちに伝えるよう命じた。
「我が兵を起こして、入鹿を討伐すれば勝つこと必定である。しかし、我一身のため人民を殺傷させたくない。我が身一つを入鹿に与えよう」
「皇子、それはなりませぬ」
山背たちは、あっけなく滅ぼされた。
「大臣、入鹿様が山背大兄様を討ったそうです」
蝦夷の近習の者が、息を切らせて報告した。
「何、入鹿の愚か者めが、お前もいつかは討たれるぞ」
蝦夷は、愕然とした。
蝦夷は、入鹿が戻って来たら、すぐ来るように家来に命じた。
「入鹿、なんてことをしでかした。天皇家たちの報復を受ける覚悟はあるのだな」
「父上、蘇我家の権威が失墜してしまうことが心配で、山背大兄様を討ち取りました。父上に怒られる筋合いはございません」
「もう済んだことは仕方がない。いつ攻められても受けて立つことができるよう警護を固めよう、分かったな」
蝦夷と入鹿は、攻められても十分持ち堪えることができる場所として、飛鳥の甘樫岡を選んだ。
そして、家来や民を総動員させ、‘上の宮門’と‘谷の宮門’と呼ばせた館を並べて建てさせた。
そして、周りに堀を掘って、水を貯め、館を城柵で囲い、武器庫を数か所設けた。
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