先日、私と母が演奏する筑前琵琶「繋」について原稿依頼がありましたので、ここにも記しておきます。
筑前琵琶「繋」CDの中には次のような拙文をいれました。
「コロナ禍の中で、昨年闘病の末、父が亡くなり母は病院にいます。母とは面会ができない日々が悶々と続いています。もう昔には戻れない悲しみが私に襲いかかり、一歩も足が踏み出せなくなりそうです。私が今できること。母の「上原良司にささげる知覧特別攻撃隊」の演奏を残すこと。そして私が母から教えられた琵琶演奏を繋ぐこと。それが琵琶づくりをしていた父への供養、そして母への励ましになると思いました。
母の演奏を聴いていると、「平和への想い」「演奏へのこだわり」そして「一生懸命」の姿が眼に浮かびあがります。日本の伝統芸能でもある琵琶の演奏を少しでも聞いていただければ幸いです。
CDの制作にあたっては、思いを共有して下さった長野たかしさん、あやこさん、横田昭さんに大変お世話になりました。この場をお借りしてお礼申し上げます。 江川慶子」
今から8年ほど前、母に栃尾純ご夫妻から知覧特別攻撃隊の「上原良司」への琵琶曲をつくってみてはとの提案があり、母は「聞けわだつみの声」(岩波書店)を読んだり鹿児島県の「知覧特攻平和会館」にも足を運び、創作活動を始めました。
上原良司は大正11年(1922年)、長野県池田町に生まれ、現在の安曇野市有明で育ちました。旧制松本中学を卒業後、慶應大学経済学部に進学。昭和18年に学徒出陣で徴兵され、昭和20年5月11日陸軍特別攻撃隊員として鹿児島県知覧を離陸、沖縄嘉手納湾に進撃してきたアメリカ軍機動部隊に突入、戦死しました。22歳でした。
上原は戦没学生の手記集『きけ わだつみのこえ』の冒頭に掲げられている遺書、『所感』を書き残しました。上原が出撃前夜に記した所感は、出撃を目前にした真情のほとばしり出た叫びそのものです。この中で上原は、軍国主義日本の特攻作戦を『人間を器械として消耗』と告発し、批判する自由のない日本の敗北を明言しました。にもかかわらず自分が出撃するのは、その後に来る『自由の国日本』のためと言い、さらにその自分に代わって『愛する日本を偉大ならしめられんことを国民の方々にお願いするのみ』と、戦後を生きる私たちに自由の国・日本の実現を託したのです。2006年(平成18年)に建立された上原良司の石碑には「第二次世界大戦において、多数の国民が戦争に駆り出され、祖国・故郷・家族のためにと信じつつ自由で平和な時代の到来を願いながら戦い、無言で逝った。その多くの戦没者の思いを代弁したとも言うべき、突撃前夜に上原良司が書き残した『所感』の一節をここに刻み、そのメッセージを次世代に伝える」として、建立趣意が紹介されています。モニュメントには、妹・上原清子さんの書で「きけわだつみのこえ」と題字が書かれ、良司が万年筆で書いた所感の一節「自由の勝利は明白な事だと思います。明日は自由主義者が一人、この世から去っていきます。唯、願わくば愛する日本を偉大ならしめん事を、国民の方々にお願いするのみです。上原良司」と記されています。
戦争を知らない世代が過半数を超えた今日、「平和な日本」を生きる私たちにとって「自由の無い時代」を生きた上原のメッセージを伝えることが、本当に大切な時期になったといえます。母は「上原良司」の人となりを自分のものにしながら、歌ってみては何度も何度も表現を変えていました。新興吟詠会からも演奏の依頼があり、私の演奏を聴いて頂いたことを思い出します。当時、木越暁さんがFacebookにアップされ貴重な動画となりました。母は、私の演奏を聞いて時間配分も考えながらできあがったのがこのCDに収められた母自身が演奏したものです。
CDの2曲目は、私が「耳なし芳一」を。3曲目は母が演奏する「那須与一」の全部を収録しました。
完成後、すぐ母の病院へ持っていきました。その後コロナが下火になった10月末、母との面会が実現できました。10分程度と制限のある中でしたが、私とわかると母の顔が喜びにあふれていました。母の笑顔に支えられています。
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