3月20日、日頃医者知らずの母親が自分で体の異常を訴えて休日当番医に診察を受けたことを、近所に住む妹から知らされた。そして、それからの1月余りはあっという間の出来事だった。
29日、精密検査の結果について担当医の説明を父、妹、私の三人で聞くことになる。ベッドで待つ母には医師からの言葉はそのまま伝えることが出来なかった。診断結果は末期癌。長くて余命1月。今のうちに好きなことをさせてあげなさいとのこと。父と妹は涙が止まらない。私は不思議と涙をこらえることはできた。これから後、どのようなことが待ち受けているか、泣いてはいられないと思ったのは確かだ。
その後、気を取り戻した父と妹と相談の結果、できるだけ早いうちに母が大好きな箱根へ旅行しようということになった。
母は自分の体力、病状からとても旅行はできないと思っていたようだったが、私は無理やりでも連れて行くと決めていた。母の命が少しだけ縮まるかも知れないけれど、家族として後悔しないために。
31日、この期におよんで偶然にも妹が以前から予約していた家族写真の撮影に参加。最初で最後の親子4人の写真撮影。この時、母は歩くのもやっとだったが、後日出来上がってきた写真では素敵な笑顔で写っていた。我慢強い人だ。体の異常に対しても、長い間我慢してきたと思うと、辛い。
4月1日、母の81回目の誕生日。私の家族、妹家族が集まって、お寿司とケーキでお祝いした。この時は、まだ母はビールをコップで半分くらいは飲む元気があったが、それでも30分後には退席。何はともあれ、みんなでお祝いすることができて良かったと思う。
その後、担当医の当初の診断よりも予想以上に進行が早く、病状はどんどん悪化する。残された時間は短い。
箱根旅行は宿の都合もあり、4月8,9日に決定。私も年休をとる。
4月8日、妹の愛車(オデッセイ)の後部座席をフラットにして、布団を敷いて母を寝かせた状態で沼津に向う。昨年、一昨年と続けて12月に訪れた同じ場所に連れて行ってあげようと思ったから。この3年間、父、母、私の親子3人の旅行を「長生きの旅」と称して、遅ればせながらの親孝行の真似事をしていたのだった。
母がお気に入りの「沼津の千本浜」の堤防から臨む富士山は雲の中だったが、母は車椅子に半ばうずくまりながらも、富士山の方向を長い間見つめていた。この時、堤防上に自力では歩いて上れない母を、生まれて初めて背負うことになる。この時はまだ私の首に回された母の腕の力は確かだった。
午後からは、元箱根の成川美術館から富士山が見えることを期待して行った。この美術館も毎回お決まりのコース。当所、芦ノ湖の外輪山の向こう側の雲に隠れていた富士山だったが、少しずつ雲が晴れてきた。美術館で母は車椅子から長い間富士山を見つめていた。
宿は会社の健康保険の寮だったので、ある程度は病人のわがままを聞いてもらうことができたが、結局母は食堂のテーブルに着席することなくベッドに横たわったままだった。もう、殆ど食事が出来ない状態。それでも妹が頑張って一人で強羅の温泉に入れてあげることができた。生涯最後の温泉浴。さぞかし気持ちが良かったことと思う。その証拠に、ベッドでは僅かながらビールを飲んだ。
4月9日、天気が良いので乙女峠から御殿場に下りながら富士山をみせてあげることにした。雪を頂いた富士山は想像以上に綺麗だった。車内の布団に横たわっていた母に富士山が見えたかどうかは、今となっては確認できないが。
その後、容態が芳しくないので予定を変更してそのまま病院に直行。その日は帰宅。
4月12日、前から化学療法を開始する予定だったが、当日朝には既に体力が衰えており、父と妹、姪が何とか病院まで搬送しそのまま入院。この日の夜、医師から聞いた診断結果は余命数日、早ければ週末かも、と。余りに急な話に、父も動揺を隠せない。妹は涙が枯れる程、泣いている。
4月13日、相部屋から個室に移動。近所の親戚や、母の友人がお見舞いに来てくれる。個室にしてよかった。酸素吸入のため、マスクを顔に装着するが、煩わしいのか手で払おうとする。話かけると反応するところから、頭はしっかりしているようだが返す言葉は殆ど聞き取れない。さぞかしもどかしいことだろう。
4月15日、15時55分、妹や姪が泣き叫ぶ中、苦しみから解放された母は天国に旅立ちました。
その後、私と妹で手配して親戚や母の友人のみで通夜、葬式を無事済ませたものの、墓石やら仏壇の手配など怒涛の日々が待っていましたが、85歳の父を助けながら何とか49日の納骨まで辿り着くことができました。
