OHさま
長いメールをいただき、気になりながら返信が今日になってしまいましたこと、申し訳ありませんでした。
風邪は、すっかり良くなりましたでしょうか?
インターネットの繋がりが悪く、原因を探るのにたくさんの時間を要し(今も、原因不明で、不完全です)、教会のことでは、弁護士さんに相談しなければならない事が起きて、今までの経過報告のための文書作りに追われ、年賀状は、1月12日にポストに入れた(寒中見舞いとなってしまった)有様でした。
57年目突入の石川さん、多くの方々の支援が強い支えと希望となっておられるようです。
私は、祈りの支援しかしてないので肩身狭しです・・・。
袴田さんのことは、ローマ教皇の来日で少しは変化あるかなと期待してましたが、あまりその兆しは・・・?
ゴーン氏のお金亡者ぶりはひどいなとは思いつつ、日本の司法に対する批判をしてくれたことは、良かったかなと・・・。
司法は、「石川さん、袴田さんは冤罪の可能性大なので死刑には出来ない。が、こけんに関わるので無実にもしたくない。 娑婆で歳を取らせ死を迎えるのを待つ蛇の生殺し。」ということなのでしょうか・・・??
冤罪の苦しみに意味がないならやり切れないです。「知らずして、イエス・キリストの十字架(冤罪によるの贖罪)を証している」ということなのかもしれないなと・・・?
十字架には復活の希望が潜んでいます。希望をもって耐え忍ぶ力が与えられますように。
それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。(聖書 ローマ人への第1の手紙5:3-5)
ペシャワール会の中村哲医師が銃殺されたことは、ショックでした。
彼は、30代前半の頃ではなかったかと思うのですが、ここの教会に来られたことがあります ( 奥様といっしょだったような? ) 。
「結核研究所での研修のためこちらに来ましたので、礼拝出席しました」と挨拶されたことを、不思議とおぼえています 。
中村哲医師の宗教を超えた信仰、彼の働きを背後で支えていたのは、どんな信仰だったのだだろうか?知りたく思いました。
わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。・・・・・弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。 (聖書 コリント人への第1の手紙9:19-23)
石川さん、袴田さん、中村医師、また私たちを含めすべての 一人ひとりの思いを用いそれを超えて(fuが、あの時あのように倒れ、今このような状態にあるのも)、神様が人間の救いの計画を成し遂げようとされている一駒ひとこまなのかなと・・・、人間が主ではなく神様が主となって救いを遂げようとしてるんだなと、思うこの頃です。
”獄友シスターズ”の皆様方、昨年は色々ありがとうございました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。