体罰と学校改革(教育の根本を問い直す)
大阪市立高校の部活の顧問が、部員に体罰を加えて、加えられた生徒が遺書を残して自殺したという。ここで、体罰を加えることで励んで好結果を出せる。だから体罰を肯定するという論議と、体罰は加えず成果を出すべきだという議論で二分している。
まず体罰はスパルタ教育と同質の古い封建的遺制が、なんの検証もなく、そのまま鵜呑みにし模倣されている。特に体育会系は、因習ともいえる体質を受け継いでいるようだ。たとえば軍隊の上官と一般兵士との関係のように。鬼軍曹には絶対服従で、異常なしごきと訓練が行われた戦中のイメージを思いだせばすぐわかる。絶対権力として振る舞う支配者という組織論の遺制を、疑うことなく模倣し、支配と強権を振るう。国家形態でいえ強制と服従の絶対的上下関係で大衆を支配する。まるで遺物ともいえる非人道的な過去の政治支配体勢そのままに正当化している。冗談じゃない。この暴力的なスパルタ指導は、あたかも武将と家臣の関係や、西欧絶対王政の時代の君主と臣民の支配被支配の構図を、そのまま模倣している。
現在の部活の顧問達が疑うことなく、このような権力と絶対服従の恐怖支配を実行するなど言語道断だ。暴力は暴力を生む。教育は、生徒に善悪の価値判断をすり込ませる強力な影響力を持っている。生徒は、教師の行為を身をもって学ぶことになる。このことが、社会の出て、彼らの価値観にどのような影響を蓄積してしまうかを、考えたことがあるのだろうか。新しい教育、時代に合った独創的で創造性のある教育を考えることもせず、ただ模倣している構造を支える教育者など、教育現場から消えた方が良い。
この勘違いした擬似支配が、一人の少年を犠牲者として死に追いやった。生徒の心を追い詰めるほど数十発も殴りつけ、遺体は顔が腫れ上がっていたという。人の心を過剰な暴力で、死にまで追い詰めたことを、反省する力もなく平然と弁解している様子が報道で伝えられていた。ふざけるんじゃない。
八割の生徒は、このような体罰を伴う指導に、結果さえ出せればと、肯定的だという。いじめによる自殺者が後を絶たないが、そのいじめの観念を、暴力と虐待で模倣する。いじめの側の生徒達がこれらの構図から浮かび上がってくる。生徒意識も支配に馴致され、そのまま正しいという価値観が植え込まれていく。次世代に、何を伝えているのか分かっているのだろうか。想像力を摘み取り、憎悪と恐怖心と服従に馴致させる教育が、これからの日本、ひいては世界を支えていく次世代育成の核となる真の教育だと思っているのか。
古典的となった政治支配構造の模倣が、今回の高校生を死に至らしめた原因であることは疑う余地もない。無能な教育者がのさばり、暴力を教育に流用しているからこそ、このような痛ましい事件が起きてしまう。暴力支配と決別すべきにもかかわらず、強制教育の無知な継承がたたれない限り、このような悲劇は後を絶たない。新しい子供の立場に立った精神の指導が形成されない限りは、真の人間作りはできないし、過渡期に行き詰まった社会を打開などできるわけがない。この支配の論理はすべて政治だけではなく、社会全体を被っている。また、双方向に影響し合ってきた。
考えのない連中が適正な指導法を見いだせず、想像できないままに権力を振りかざし、暴力で服従させる。この支配の仕方と構造を破壊しないと新しい体制も、新しい教育も見いだすことはできない。もはや腐食して遺物となった過去の残像を、持続的に教育に持ち込むなど言語道断である。
あたかも国民を軽視した政治構造や支配意識は、この体罰を疑うこともなく実行する教師達より、まだ少しはましかもしれない。ただ、教育にも政治にもどちらにもいえることは、被支配者の側である国民=生徒という捉え方を転倒し、その国民や生徒が上位に置かれ、自主的主体として尊重される被支配層の逆転の構造を獲得することが21世紀の課題だ。「共同幻想論」で吉本隆明という思想家は、その支配の構造を歴史的に暴いて見せた。私たちが、次に考えるべきことは支配意識を徹底的して否定し、意識の中から排除し否定し去ることで、下位と考えられてきた長い歴史意識を変えて、逆ピラミッドの構図を生み出すことにある。