という訳で、この3ヶ月弱の間のブランクの備忘録でした。
29日、精密検査の結果について担当医の説明を父、妹、私の三人で聞くことになる。ベッドで待つ母には医師からの言葉はそのまま伝えることが出来なかった。診断結果は末期癌。長くて余命1月。今のうちに好きなことをさせてあげなさいとのこと。父と妹は涙が止まらない。私は不思議と涙をこらえることはできた。これから後、どのようなことが待ち受けているか、泣いてはいられないと思ったのは確かだ。
その後、気を取り戻した父と妹と相談の結果、できるだけ早いうちに母が大好きな箱根へ旅行しようということになった。
母は自分の体力、病状からとても旅行はできないと思っていたようだったが、私は無理やりでも連れて行くと決めていた。母の命が少しだけ縮まるかも知れないけれど、家族として後悔しないために。
31日、この期におよんで偶然にも妹が以前から予約していた家族写真の撮影に参加。最初で最後の親子4人の写真撮影。この時、母は歩くのもやっとだったが、後日出来上がってきた写真では素敵な笑顔で写っていた。我慢強い人だ。体の異常に対しても、長い間我慢してきたと思うと、辛い。
4月1日、母の81回目の誕生日。私の家族、妹家族が集まって、お寿司とケーキでお祝いした。この時は、まだ母はビールをコップで半分くらいは飲む元気があったが、それでも30分後には退席。何はともあれ、みんなでお祝いすることができて良かったと思う。
その後、担当医の当初の診断よりも予想以上に進行が早く、病状はどんどん悪化する。残された時間は短い。
箱根旅行は宿の都合もあり、4月8,9日に決定。私も年休をとる。
4月8日、妹の愛車(オデッセイ)の後部座席をフラットにして、布団を敷いて母を寝かせた状態で沼津に向う。昨年、一昨年と続けて12月に訪れた同じ場所に連れて行ってあげようと思ったから。この3年間、父、母、私の親子3人の旅行を「長生きの旅」と称して、遅ればせながらの親孝行の真似事をしていたのだった。
母がお気に入りの「沼津の千本浜」の堤防から臨む富士山は雲の中だったが、母は車椅子に半ばうずくまりながらも、富士山の方向を長い間見つめていた。この時、堤防上に自力では歩いて上れない母を、生まれて初めて背負うことになる。この時はまだ私の首に回された母の腕の力は確かだった。
午後からは、元箱根の成川美術館から富士山が見えることを期待して行った。この美術館も毎回お決まりのコース。当所、芦ノ湖の外輪山の向こう側の雲に隠れていた富士山だったが、少しずつ雲が晴れてきた。美術館で母は車椅子から長い間富士山を見つめていた。
宿は会社の健康保険の寮だったので、ある程度は病人のわがままを聞いてもらうことができたが、結局母は食堂のテーブルに着席することなくベッドに横たわったままだった。もう、殆ど食事が出来ない状態。それでも妹が頑張って一人で強羅の温泉に入れてあげることができた。生涯最後の温泉浴。さぞかし気持ちが良かったことと思う。その証拠に、ベッドでは僅かながらビールを飲んだ。
4月9日、天気が良いので乙女峠から御殿場に下りながら富士山をみせてあげることにした。雪を頂いた富士山は想像以上に綺麗だった。車内の布団に横たわっていた母に富士山が見えたかどうかは、今となっては確認できないが。
その後、容態が芳しくないので予定を変更してそのまま病院に直行。その日は帰宅。
4月12日、前から化学療法を開始する予定だったが、当日朝には既に体力が衰えており、父と妹、姪が何とか病院まで搬送しそのまま入院。この日の夜、医師から聞いた診断結果は余命数日、早ければ週末かも、と。余りに急な話に、父も動揺を隠せない。妹は涙が枯れる程、泣いている。
4月13日、相部屋から個室に移動。近所の親戚や、母の友人がお見舞いに来てくれる。個室にしてよかった。酸素吸入のため、マスクを顔に装着するが、煩わしいのか手で払おうとする。話かけると反応するところから、頭はしっかりしているようだが返す言葉は殆ど聞き取れない。さぞかしもどかしいことだろう。
4月15日、15時55分、妹や姪が泣き叫ぶ中、苦しみから解放された母は天国に旅立ちました。
その後、私と妹で手配して親戚や母の友人のみで通夜、葬式を無事済ませたものの、墓石やら仏壇の手配など怒涛の日々が待っていましたが、85歳の父を助けながら何とか49日の納骨まで辿り着くことができました。
という訳で、この3ヶ月弱の間のブランクの備忘録でした。
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