「担当者の好みと同義」人格評価を正当化してきた歴史という事らしいです。
私も、これまで、人をいっぱい雇いましたけど、
小さい所ですので、そんな選り好みを、やれるような余裕は無かったです。
その結果、無駄な人件費を、いっぱい払いました。
ただ、一応日本人で、日本語が通じるかもしれない人というだけでした。
こんなんですから、そりゃ、今のように外人だらけになるのも当たり前です。
とりあえずの日本人を介護して、給料まで出しているような感じでした。
いっそ、ホントにボケた年寄りの方が、ましだったかもしれません。
なんせ、勝手に要らない事をしたりしますから。
雇っていて、なんか、情けなくなっていました。
基本、私は怒らないです、怒れないんです。
そういう状況になると、逆に冷めてしまう。
そして、「結局、どうしたいの ?」と聞きます。
なぜ、そうなったかの方が重要だからです。
自分で考えさせないと、何が悪いか本人が納得できない。
しかし、現代は、そういう教育をやって来ていない。
問題が有れば、分からないままスルーする教育をやってきた。
それで、どうにかなってきた、いい国です。
以前、ある大手の保険会社の担当者と話していて、
さっき言った事と違う事を言った時が有って、
「ちょっと待て !」「さっき言うた事と違うやないか !」と言ったら、
そやつが言った言葉が、「それは取り敢えず置いといて。」
とぬかしやがりました。
かりにも、大手の保険屋です、難しい約定を、いっぱい決めているのに、
平気で前言撤回をするんですから。
そんな人間を雇っている。
だから、高橋洋一先生に、ド文系なんて言われるんです。
私は子供の頃から色んな商売人の大人と接してきて、
いかに適当で、その場限りの、いい加減な事を言っているのを見てきました。
景気のいい時は、それでも社会は回っていました。
逆に、そのぐらいの方が、ちょうど良かったのです。
しかーし、時代は変わって来て、外資も入って来て、契約社会になったのに、
ド文系の方々は、変わろうとしません。
まー、そっちの方が楽ですから。
そして、現代では、しっかりそのまま固まって出来上がってしまいました。
だから、今の今になって、〝コミュ力〟重視って、なにを言っているの ?
これまで、コミュニケーションなんて、どうでも良かったという事です。
日本人は、全てツーカー、阿吽の呼吸で通じ合っていたのでしょう。
一を聞いたら十を知ったのでしょう。
マイナスを聞いたらプラスを知ったではないですよ。
それはそれで、凄い事ですが。
その結果、これまでのコミュ力を重視してこなかった方々が、
いかにトンチンカンだったかは、よーく知っています。
文字通り、「あーー」と「うーー」の呼吸だけをしている大人も、
いっぱい見てきました。
そんな人ほど、社会的地位の高い所についている結果、
現代の、あれもこれもの、色んな問題となっているのでしょう。
コミュ力の高い方々は、ツーカーで分かりますね。
あー、バカバカしい、なんて言ったらダメです。
「やったら出来る ! アンタは、賢い、イイ子やー !」 です。