これは成城学園の創設者澤柳政太郎(1865-1927)の座右の銘とされ、成城学園の建学の精神を表す言葉として学園の50周年記念講堂(1967)に掲げられている。この読み方は、「求むるところ第一義」というのが最近のものである。
しかし私が読み下すとすれば「第一義として求むるところ」とする。「所求」は求める対象の事物を指しているので、「所求第一義」と「第一義」とは同じ意味である。なお学園関係者には「第一義を求める所」と読む方もいるが、文法的に言えば「所求」に場所の意味はない。
平成22(2010)年度入学式での油井学長挨拶では第一義について、本当のもの、一番大切なもの、根本にあるもの、といった言い換えが見られるが、さらに言葉の理解を深める必要がある。平成24(2012)年度の学長挨拶では、本当のもの、一番大切なもの、あるいは最高のもの、根本のもの、と微妙に表現が修正された。ところでこの言葉は仏教用語だとされている。
私は、澤柳は、その書において第一義を仏教用語から言葉を借りただけでなく、仏教的な意味合いで使っていると見ている。そのことをまずは理解することが必要である。
ただし「第一義」という言い回しは、第二次大戦前には、よく使われたようで、夏目漱石(1867-1916)の『虞美人草』(明治40年1907年)における「第一義」をめぐる議論は有名である。そこには、「人生の第一義」は何か、という問いかけがあり、「第一義の活動」というフレーズもある。漱石の同時代人である澤柳にとり「人生の第一義」とは何か、という漱石の問いかけに共感があったと私は考える。他方で、澤柳自身は「第一義」をあくまで仏教の教えを第一義とするという意味で使っていたというのが小稿の主張である。
ところでこの言葉を学園の標語、大学の標語としてみると、海外の教育機関の標語に比べても遜色がない(見劣りしない)すぐれた標語に思える。しかしこの言葉を澤柳自身が、学園の標語として掲げるように指導したわけではない。これを標語として選んだのは、あくまで後進の学園関係者である。
なお澤柳先生の書としては「博学探求」あるいは「遵道而行」というものも知られているが、言葉の勢い(魅力)は「所求第一義」が明らかに勝る。
ここで第二次大戦前に、第一義という言葉が、よく使われる言葉だったことをもう少し指摘しておこう。
まず第二次大戦前に「第一義」という額を掲げる学校がどうも複数存在する。ただし「所求第一義」とするのは成城である。やはり「所求」とあって、求という動詞があることで、第一義を求める「姿勢」が加わるところが意義深い。
では、これらの学校では「第一義」の由来をどのように説明しているだろうか。実は人気のある戦国時代の武将である上杉謙信(1530-1578)が「第一義」と書いた額が林泉寺(新潟県上越市)にあり、その影響で第一義を掲げた学校が少なくないというのだ。たとえば新潟県立高田高校(戦前は中学校であろうか)では戦前から現代に至るまで、林泉寺から「第一義」の拓本を取り寄せてこれを額に入れて、同校の体育館に掲げているとのことである。なおこの額を掲げた時期については1941年(昭和16年)の火災を免れたとあるのでそれより以前。火災前の建物の完成が1929年12月(昭和4年)とあるので早ければ昭和4年(1929年)からと推定される。なおそしてこの学校は高田藩の藩校である修道館の流れを組むとのこと。;新潟県立高田高校について(wikipedea)
あるいは長野県東御市立祢津小学校の場合、1939年(昭和14年)に当時の校長先生が林泉寺から「第一義」の文字をいただいて、講堂に掲げたとしている。
澤柳政太郎は、信州松本の生まれで文部官僚であったから、謙信の第一義についても、また各地の学校の扁額についても知識があったのではと推測はできる(ただし1975年の澤柳政太郎全集の索引で澤柳の書き物を調べた限りでは、上杉謙信や達磨大師に言及したものはあるが、林泉寺の額あるいはそのもととされる故事に言及した書き物はみいだせなかった)。
ところで謙信の第一義のもとも、仏教にあることは分かっている。この点から仏教における第一義とは何を指すかをもう少し詰めて置く。
