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本と音楽とねこと

無頼化した女たち

水無田気流,2014,無頼化した女たち,亜紀書房.(4.1.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 軽妙洒脱な心地よい筆致からか、一気に読める。

 ただ、「無頼化」というコンセプトが、ややわかりにくい。

 無頼化とは読んで字のごとく、「他に頼むものがなく一人で生きていくことを前提に、あらゆる価値基準を決定するようになること」と定義できる。
(p.31.)

 このように、少なくとも女子界のトレンドにおいて、かつて個人の幸福と社会正義は、必要十分関係にあった(と信じられていた)のである。
 だが現在、ニッポン女子は以前のように「正しさ」を価値基準の源泉とはしていない。経済社会的にはアッパーでセレブな自立志向、だが文化的にはロウワーでダウナーなアウトロー志向である。
 この絶妙なまぜこぜ感を言い当てたのは、「セレビッチ」(辛酸なめ子)であろうか。故ミズ・ミナコ・サイトウに怒られそうな風潮だが(でも個人的に、あの方は元祖セレビッチ風味な気がする)、なぜ、この一見矛盾する志向が両立するのか?
(pp.15-16.)

 なるほど、セレブ志向とビッチ志向のアンビバレンツか。

 会社のおじさんも彼氏や配偶者も、いまだにあたまがシーラカンスなみに固すぎて、女性に、「ケア力、コミュ力、家事能力」と「稼働能力」の両方を求めがちだ。

 前者は結婚につながる要素であり、後者は「一人でも生きていける力」を意味する。

 そして、多くの女性は、そのどちらも身につけ、両立させようとする。

 なるほど、生きづらいわけだ。

 このアンビバレンツが、鮮明に現れたのが、東電OL殺人事件である。

 話を東電OL殺人事件に戻そう。被害者は、一九五七年生まれ。八〇年に、亡父の勤務していた東京電力に入社。男女雇用機会均等法施行より六年も前のことである。同年、東電に採用された大卒・院修了者は、男性が事務系で七八名、技術系一〇四名。一方、女性は全員事務系でたった九名だった。
 そして事件当時、女性で管理職のポストにあったのは、被害者のみ。より正確に言えば、他の女子社員は、みな彼女が管理職に就く前に退職している。同期の男性社員は、多くの管理職を輩出しているにもかかわらず、である。
 被害者は、八八年、とある研究所に派遣(出向)命令を受けた。ここの研究所への出向は、いわゆるエリートコースから外れた感が否めなかった、という。また、通常二年の出向のところ、彼女は三年間の出向であった。
 背後にはコミュニケーション能力が低く、扱いづらい被害者の性格が災いしたことが示唆される。実際、被害者を知る人は、「真面目」だが「とっつきづらい」女性だったと評している。ブラウスのボタンを一番上まできちんと留め、隙のない雰囲気だったとされる。いずれも、女子偏差値の重要項目「可愛げ」とは正反対の特性である。
 出向と同時期、彼女は再び拒食症で入院する。その翌年からクラブ(実際には風俗店)でホステスを始めた、との記録がある。その後、ホテトル嬢から円山町での「立ちんぼ」になり、殺害されるにいたる。多くの人は、これを「エリートOLの転落」とみる。だが、私にはそんな単純な話には思えない。
 極論すれば、被害者は、生きたかったのである。
 拒食によって自身の生が消滅する間際になり、反作用のように湧き上がってきたのが、性衝動と、自分の性的価値を客観的に把握したいという欲望だったのではないのか。
 社会的成功(出世)の望みも閉ざされ、恋愛や結婚という「普通の女性の上がり」など、思いもよらない彼女には、この世に生き残るための強力な縁が必要だったのだろう。
 通常、この性衝動と自分の性的価値の把握という欲望は、思春期からの葛藤の最中、徐々に現実と折り合いをつけていくものである。だが、彼女はこれまで、通常の意味で男性と親密なパートナーシップを持った形跡がない。それが三二歳の時点で、これまでの女性性の抑圧とともに、一気に噴き上げてきたのではないか。
(pp.68-69.)

 この「女性としての価値の確認」は、被害者のエコノミストとしての数値化へのこだわりと、奇妙な連関を持つ。
 たとえば、被害者は一日何人のお客を取るという「ノルマ」を自分に課していたとされる。また、空のビール瓶を拾い集め小銭と交換し、さらにその小銭を、たとえば一〇円を百円に、百円を千円札に、さらには一万円札に、といった形で「逆両替」していた、ともいう。この中には、売春で得た千円札も、混じっていたかもしれない。
 大きく「変換」されていく貨幣は、それだけ彼女の「価値」を高めていく。数値化と性衝動の昇華。それを証明するのに、貨幣の数ほど相応しいものはない。かくして、娼婦への転落、と他人がみなすものは、彼女にとって、自分の価値の取り戻しへと「変換」されていく。
 一方、ダイエットも身体の数値化と関連する。
 体重は、摂取した食べ物の総カロリーに比例して上下する。数グラムでも減れば「成功」であり、それは非常に分かりやすい「成果」でもある。行きつけのコンビニで、おでんのコンニャク、シラタキばかり買っていたという彼女の頭には、カロリー表が叩き込まれていたことだろう。これらは、すべて「カロリー0」の食品である。
 体重を一グラムでも落とし、一円でも多く売春で稼ぐ、この分かりやすい数値化は、彼女にどれほどの快感をもたらしたのか。
 事件当時、彼女の年収は一千万円近くあったと推測される。もちろん、生活上、売春などする必要はなかっただろう。だが、この給与所得と、売春によって得た「女性としての価値への対価」は、また別物だったに違いない。それは、表向き「能力」によって採用したはずの企業が、女性的価値(=女子偏差値)の低さから彼女を冷遇したことに対する、壮絶な復讐劇でもあったはずだ。
 雇用機会均等法施行以前から、東京電力には、いわゆる女子社員の一般職/総合職の線引きはなかった、という。だが、実質的には「お茶汲み」「湯飲み洗い」などは女子社員の仕事であり、被害者は給湯室でよく茶碗を割っていた、という。
 彼女は、湯飲みをいくつもいっぺんに洗い物用のかごに入れ、乱雑にゆすって洗っていたらしい。このため、茶碗は飛び出して割れることも珍しくなかった。これが、「効率性」を重視した結果か、あるいはこのような業務外の仕事をさせられることへの不満の表明なのかは不明である。
 ただ、思うに彼女は、女性一般に求められる家事能力や手先の器用さの点において、他の女性より劣っていたであろうことは想像に難くない。
(pp.70-71.)

