素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(12):中本博皓

2020年07月14日 10時20分08秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

       人種とは、日本人の昔を探る(12)

 

 

 日本人の昔を探る(その1)

 旧石器時代人とは(中)

 考古学の専門家の先生方の中で、素人の目線を非常に大切にされた先生がおられました。わたしも長年ナウマンゾウについて勉強していますので、野尻湖の湖底から発掘される多くの化石、野尻湖人(旧石器時代人)の痕跡などには関心をもっています。野尻湖人の頭蓋骨が、いつの日にか発見されるのではないか、その情報に首を長くして待っているのですが、まだまだ先のようです。

 そんなわけで、野尻湖の立が鼻遺跡や杉久保遺跡から発掘されている多くの石器や骨器の発掘情報に関しては、わたしもアンテナを張っております。

 とくに杉久保遺跡の発掘に尽力されたこでも知られる芹沢長介先生のそれまでの日本旧石器時代に関する研究成果は、大戦後間もない頃の岩宿遺跡の発掘に端を発していると言っても過言ではないと思います。

 その発端は、当時行商をしながら考古学者が振り向かなかった地山、赤土のローム層から石器を発見した相澤忠洋さんの言葉と発見した石器の数々を信じ、考古学に情熱を傾注していた青年、相澤忠洋さんと何度もコミュニケーションをとり、現場を案内してもらい、相澤さんとともに自らも石器や石片を探し集め、相澤さんの労を多とし、岩宿遺跡の発見者として、また日本の旧石器時代を解明する発端を切り開いたパイオニアと称える謙虚さ、それが考古学者芹沢長介(1919-2006)だったと言えます。

 芹沢は、『日本旧石器時代』(岩波新書、1982)において、素人考古学者相澤忠洋との出会いを以下のように綴っています。

 

 1949年7月27日の午後1時ごろ、友人の江坂輝弥が訪ねてきたので連れだって外に出た。~、江坂の家まで歩いた。するとそこには復員服姿の若い男が一人、江坂の帰りを待っていた。私には初対面のその男は相澤忠洋と名乗った。彼は桐生で衣料品や食料品などの行商をしながらも考古学の研究を続けているということで、私たちの間には北関東の縄文土器や石器についての話がはずんだ(芹沢:1982、2ー3頁)。

 

 芹沢は、考古学を研究している者は、共通する話題が豊富だから初対面でもひと言二言話しているうちに、旧知の友のように話し合えるものだ、と語っています。

 そしてまた、芹沢は、相澤から思いがけない「岩宿」の赤土の断面が露出している部分があり、ある日その部分から黒曜石の破片が目に留まり、拾い上げて見ると、何と人の手が加わった石器の破片であった、と言う話を聞くことが出来たのだそうです。この相澤との出会いこそが、芹沢長介のわが国石器時代研究の扉を開かせることになった契機と言うわけです。

 芹沢は、相澤について次のように評しています。

 発掘は明治大学考古学研究室の仕事としておこなわれ、調査者は杉原荘介ということになった。新聞発表されたさいにも、また発掘の報告書が刊行された時にも、この発掘調査に中心的な役割をはたした相沢忠洋の功績については、ほとんど記されることがなかった。岩宿遺跡の報告書の序文の中には「群馬県桐生市の相沢忠洋君にわれわれの発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた」ことへの謝辞が述べられているだけであった。

 岩宿のローム層中に石器が包含されている事実を発見し、約七十年にわたって多くの考古学者から見逃されてきた旧石器研究の重い扉を開けたのは、誰でもない相沢忠洋なのだ。私がはじめて彼に会った七月二十七日から一ケ月余り、相沢と私はたがいに手紙を交換し、また何度か東京で会い、そのたびに旧石器文化研究への夢を語り合ってきていたのだった。相沢は岩宿遺跡発掘の単なる斡旋者などではない。彼は日本旧石器文化研究のパイオニアなのだ(芹沢:1982、14頁)。

 

 芹沢長介は、『前掲書』(1982)において、やり切れない思いを以上のように綴り、相沢忠洋と言う無欲の青年考古学者がいたからこそ、日本の旧石器時代の文化を日本史の中に位置づけることが出来たのだと、その功績を高く評価しています。

 相澤は、1961年群馬県から功労賞、1967年には吉川英治文化賞を受賞、1989年勲五等瑞宝章、笠懸村名誉村民第一号が授与されています。

 (注):「相澤」について、芹沢の著作からの引用の場合は、原文通り「相沢」とし、それ以外は「相澤」としてあります。「相澤忠洋記念館」に準じています。

 



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