骨髄移植をはじめとする、臓器移植を積極的に進めようという、マスメディアを中心とした啓蒙活動が盛んである。
ちなみに僕は、現段階で、自分の臓器を提供するつもりはない。本人の意思が不明でも、遺族の同意だけで提供できるようにしようというキャンペーンも行われているが、僕は反対である。
理由は2つある。
1つは、医療が信用できない、ということ。カルテが患者の所有物に、未だになっておらず、やろうと思えばいくらでも改ざんができる。その上、罰則がない。これはつまり、「医者および医療スタッフは不正をしないだろう」という根拠のない前提で全ての医療が行われていることに他ならない。
医療ミスを内部告発した看護婦(現在は看護師か?)は、二度と次の病院には行けないそうだ。こんな連中に、渡す身体はない。
実は、臓器移植にはかなりの危険が伴う。提供者も患者も、両方死んでしまったという最悪のケースもある。また、提供した健康なはずの提供者の家族だけが死んで、患者は生き残ってしまったというもっと悲劇的なケースまである。
そうでなくても、障害が残ってしまうケースもある。命は助かっても、金銭的にはこっちの方がもっと困るはずである。
また、善意で提供して、死んだり、障害が残った場合、どういうフォローがされるのか、説明が何もない。ずいぶん一方的な報道だなと思う。「確率は低い」というだけでは説明になっていない。ゼロでない以上、そうなった場合、家族が路頭に迷わないだけの資金手当がされるような制度なしに、危ない橋を渡らされる義務なんかないね。
日本の医療は、やることやってないし、厚生省(今は厚生労働省)も天下りの嵐で、責任なんか取りはしない。役人が業務上で失敗しても、お咎め無しという法律まであるんだから。繰り返される薬害事件を見てみろ。具体的な改善が何もされないんだから、変わるわけがないのだ。
2つ目は、生存率である。臓器の中には割と定着率が良い部位もあるようなのだが、大金を払って、提供者まで危険にさらしている割には、得るものが少ないように思えてならない。
劇的に改善して、健常者と変わらないほどに回復するなら、医療として有効だと言えるだろうが、現実は一生続く拒否反応との戦いで、数年で死んでしまうケースも多々ある。最近報道されて美談として有名になったケースでは、2億円もの金額がかかっている。親はそれでも助けたいかもしれないが、2億円と言えば、一生のうちに手にする金額の実に7割にも達する。わずか数万円の医療費が払えずに死んでいく人がたくさん出るようになった今の社会では、法外な金額ではないだろうか? 命はコスト計算をしてはいけないのだろうか? そうではないと思う。そこまでして助けても、一生24時間体制で介護しなければならないようなら、社会としては損失の方が大きい。
やはり遺伝子の違いは大きい。例え塩基配列が分かったとしても、それを安全に操作できるところまでは、まだ全然達していない。というよりも、完全にはできない可能性の方が高いのだ。
命だからといって、際限なく金をかけて、際限なく人手をかけて、何とか生きながらえるんじゃ、意味がないだろう?
その立場になったわけじゃないが、僕はそこまでして生きたくない。
僕は強度のアレルギー体質で、今までに何度か呼吸困難で危ない目にあったが、1日でも長く生きたい、とは別に思わない。
それどころか、自分の子供を残すことに躊躇している。この遺伝子は、残さない方がいいのかなぁ、と漠然と思っている。もし、バツイチで連れ子がいるようなら、それで十分かな、と思う。正直、結婚はしても、例えば精子バンクで別の人の子供でもいいし、妻の思い出の相手と、その日だけ合意の上で子供をもらっても別に一向構わない。
女性にとっては、自分で産んだ子と、そうでない子の違いは大きいだろうが、男にとっては、長いことその子と過ごしたかどうか、が自分の子供であるかどうかなので、遺伝子的に絶対に自分の子でなくても、僕は別にいい。
性格的にもあまり他人と折り合いが良くなく、示している実績よりも必ず低く評価されるし、第一、生きていてもあまり楽しくない。おまけに健康上も難ありじゃ、優先してこの遺伝子を残そうなんて、死んでも思わないな。
常識的な範囲内で、助けられるなら、全力で助ければいい。でも、生きるってのは、健康で、楽しく生きられなきゃ意味がないわけで、やっぱり「程度」ってものはあると思うのだ。
また、うちの家族の意見として、母親が移植そのものを拒否しているというのもある。「私はするのもされるのも嫌だ」とはっきり言い切っているので、文書は残していないようだが、母親に関しては本人の意思が「拒否」であるから、拒否するつもりである。