(5世紀から6世紀にかけてインドから中国にわたり仏教の布教につとめた達磨に関する伝承のなかでこの第一義が出てくる。ただし伝承の文章中にあるのは聖諦第一義という言葉である。聖諦(しょうたい)は、四つの聖なる真理のこと。第一義とは、最高の道理のこと。「聖諦第一義」は、<聖なる真理を最高の道理とする>と翻訳できる。なおここで道理とは仏教用語であり、因果の「みちすじ」のこと。つめていえば、<仏教における四つの聖なる真理を最高のみちすじとする>というのが含意である。そして寺の総門にこの言葉を掲げる意味は、仏教における教えへの帰依を意味していると解釈できよう。
なお四つの聖なる真理(諦)とは、人生は苦しみであり(苦諦)、苦しみには原因があり(集諦)、苦しみがない状態があり(滅諦)、苦しみを無くす方法がある(道諦)を指す。そして八正道と言われる生活態度として説くのである。すなわち正見、正思(正しい決意)、正語、正業、正命(正しい生活)、正精進、正念(正しい心の状態)、正定(正しく精神が定まっていること)の八正道である。つまり聖諦第一義とは、まさに仏の教えに従うことを示した言葉であり、それゆえ寺の総門に「第一義」の扁額を掲げたのである。
日本には、第一義についてもう一つの有名な額があり、それは京都府宇治市の満福寺総門のものである。こちらの満福寺(京都府宇治市)(wikipedea)の総門には、高泉禅師による「第一義」の扁額がある(満福寺は中国から招請された隠元1592-1673が江戸幕府の許しを得て開山したもの。山号は黄檗山。中国の高僧であった隠元招請の逸話は、鑑真688-763招請と唐招提寺建立759の逸話を想起させる。)。問題の総門の建立は1693年。
満福寺と江蘇省常熱興福寺について
ところで夏目漱石1867-1916は1907年この地を訪れて深い印象を受け、それが虞美人草(1907年6月から10月朝日新聞に連載)での人生の第一義をめぐる記述につながったとされる。なおこの虞美人草における、人生の第一義をめぐる議論は、あまりにも有名。虞美人草では、人生の第一義は道義であるという答が最後の19段末に示されている。漱石は、仏教的な意味で「第一義」「道義」と言った言葉を使っているとは言えないのではないか。人生の第一義は道義である、という言い方そのものが仏教的な会得されるものと違っている。
「林泉寺」や「万福寺」など寺の総門にある「第一義」は道義という一語で明確に示されるものとは違うように思える。そのように言葉で一語で明確に示されるものではなく、たとえば修業の積み重ねを通じて会得される悟りを意味するものではないか。別の言い方をすると「人生の第一義」とか「教育の第一義」とか、限定された第一義ではなく、仏教での「第一義」は、さらに高次のことがら(より根本的なことがら)が意味しているのではないか。澤柳の第一義はそのような仏教的な意味ではないか、というのが私の解釈である(以下に新潮文庫版『虞美人草』より関連するページを挙げておく)。
新潮文庫版『虞美人草』(1951年10月発行の現行販売版)
第一義の活動 p.89-90(5段), 96-97(5段), 120-121(7段)
藤尾の愛に道義はない p.222(12段)
人間は真面目にならなくてはいけない p. 416-423(18段)
真面目 p.444(18段末)
第一義の活動; p.445(18段末)
人生の第一義は道義にあり p.452(19段)
道義と悲劇 p.452-454(19段末)
なおさんによる 虞美人草のあらすじ
第一義という言葉については漱石の虞美人草のほかにも、第二次大戦前は、様々な用例がある。たとえば鈴木大拙の『禅の第一義』(1917年)という本のタイトル。またプロレタリア作家の島木健作の転向後の作品に『第一義』(1936)、『第一義の道』(1939)がある。この場合、第一義とはマルクス主義のことだったと指摘されている。つまり、第一義と仏教との関係は次第に離れ、第一義は、仏教的な意味を離れた言葉として、現代に至る。
改めて問うが、澤柳は「所求第一義」で何を言おうとしていたのか。私はこの書を澤柳が自宅の一室に掲げていたことを重視する。
