昔、そう遠くない昔。
あるところに一人の男がいた。
その男は人里離れた山中に住み、一日のほとんどを悟りを得るための修行に費やしていた。
何年も何十年も同じことを繰り返していたが、彼は自由であった。
彼は孤独であったが、満足していた。
彼は飢えていたが、心の中は満たされていた。
しかしそんなある日、その時は不意に訪れた。
彼は全てが解放されたような喜びに包まれた。
悟りの境地に到達した彼は、やがてあることに思い至った。
それは、これまで自分が自分のために希求してきた真理を広く人々に伝えたいという願いである。
男は山を下りることにした。
ふもとの町に行ってそこで男は衝撃を受けることになる。
あまりにも長い間山にこもりすぎていたので、ふもとの人達とは考え方や価値観、コミュニケーションの仕方が全く異なってしまっていたのだ。
男は途方に暮れた。
見渡すと幸福を求めている人達がこんなに多いのに、誰も話を聞こうとしない。
これでは「自分の真理」を聞いてもらうどころではない、どうすればいいのだろうか、と。
そんなある日、男はある一人の老婆と出会った。彼女が言うには、
「お前がやろうとしていることを望むなら、お前が求めているものは既に人々の中にあるということを知り、それを見いだす手伝いをすることだ。
そのためには一度全てを忘れて一から始めなければならない。
自分自身の思考の速度を変え、ゆっくりで限定された視野と思考の状態から自分自身を再構築していく中で、
人々の存在や思いの在り方は一つではないということを思い出すことだ。
そのためには注意深く人々の言葉を探り、視野を広げ、伝える力を身につけていくことが必要になるだろう。
その覚悟があるならば、この泉の水を飲みなさい。この水は全てを忘れる忘却の泉の水なのだ。」
そして、その男は迷わずその水を飲み、全ての記憶を忘却の彼方へ閉じこめた。
全ての記憶を忘れたその男は、どこかにいる。
男が今はその話を思い出すことができているのかどうかは定かではない。
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