その権利を主張し、獲得できる主体は国民自身であり、あるいは生徒自身の意識にかかっている。上と下からの双方向からの改革が重要なことはいうまでもない。上からの改革とは、為政者もしくは学校側が、この改革の主体となって改革を実行していくことだ。しかし為政者の意識は沈下したままで、いっこうに改革など進展する気配がない。学校も生徒が声を上げ、あるいは保護者が一体となって、学校制度改革を進める主体となるべきだ。そして教育にかかわる人たちが具体的に求めない限り、学校制度も教育の中身も変わることはない。しかし、これがもう一方の改革だ。改革の理念とプランを明確に持っていないと、体勢に飲み込まれて、なし崩し的に解体してしまう。今、時代は変革の過渡期にさしかかっている。見えていない多くの人々の中で、時代の動きの変化を、研ぎ澄まして読み取るべきだ。実は教育こそが、このヒントを子供達に提供できなければならないはずだ。
具体的に考えてみよう。上意下達とはトップダウン、すなわち支配者の思想だ。逆四字熟語は下意上達、すなわちボトムズアップから、チェインジ・ザ・トップとでもいおうか。学校の在り方でいえば、主役で主体は生徒とその保護者にある。社会的なルールを守り、自主性を伸ばし、その意味を自ら獲得し、学校を「支配と隠蔽の体質」から、開かれた学校づくりと生徒を主役のための学校に作り替えていくことが、これからの新しい教育の在り方を指し示している。現在は、トップに文科省が位置し、都道府県の教育委員会、そらに市町村教育委員会と学校というピラミッドの構図ができあがっている。これが崩すべき支配の構図だ。国でいえば政府、各省庁、都道府県の自治体と首長、さらに市町村の地方自治体の長ということになり、国民が学校組織の底辺にいる生徒と同じ位置を占めていることになる。この組織形態では、どうあがいても、上層が末端の下層に支持命令し、支配する。駒が最下層の国民になってしまい、開かれた国家などできる余地もなくなる。この模写と鏡が教育体系だ。以前、文部省は廃止し、教育基本法もなくしてはどうかと書いたことがある。その裏面には、上からの改革と同時に下からの改革という、双方向改革の一方の極を示していたつもりだ。
教育改革の原点は、開かれた学校づくりと同時に、主体が子供達で、知識とその活用、さらに創造性の自立を促す役目が教育の基本だ。知識の詰め込み教育など、何の意味もなく論外だ。締め付けと体罰で、動物を家畜のように強制的に無反抗・無抵抗の人間に作り替えることは、これからの社会を考えたら良いわけがない。棒読みの丸暗記教育など、なんの意味もない。すなわち大学や、受験の在り方も同時に問われている。教育の全体が脱皮しなければならない時期に、もっとも最悪の教育、未来から逆行した教育を日本の学校制度も内容も、良いものだと信じ込んで子供達に施していることになる。その結果として、世界の大学の上位ランクに、いつまでたっても日本の大学は入ることもなく、内向きな日本の若者を量産し、創造性や自立心の微塵もない子供達を育て、日本の将来を暗くしている。日本の企業も、日本全体も沈みかねない袋小路にさしかかっている。その元凶が現在の学校制度と内容そのものだということを認識された方が良い。現在、学校そのものの在り方が、時代の変化に付いていけずに、古い考え方を保存し、日本全体にブレーキをかけている。改革に抵抗はつきものだが、その保守反動の考えと向き合う自分も転換の課題を負っている。数十年と培ってきた慣行や因習を踏襲するだけの教育から脱して、善悪を見極め、悪しきものはさっさと排除し、最高の方法論としての教育の総体を創造するのことが、教育界の緊急の課題だ。
アルビン・トフラーが「第三の波」で指摘した時代の動きが、当然教育分野にも第三の波として起き始めている。第一の波は明治初期、第二の波は戦後、そして第三の波は現在だ。時代にアンテナを張り、敏感に新しい真の教育の在り方を、全世界に先駆けて日本の教育関係者が作ることができるか。今まで模倣ばかりしていた日本の思想力が、実は今問われている。その主体は、これを書いた私自身であり、これを読んだあなただ。
