素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(11):中本博皓

2020年07月12日 14時50分31秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

      人種とは、日本人の昔を探る(11)

 

 

 日本人の昔を探る(その1)

 旧石器時代人とは(上)  

 日本列島に人が住み、生活の痕跡を証明できる遺跡の発見は1946(昭和21)年のことで、しかもアマチュア考古学者の情熱の結果だったようです。

 群馬県桐生市のベットタウンと言われていた周辺の東村(勢多郡)、笠懸町(新田郡)、大間々町(山田郡)の三つの町村が2006年の大合併でみどり市となりました。その内の一つ旧笠懸町に日本の歴史を大きく変えることになったことで、考古学の世界では有名になった岩宿遺跡があります。

 みどり市のHPによりますと、「1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から、石器を発見」した、とあります。

 切り通しというのは、山や丘を切り開いて、見通しをよくして人馬が通りやすくした道のことです。笠懸町の岩宿も昔は行商の人にとっては通りにくい場所だったと思います。

 日本の考古学の専門家の先生方は、大変慎重な方々が多く、発掘に当たり考古学では、細長い発掘溝を掘って(試掘)、その部分から発掘するための遺跡全体の状況を探るための「堀割(トレンチ)を掘り、ローム層に当たると、これを「地山(じやま):自然のままの地盤」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。その関東ローム層から、石器が発見さらのですから、専門家も半信半疑だったと思います。

 その後、発見者の相沢忠洋は「1949年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見した」(みどり市HP)ことから、大学等の専門家(明治大学大が院生芹沢長介、後の東北大学名誉教授ほか)の知るところとなりました。

 旧石器時代は、今から約3万7千年前頃から約1万6千年前頃に相当します。明治大学の博物館の岩宿遺跡の展示物には、2万5000年前のものと3万5000年前のものとがあります。旧石器時代人は、大型の草食獣を追いながら住処を移動すると、学んだのですが岩宿遺跡を調べる限りでは、二つの時代の石器文化を通して1万年にも及んでいます。

 専門家の先生方からしますと、1万年なんて年数のうちには入らない短い時間かも知れませんが、わたしども素人には途轍もなく長い時間に思います。西暦がやっと2000年ですからね。岩宿を含め旧石器時代については、また後(中)、(下)の2回に分けて言及したいと思います。

 ところで、長野県の野尻湖湖底からは、太古の昔の多くの大型哺乳類(草食獣)の遺骸の化石が発掘されていますし、土の花粉分析では、トウヒ(マツ科、トウヒ属)の仲間でエゾマツ、アカエゾマツ、ハリモミなど、またモミ(マツ科、モミ属)の仲間でウラジロモミなどクリスマス・ツリーなどお馴染みの亜寒帯性の針葉樹の花粉化石も多く発見されています。

 また、現在の野尻湖の湖底や周辺には少なくとも、4万年前頃から1万数千年前頃までは、ナウマンゾウやヤベオオツノジカなどの、いまでは絶滅してしまった大型哺乳類(草食獣)も生息していたように言われています。ナウマンゾウに関しては、「再論。ナウマンゾウについて(Ⅱ)」を参照して下さい。

 野尻湖畔の立が鼻遺跡からは、ナウマンゾウの化石とともに骨器や石器もたくさん発掘されていますし、杉久保遺跡からも「野尻湖人」(野尻湖旧石器時代人)が使用したと見られる痕跡をとどめている石器も多数見つかっています。それにキルサイトの痕跡も旧石器時代人がいたことを窺わせます。

 日本列島における旧石器時代人が何時頃、どのように到来し、暮らすようになったのかは、本稿では若干の言及にとどめますが、旧石器時代より後の、草創期の縄文人、いわゆる「日本人の昔の」暮らしといいますか、食べ物などに、素人は素人なりに、違った目線で探りを入れてみようかと考えています。



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