支援する現場での心身ケアっをするには、どんなことができるだろうって思いをめぐらせる時。
先ず、支援している時に自分の身体がどんな環境で、何を成し遂げているのだろうかって考え始めるようになった。
支援している時の身体の立ち位置ってどんなんだろうーって。
支援する現場での自分の存在というのは、ただ単に相手の意向を察して、実現させること。とはちと違う気がする。
相手の気持ちを理解してその人が成し遂げたい時に、もう一歩実現に達するまでに、不足している環境を補い、整えること。ともいえるけど、これでもちと違う。
う~ん。
まだ、違うのです。
ここまでは、支援者でなくとも、普段だれでもどんな職種の人でも、人と付き合う場では確実に方法は様々だれけれど、やっていることだと思う。
どうでしょうか。
少なくとも、わたしは、自分の身体の記憶や価値観を軸に、相手さんのそれと照らし合わせて人と付き合う。
だから、時に人付き合いは、違いや行き違いやミスマッチが生まれてからこそ、面白い。という状況になる。
支援の現場では、これもひとつの支援と言える。が、これもまたチと違う気がする。
最近おもしろいな~と感じる支援は、自分の存在を0にしたときの支援。自分の身体感覚を相手の身体感覚の媒体に徹する。
相手の意向を補ったり、減らしたりのさじ加減もこえて、相手のエネルギーを自分の中をとおして、外部環境に発信するに徹する。
こんな、身体性をもつ。
これを支援といったとき、
思わずにんまりしちゃう。
自分の持ちえないエネルギーや質感が身体を突き抜けはじめる。これって、愉快だよ~。
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0地点のケアをする時のわたしの身体は、こんな感じ。
補いあう場合は、
限りなく自分の体が相手の体の延長線になること、
相手の感度の媒体になること、(相手+自分=あなたって人がわたしを辿って倍増する)
相手の不足仕勝ちな気づきや機能の拡張器になる。
逆に、周囲の情報や状況に過敏になった相手に接する場合は、
わたしが、あなたの大きく静かな春の海になる。って感じ。
時に、人のシステムは創造以上に、期待以上に、自動的に反応してしまう。
でも、そんな不必要にオートマティックに全て反応してしまい、パニック状態になる身体機能をひとつづつスイッチOFF、する感じ。
これは、仕舞いで能面をつけるときの、境地の如き。
周囲の視覚情報を意図的に面で削って、内側の感覚に集中できるようにする。そうすることで、他に気をとられ過ぎず、必ずしも不必要にONしている機能がシャットダウンする、こうして強制的にスイッチオフされることによって、自分は、内なる衝動に集中でき、意図する動きが素直に運ばれる。
これは、自分の身体がダンサーとして踊るときの感覚に似ている。
わたしは、周囲の環境の延長戦となってムーブメントを外部に表出したり、
周囲の音の媒体となってリズムを刻んだり、
素材の重みを交換して動きを創出する経過に似ている。
周囲のあらゆる情報や現象と神経系のダンス。
是を成し遂げるには、自分の衝動や意図、習慣や価値観、記憶を初期化し続けえる工夫と定期的な稽古が必要になる。
何ものをも、経験で判断しない0地点という領域。これに戻ることを可能にする感性を磨く。もはや、優劣、増減、善悪、白黒、明日や昨日、広いも狭いもすら幻想と化する。
これって、限りなくダンス!
そうだ、これってダンス=って発見して、突如ダンスが生まれるケアの時間がある。
この域って踊りそのものだよ。
0地点のケア。
やめらんないね。