大阪市立高校の部活の顧問が、部員に体罰を加えて、加えられた生徒が遺書を残して自殺したという。ここで、体罰を加えることで励んで好結果を出せる。だから体罰を肯定するという論議と、体罰は加えず成果を出すべきだという議論で二分している。
まず体罰はスパルタ教育と同質の古い封建的遺制が、なんの検証もなく、そのまま鵜呑みにし模倣されている。特に体育会系は、因習ともいえる体質を受け継いでいるようだ。たとえば軍隊の上官と一般兵士との関係のように。鬼軍曹には絶対服従で、異常なしごきと訓練が行われた戦中のイメージを思いだせばすぐわかる。絶対権力として振る舞う支配者という組織論の遺制を、疑うことなく模倣し、支配と強権を振るう。国家形態でいえ強制と服従の絶対的上下関係で大衆を支配する。まるで遺物ともいえる非人道的な過去の政治支配体勢そのままに正当化している。冗談じゃない。この暴力的なスパルタ指導は、あたかも武将と家臣の関係や、西欧絶対王政の時代の君主と臣民の支配被支配の構図を、そのまま模倣している。
現在の部活の顧問達が疑うことなく、このような権力と絶対服従の恐怖支配を実行するなど言語道断だ。暴力は暴力を生む。教育は、生徒に善悪の価値判断をすり込ませる強力な影響力を持っている。生徒は、教師の行為を身をもって学ぶことになる。このことが、社会の出て、彼らの価値観にどのような影響を蓄積してしまうかを、考えたことがあるのだろうか。新しい教育、時代に合った独創的で創造性のある教育を考えることもせず、ただ模倣している構造を支える教育者など、教育現場から消えた方が良い。
この勘違いした擬似支配が、一人の少年を犠牲者として死に追いやった。生徒の心を追い詰めるほど数十発も殴りつけ、遺体は顔が腫れ上がっていたという。人の心を過剰な暴力で、死にまで追い詰めたことを、反省する力もなく平然と弁解している様子が報道で伝えられていた。ふざけるんじゃない。
八割の生徒は、このような体罰を伴う指導に、結果さえ出せればと、肯定的だという。いじめによる自殺者が後を絶たないが、そのいじめの観念を、暴力と虐待で模倣する。いじめの側の生徒達がこれらの構図から浮かび上がってくる。生徒意識も支配に馴致され、そのまま正しいという価値観が植え込まれていく。次世代に、何を伝えているのか分かっているのだろうか。想像力を摘み取り、憎悪と恐怖心と服従に馴致させる教育が、これからの日本、ひいては世界を支えていく次世代育成の核となる真の教育だと思っているのか。
古典的となった政治支配構造の模倣が、今回の高校生を死に至らしめた原因であることは疑う余地もない。無能な教育者がのさばり、暴力を教育に流用しているからこそ、このような痛ましい事件が起きてしまう。暴力支配と決別すべきにもかかわらず、強制教育の無知な継承がたたれない限り、このような悲劇は後を絶たない。新しい子供の立場に立った精神の指導が形成されない限りは、真の人間作りはできないし、過渡期に行き詰まった社会を打開などできるわけがない。この支配の論理はすべて政治だけではなく、社会全体を被っている。また、双方向に影響し合ってきた。
考えのない連中が適正な指導法を見いだせず、想像できないままに権力を振りかざし、暴力で服従させる。この支配の仕方と構造を破壊しないと新しい体制も、新しい教育も見いだすことはできない。もはや腐食して遺物となった過去の残像を、持続的に教育に持ち込むなど言語道断である。
あたかも国民を軽視した政治構造や支配意識は、この体罰を疑うこともなく実行する教師達より、まだ少しはましかもしれない。ただ、教育にも政治にもどちらにもいえることは、被支配者の側である国民=生徒という捉え方を転倒し、その国民や生徒が上位に置かれ、自主的主体として尊重される被支配層の逆転の構造を獲得することが21世紀の課題だ。「共同幻想論」で吉本隆明という思想家は、その支配の構造を歴史的に暴いて見せた。私たちが、次に考えるべきことは支配意識を徹底的して否定し、意識の中から排除し否定し去ることで、下位と考えられてきた長い歴史意識を変えて、逆ピラミッドの構図を生み出すことにある。
