京都•左京区 フェルデンクライス/アート/ダンサブルな暮らし

身体と芸術、社会とのつながりを実践しながら研究活動を行う。
発達教育学/ソマティクス教育/表現文化

ケア→ダンス以前→ダンス•ダンス•ダンス

2015-07-17 | Staff diary

支援する現場での心身ケアっをするには、どんなことができるだろうって思いをめぐらせる時。

先ず、支援している時に自分の身体がどんな環境で、何を成し遂げているのだろうかって考え始めるようになった。

支援している時の身体の立ち位置ってどんなんだろうーって。

 

支援する現場での自分の存在というのは、ただ単に相手の意向を察して、実現させること。とはちと違う気がする。

相手の気持ちを理解してその人が成し遂げたい時に、もう一歩実現に達するまでに、不足している環境を補い、整えること。ともいえるけど、これでもちと違う。

う~ん。

まだ、違うのです。

ここまでは、支援者でなくとも、普段だれでもどんな職種の人でも、人と付き合う場では確実に方法は様々だれけれど、やっていることだと思う。

どうでしょうか。

 

少なくとも、わたしは、自分の身体の記憶や価値観を軸に、相手さんのそれと照らし合わせて人と付き合う。

だから、時に人付き合いは、違いや行き違いやミスマッチが生まれてからこそ、面白い。という状況になる。

支援の現場では、これもひとつの支援と言える。が、これもまたチと違う気がする。

最近おもしろいな~と感じる支援は、自分の存在を0にしたときの支援。自分の身体感覚を相手の身体感覚の媒体に徹する。

相手の意向を補ったり、減らしたりのさじ加減もこえて、相手のエネルギーを自分の中をとおして、外部環境に発信するに徹する。

こんな、身体性をもつ。

これを支援といったとき、

思わずにんまりしちゃう。

自分の持ちえないエネルギーや質感が身体を突き抜けはじめる。これって、愉快だよ~。

***

0地点のケアをする時のわたしの身体は、こんな感じ。

 

補いあう場合は、

限りなく自分の体が相手の体の延長線になること、

相手の感度の媒体になること、(相手+自分=あなたって人がわたしを辿って倍増する)

相手の不足仕勝ちな気づきや機能の拡張器になる。

 

逆に、周囲の情報や状況に過敏になった相手に接する場合は、

わたしが、あなたの大きく静かな春の海になる。って感じ。

時に、人のシステムは創造以上に、期待以上に、自動的に反応してしまう。

でも、そんな不必要にオートマティックに全て反応してしまい、パニック状態になる身体機能をひとつづつスイッチOFF、する感じ。

 

これは、仕舞いで能面をつけるときの、境地の如き。

周囲の視覚情報を意図的に面で削って、内側の感覚に集中できるようにする。そうすることで、他に気をとられ過ぎず、必ずしも不必要にONしている機能がシャットダウンする、こうして強制的にスイッチオフされることによって、自分は、内なる衝動に集中でき、意図する動きが素直に運ばれる。

 

これは、自分の身体がダンサーとして踊るときの感覚に似ている。

わたしは、周囲の環境の延長戦となってムーブメントを外部に表出したり、

周囲の音の媒体となってリズムを刻んだり、

素材の重みを交換して動きを創出する経過に似ている。

周囲のあらゆる情報や現象と神経系のダンス。

 

是を成し遂げるには、自分の衝動や意図、習慣や価値観、記憶を初期化し続けえる工夫と定期的な稽古が必要になる。

何ものをも、経験で判断しない0地点という領域。これに戻ることを可能にする感性を磨く。もはや、優劣、増減、善悪、白黒、明日や昨日、広いも狭いもすら幻想と化する。

 

これって、限りなくダンス!

 

そうだ、これってダンス=って発見して、突如ダンスが生まれるケアの時間がある。

この域って踊りそのものだよ。

0地点のケア。

 

やめらんないね。

 


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