ちなみに僕は、現段階で、自分の臓器を提供するつもりはない。本人の意思が不明でも、遺族の同意だけで提供できるようにしようというキャンペーンも行われているが、僕は反対である。
理由は2つある。
1つは、医療が信用できない、ということ。カルテが患者の所有物に、未だになっておらず、やろうと思えばいくらでも改ざんができる。その上、罰則がない。これはつまり、「医者および医療スタッフは不正をしないだろう」という根拠のない前提で全ての医療が行われていることに他ならない。
医療ミスを内部告発した看護婦(現在は看護師か?)は、二度と次の病院には行けないそうだ。こんな連中に、渡す身体はない。
実は、臓器移植にはかなりの危険が伴う。提供者も患者も、両方死んでしまったという最悪のケースもある。また、提供した健康なはずの提供者の家族だけが死んで、患者は生き残ってしまったというもっと悲劇的なケースまである。
そうでなくても、障害が残ってしまうケースもある。命は助かっても、金銭的にはこっちの方がもっと困るはずである。
また、善意で提供して、死んだり、障害が残った場合、どういうフォローがされるのか、説明が何もない。ずいぶん一方的な報道だなと思う。「確率は低い」というだけでは説明になっていない。ゼロでない以上、そうなった場合、家族が路頭に迷わないだけの資金手当がされるような制度なしに、危ない橋を渡らされる義務なんかないね。
日本の医療は、やることやってないし、厚生省(今は厚生労働省)も天下りの嵐で、責任なんか取りはしない。役人が業務上で失敗しても、お咎め無しという法律まであるんだから。繰り返される薬害事件を見てみろ。具体的な改善が何もされないんだから、変わるわけがないのだ。
2つ目は、生存率である。臓器の中には割と定着率が良い部位もあるようなのだが、大金を払って、提供者まで危険にさらしている割には、得るものが少ないように思えてならない。
劇的に改善して、健常者と変わらないほどに回復するなら、医療として有効だと言えるだろうが、現実は一生続く拒否反応との戦いで、数年で死んでしまうケースも多々ある。最近報道されて美談として有名になったケースでは、2億円もの金額がかかっている。親はそれでも助けたいかもしれないが、2億円と言えば、一生のうちに手にする金額の実に7割にも達する。わずか数万円の医療費が払えずに死んでいく人がたくさん出るようになった今の社会では、法外な金額ではないだろうか? 命はコスト計算をしてはいけないのだろうか? そうではないと思う。そこまでして助けても、一生24時間体制で介護しなければならないようなら、社会としては損失の方が大きい。
やはり遺伝子の違いは大きい。例え塩基配列が分かったとしても、それを安全に操作できるところまでは、まだ全然達していない。というよりも、完全にはできない可能性の方が高いのだ。
命だからといって、際限なく金をかけて、際限なく人手をかけて、何とか生きながらえるんじゃ、意味がないだろう?
その立場になったわけじゃないが、僕はそこまでして生きたくない。
僕は強度のアレルギー体質で、今までに何度か呼吸困難で危ない目にあったが、1日でも長く生きたい、とは別に思わない。
それどころか、自分の子供を残すことに躊躇している。この遺伝子は、残さない方がいいのかなぁ、と漠然と思っている。もし、バツイチで連れ子がいるようなら、それで十分かな、と思う。正直、結婚はしても、例えば精子バンクで別の人の子供でもいいし、妻の思い出の相手と、その日だけ合意の上で子供をもらっても別に一向構わない。
女性にとっては、自分で産んだ子と、そうでない子の違いは大きいだろうが、男にとっては、長いことその子と過ごしたかどうか、が自分の子供であるかどうかなので、遺伝子的に絶対に自分の子でなくても、僕は別にいい。
性格的にもあまり他人と折り合いが良くなく、示している実績よりも必ず低く評価されるし、第一、生きていてもあまり楽しくない。おまけに健康上も難ありじゃ、優先してこの遺伝子を残そうなんて、死んでも思わないな。
常識的な範囲内で、助けられるなら、全力で助ければいい。でも、生きるってのは、健康で、楽しく生きられなきゃ意味がないわけで、やっぱり「程度」ってものはあると思うのだ。
また、うちの家族の意見として、母親が移植そのものを拒否しているというのもある。「私はするのもされるのも嫌だ」とはっきり言い切っているので、文書は残していないようだが、母親に関しては本人の意思が「拒否」であるから、拒否するつもりである。