その権利を主張し、獲得できる主体は国民自身であり、あるいは生徒自身の意識にかかっている。上と下からの双方向からの改革が重要なことはいうまでもない。上からの改革とは、為政者もしくは学校側が、この改革の主体となって改革を実行していくことだ。しかし為政者の意識は沈下したままで、いっこうに改革など進展する気配がない。学校も生徒が声を上げ、あるいは保護者が一体となって、学校制度改革を進める主体となるべきだ。そして教育にかかわる人たちが具体的に求めない限り、学校制度も教育の中身も変わることはない。しかし、これがもう一方の改革だ。改革の理念とプランを明確に持っていないと、体勢に飲み込まれて、なし崩し的に解体してしまう。今、時代は変革の過渡期にさしかかっている。見えていない多くの人々の中で、時代の動きの変化を、研ぎ澄まして読み取るべきだ。実は教育こそが、このヒントを子供達に提供できなければならないはずだ。
具体的に考えてみよう。上意下達とはトップダウン、すなわち支配者の思想だ。逆四字熟語は下意上達、すなわちボトムズアップから、チェインジ・ザ・トップとでもいおうか。学校の在り方でいえば、主役で主体は生徒とその保護者にある。社会的なルールを守り、自主性を伸ばし、その意味を自ら獲得し、学校を「支配と隠蔽の体質」から、開かれた学校づくりと生徒を主役のための学校に作り替えていくことが、これからの新しい教育の在り方を指し示している。現在は、トップに文科省が位置し、都道府県の教育委員会、そらに市町村教育委員会と学校というピラミッドの構図ができあがっている。これが崩すべき支配の構図だ。国でいえば政府、各省庁、都道府県の自治体と首長、さらに市町村の地方自治体の長ということになり、国民が学校組織の底辺にいる生徒と同じ位置を占めていることになる。この組織形態では、どうあがいても、上層が末端の下層に支持命令し、支配する。駒が最下層の国民になってしまい、開かれた国家などできる余地もなくなる。この模写と鏡が教育体系だ。以前、文部省は廃止し、教育基本法もなくしてはどうかと書いたことがある。その裏面には、上からの改革と同時に下からの改革という、双方向改革の一方の極を示していたつもりだ。
教育改革の原点は、開かれた学校づくりと同時に、主体が子供達で、知識とその活用、さらに創造性の自立を促す役目が教育の基本だ。知識の詰め込み教育など、何の意味もなく論外だ。締め付けと体罰で、動物を家畜のように強制的に無反抗・無抵抗の人間に作り替えることは、これからの社会を考えたら良いわけがない。棒読みの丸暗記教育など、なんの意味もない。すなわち大学や、受験の在り方も同時に問われている。教育の全体が脱皮しなければならない時期に、もっとも最悪の教育、未来から逆行した教育を日本の学校制度も内容も、良いものだと信じ込んで子供達に施していることになる。その結果として、世界の大学の上位ランクに、いつまでたっても日本の大学は入ることもなく、内向きな日本の若者を量産し、創造性や自立心の微塵もない子供達を育て、日本の将来を暗くしている。日本の企業も、日本全体も沈みかねない袋小路にさしかかっている。その元凶が現在の学校制度と内容そのものだということを認識された方が良い。現在、学校そのものの在り方が、時代の変化に付いていけずに、古い考え方を保存し、日本全体にブレーキをかけている。改革に抵抗はつきものだが、その保守反動の考えと向き合う自分も転換の課題を負っている。数十年と培ってきた慣行や因習を踏襲するだけの教育から脱して、善悪を見極め、悪しきものはさっさと排除し、最高の方法論としての教育の総体を創造するのことが、教育界の緊急の課題だ。
アルビン・トフラーが「第三の波」で指摘した時代の動きが、当然教育分野にも第三の波として起き始めている。第一の波は明治初期、第二の波は戦後、そして第三の波は現在だ。時代にアンテナを張り、敏感に新しい真の教育の在り方を、全世界に先駆けて日本の教育関係者が作ることができるか。今まで模倣ばかりしていた日本の思想力が、実は今問われている。その主体は、これを書いた私自身であり、これを読んだあなただ。