前回の話 の続きです。
キリスト教を通過した意義が、もう一つありました。
なので、ここに追加しておきます。
教会に行ってたわけではありませんが、
独学で私が半年間、学んでいたのは、プロテスタントのキリスト教でした。
それは、イエス・キリストへの信仰以外は、全て偶像崇拝だったり、
サタン的な惑わしだったりするので、離れるべき・・・という方向性なのです。
でないと、信仰の足を引っ張られ、神につながれないというわけです。
たとえば、過去のスピリチュアル(オカルトとされる)への関与とか、
人・物・ペットなどへの過度の愛着(偶像崇拝)とか、
占いなども禁止されています。
なので、いったん、全部捨てなきゃ、、と私も考えました。
部屋にある、何十冊かのスピリチュアル本や、占星術の本、顔相の本、
タロットカード、パワーストーン、御守り・・・もろもろ
それらが見るからに、いかがわしい物に見えたのです。
そして、思い切って、それらを捨てたことで、随分スッキリしました。
それまで、多少、スピ本のジプシー傾向にあったのですが、
手放したことで、頭の中が空っぽになり、大いにリセットされた感がありました。
捨てるのが楽しくなって、昔の日記帳とかノート類、細々したアイテムとかも
この際、ポイポイ処分しました。
今まで、ある程度の断捨離をしたことはありましたが、
そこまで大胆に捨てたのは、生まれて初めてだったかも~。
しかも、抵抗も未練もなく。。
これは、排他的なキリスト教の荒療治のおかげとも言えましょう。
結果的に、良いキッカケになったと思います。
いつのまにやら、中途半端に心の中に蓄積し、ゴチャゴチャしていたスピ類が一掃され、
その空いたスペースに、心外にもキリスト教がガッチリ入ることなく、
その後、スーッと噓のように抜けてしまった。
つまり、自由と微量の切なさが混じり合ったような、新しい心境とスペースを手に入れたのでした。