そもそも澤柳政太郎の仏教への関心が浅いものでないのは、よく知られている。若いときからかなり熱心な仏教徒といえる生き方を実践したことや仏典の研究をしたことが知られている。沢柳は、はやくも26歳のとき(1890年)に「仏教道徳十善大意」と題した仏教の哲学書を刊行。十善戒とよばれる道徳の実践を呼びかけている。興味深いのはこの実践のよびかけと、第一義の教えは関係があると思えることだ。第一義の教えとは、私の解釈では、たとえば多額の寄進をする、写経をするなどの行為(外見的な功徳)ではなく、日々の行いのなかで戒律を守った生活をすること(個人としての実践)で安心の境地(悟りの境地)が得られることを、指しているように思える。後年、澤柳は5博士のひとりとして1919年に仏教系大学の設立を諸宗派に呼びかけ、1926年に仏教系大学として大正大学が創立されるやその初代学長を務めている。他方で公人としての澤柳が、文部官僚としてあるいは成城の校長として、仏教の教えを生徒・学生に説くべきだとしたわけではない。それ(宗教と教育を分けて考えていたこと)もその通りだが、自らの日々の生き方の問題として仏教徒として第一義を求めた人生を実践した、その思いを字にして額にして自宅内で掲げていたというのが私の解釈である。
残念ながら澤柳の全集からは、以上の主張を裏付ける適切な証拠(澤柳の書いた文章)を見つけることはできなかった。澤柳の子息の著書『吾父澤柳政太郎』に以下のようにあるとされているのが当面の論拠である。
政太郎は「自ら十善の実行家たらんと一個の修行僧の如く自己を鞭し自己を戒し、身を粉にして修業したのであった。元来彼の道徳観は、・・・道徳の聖諦第一義は所謂不言実行、口に之を謂ふにあらず、身に自ら行ふにあるとした」(立花隆「天皇と東大 上」文芸春秋、p.358より重引)
扁額の文字は政太郎のその境地を示すものと私は考える。
追記2012年7月10日 成城学園教育研究所で所求第一義について、学園関係者がこれまでに書いた著述を参照することができたが、澤柳の著述から第一義の典拠を明らかにできないというのがそれらに共通した意見であった。またこれも共通して『成城教育』第3号1958年6月末尾の無署名の記述「この額は澤柳先生が書かれたもので、この言葉は宇治の黄檗山の山門にある文句からとられたのだということである。先生はこの文句が大変お好きであった。」が引かれていた。この記述が正しければ、漱石と同じく万福寺山門の高泉禅師の書「第一義」がも元ということになる。またこれらの著述や教育研究所での聞き取りによれば、この額は、もともとは自宅にあったものを澤柳先生の死後、学園が寄贈を受け、図書館、それから50周年記念講堂(母の館)と移動したと伝えられているようだ。
追記2023年9月16日 もともと仏教の研究者でもある澤柳は「第一義」のもとの言葉、「聖諦第一義」の意味で第一義を使っていたというのが、私の解釈である。<仏教における四つの聖なる真理を最高のみちすじとする>という教えに従い、日々生きるというのが自筆のこの文字を見たときに、彼に去来した思いであろう。もちろんこの言葉を、学園の講堂に掲げ、必ずしも敬虔な仏教徒でない人々に見せた時、元来の仏教における意味合いが伝わらず、各々(おのおの)の第一義を探しなさい、と言った意味に変わってしまう側面はある。しかしここで伝えたいのは、澤柳自身が自宅の一室にこの言葉を掲げていた時のもともとの意味は、仏教における四つの聖なる真理を最高のみちすじとして日々の生活を律することではないか。そもそも自身の心への呼びかけとして自宅に掲げていたもので、澤柳自身は、それを学園の標語とは考えていなかった。
ではそれを今、仰ぎ見る学園の生徒・学生はどのような教えとして受け止めるべきか。澤柳の意図に即するなら、日々の生活を、正しく律しなさいということではないか。すなわち正見、正思(正しい決意)、正語、正業、正命(正しい生活)、正精進、正念(正しい心の状態)、正定(正しく精神が定まっていること)の八正道である。また十善戒とは(以下口語で述べる)、生命を等しく尊重し、他人の物を奪わず、男女の道を守り、噓をつかない、軽はずみな発言をせず、悪口を言わず、思いやりある言葉で話し、欲に溺れず、怒ることなく、誤った考えをもたない、の以上である。
もちろん、現代人が澤柳の考えを離れて、これを学園の精神を示したものだと、いろいろの議論をすることは自由である。しかしもともとの澤柳の「所求第一義」は、誰か他人に見せるための書ではなく、仏教徒として、生活を律することを考え、そのことを自身に宣言する書であったと、私は考える。
Revised in January 19, 2014 livedoor blogより2023/02/13複製転載
加筆修正 2023年9月16日