 この分析には、圧倒された。

 「女子力」(←イヤな言葉だが)が欠落しているにもかかわらず、それを要求される、じゅうぶんな稼働能力をもっているにもかかわらず、男優先の職場のなかで、正当に評価されない、これは、たしかに、とても苦しい状況であったことであろう。
 渡辺泰子さんは、真面目に売春という仕事に取り組み、自らの達成意欲を充たそうとしていたのだろう。

 また、女性は、仕事だけでなく、良い相手と結婚し家族をつくるために、恋愛の競争市場で勝ち抜けしなければならない。
 そして、そのために、自らのセクシュアリティに高い付加価値を付けることも必要となる。

 現在、「玄人女」への幻想の値段は、地に堕ちていると言っていい。そして、中でも「誰にでも買われ得る」前提の風俗嬢は、その最底辺にいる。
 玄人女への幻想の値下がりには、時代的変遷がある。七〇年代は、まだ水商売の女性を歌った流行歌も見られたが、女性の意思決定が尊重されるようになりだしたころからは、あまり流行らなくなっていった。それにともない、「玄人女」のエロス的価値もまた、下落していったのである。
 代わって登場したのが、「素人女」のエロス的価値称揚である。八〇年代、メディア的な仕掛けとはいえ、「女子大生ブーム」が起きたのは、偶然ではない。カネではなく、自由意志で女性が恋愛相手として認めてくれること。これが、男性としての価値の承認になったからである。
 同時に、旧来の「性豪的男の価値」は急落した。いわゆる「素人童貞」などと言われるように、カネの力でしかセックスができない男性も、侮蔑の対象となっていった。
(中略)
 いや、今だってキャバクラからスナックに高級クラブまで、「女性に接待してもらう場」に、オジサンは集う。たしかに、「女はカネについてくる」のだが、それを表立って喧伝するのは、まるで「オヤジ的欲望のパロディ」である。この姿に、オジサンたちは無意識に同類嫌悪感を煽られたのではないのか。
(pp.118-119.)

 酒井順子さんは、社会経済的には成功しているが未婚で子なしの女性を「負け犬」、無職の子あり既婚女性を「勝ち犬」と位置づけたが、「負け犬」にも「勝ち犬」にも、低階層の女性たちがいる。
 これは重要な視点だ。

水無田 もっとも林さん自身は、結婚に子どもに美貌まで入手されてしまった、ある意味負け犬進化系究極勝ち犬なんですが・・・・・・。それはともかく、女性のライフコースと「勝ち負け」なんですけど、婚姻上の地位に基づいては勝ち犬、負け犬になるわけですけど、「勝ち組負け犬」対「負け組負け犬」、さらに「勝ち組勝ち犬」対「負け組勝ち犬」とか、いろいろ組み合わせがある。「パートでやっと家計をささえているような主婦にとっては、負け犬こそ勝ち組に見える」とかね、もうみんないい加減にしろよ!って感じで(笑)。
 だから、女子界にも坂本龍馬みたいのが必要なんですね。もう、ホントに「負け組負け犬、勝ち組負け犬、ゆうちゅう場合じゃあないがやか!」って言っていただきたいぐらいです。二〇代ぐらいの女性は、これを見てどう思うかっていうと、そのあまりの不毛さに嫌気がさしたのか、専業主婦志向になってしまうんです。若年層ほど性別分棄贊成派が多くなってきている。
(p.275.)

 性別を問わず、「ケア力、コミュ力、家事能力」と「稼働能力」、双方がバランスよく備わっていた方が良いに決まっている。
 それが、男性には後者のみ、女性には、上司や恋人など、相手によって要求される力がころころ変わってしまう、ややもすれば双方を期待されてしまう、このことが最大の問題なのであろう。

 生きづらさを解消するための戦いをやめてはいけない。

新書版「無頼化する女たち」を大幅加筆し、文化系トークラジオLifeの常連、西森路代との対談「女子の国の歩き方無頼化とゆるふわのあいだで」も同時に収録。ノマドから木嶋佳苗まで、2010年代の女たちの実相。

出産か、キャリアか。永遠に決められない選択。引き裂かれる「わたし」。普通の幸せは、なぜのぞめないの?日本女子のやさぐれた現実を徹底分析+西森路代氏との放談収録。

目次
第1部 無頼化する女たち
ニッポン女子のハッピーリスクと「第一次無頼化」の到来
社会のゆがみとニッポン女子の「第二次無頼化」
女のパロディとしての「第三次無頼化」
サバイバル・エリートと婚活現象
『おひとりさまの老後』革命
ニッポン女子無頼化現象が示す真実
第2部 女子の国の歩き方(西森路代×水無田気流)
女子の国の散歩道
女子の国の獣道
女子の国の冥府魔道
第3部 無頼化した女たち


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