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馬寅初 (马寅初 Ma Yinchu 1882-1982) 維基

中国の経済学者 馬寅初(マー・インチュ 1882-1982)について 成城大学社会イノベーション研究 12(1) Feb.2017 273-298 
(誤植訂正 p.285 14行目 財政経済委員会主任は薄一波であった → 財政経済委員会主任も陳雲であった)

维基) Wikipedea(汉语版)より
马寅初(マー・インチュ) 1882年6月24日-1982年5月10日 名元善、字寅初(受けた名は元善ユアンシャンであるが、寅初と名乗った)。浙江省赵兴府嵊州县(チャオシンフ シェンチョウシエン)の人。中華民国と中華人民共和国の経済学者、教育家、人口学者。马寅初の出身は士族大商人で、曾祖父の父親(高祖)と曾祖父(曾祖)は紹興酒業の大物(巨头)で富商。ともに太学生(明朝時代の最高学府)を経ており、曾祖父の官位は从九品であった。祖父の兄弟は20人、父の兄弟は15人を数え、その多くは醸造業(酿酒)から科挙に転じた。

米国留学と北京大学での教職

17歳(1898年)のとき、马寅初は嵊州县(シェンチョウシエン)の学校を卒業して、上海の教会学校である中西書院で学んだ。1904年に卒業後、天津に行き北洋大学堂(今日の天津大学の前身)で冶金学を特待生として学んだ。北洋大学堂在学中の1907年に北洋大学から米国留学に派遣された。当時の中国国内の冶金技術水準がはなはだ低く、冶金学を学んでも将来役に立つことは少ないことから、エール大学で経済学を専攻した。1910年に学士号を取得後、コロンビア大学大学院に入学した。1914年に経済学と哲学の2つの博士号を取得した。卒業論文〔学位論文?〕「ニューヨーク市の財政」は学術的に評価が高く、コロンビア大学の本科1年次の学生教材に採用された。

(そもそも冶金学を学んだのは、工業が国を救うという思いがあり、石炭を採掘、鋼鉄をつくることで国家の富強を図れると考えたとされる。なお1911年辛亥革命が起きたのはコロンビア大学に移った直後で、官費留学生であったほかの留学生の中には帰国あるいは転身したものもあったが、马寅初は学業を途中であきらめることを潔しとしなかった。アルバイトをして生活を維持して、研究に励んだ。また研究テーマとして、指導教授の知識が乏しい中国問題ではなくニューヨーク市の財政という留学生に不利なテーマを選択したところにも、彼の志の高さが表れている。寅初的故事 pp.13-16)

(马寅初は国費留学であったがもともとエール大学の費用を賄うだけのものだったので、コロンビアでの学費は当初の予定を超過するものだった。天津税関総領事の梁敦彦がその税収から支出することになっていた。马寅初は天津税関に再申請をしたものの、その給付は細く減り気味だった。梁敦彦が天津税関を離れると、马寅初は学費を絶たれ、アルバイトに追われることになった。同前 pp.14-15)

帰国後の1915年9月、北京大学校長蔡元培(ツアイ・ユアンペイ)の招請に応じて、马寅初は北京大学経済学教授に就任した。1917年には、北京大学経済研究所主任となった。当時、马寅初は、ロシアの10月革命支持を公開し、(1920年に陳独秀と中国共産党を創設する)李大釗(リ・ダーチャオ 1917年北京大学教授に就任)と友人になった。1918年10月、大学評議員になった。1919年北京大学教務長に選出された。1919年の五四運動では、马寅初は学生を同情かつ支持し、当局が学生を逮捕すると、交渉して学生を釈放させた。1920年、马寅初は上海方面に活動に転じて、東南大学商学院(今日の上海財経大学)を設立した。1921年北京に戻り、北京大学経済学会会長に選出された。1923年に、马寅初を社長とする中国経済学社が創立され、雑誌「経済学専刊」の刊行を始めた。

(马寅初が二人の奥さんと仲良く暮らしたのは有名なお話しである。一人目の奥さんとは1900年の冬に帰郷したときに結婚。1年後に男の子が生まれるが夭折してしまう。その後1904年そして1908年と女の子が生まれた。しかし1907年から10年近く、彼はアメリカに単身留学してしまう。そして留学から戻った36歳のところで、男の子が必要というので父母の勧めで22歳年下の二人目の奥さんをもらう。その結果、彼は二人の息子、五人の女の子に恵まれている。寅初的故事 pp.31-32)

(1919年に教務長であった马寅初は、学生の愛国運動を硬く支持した。(そして)当局が学生の愛国運動を鎮圧したことにこの上なく憤慨した。彼はほかの教授とともに教育部に請願にゆき、もし学生が解放されず、蔡元培校長が学校に帰らなければ、马寅初が引き連れる北京大教員は「総辞職する」と迫った。寅初的故事 p.37邓加荣 p.26)

国民政府時代の活動

1927年3月、北京政府の張作霖(チャン・ツオリン)は北京大学を封鎖。蔡元培は国民政府に身を投じて(投奔)杭州に至り、浙江臨時政治会議委員兼代理主席に任ぜられた。蔡元培は北京大学教授の马寅初、蒋梦麟(チアン・メンリン 蒋介石の命を受けて1930-45の間、北京大学校長を務めた)などを浙江省建設に招聘した。马寅初は麻薬禁止(禁煙)委員会委員となりアヘン取締活動に従事し合わせて農民銀行の創設を準備した。間もなく張静江(チャン・チンチアン 江南の大富豪で孙中山そして蒋介石を経済的に支援した 反共という点で蒋介石と近い)が浙江省政府委員に任ぜられると、蔡元培、马寅初など北京大学教授は浙江省政府から締め出された。马寅初は、杭州財務学校で教えたほか、上海浙江興業銀行の検査役(总稽核)を務めた。

(参考 1927年3月24日 北伐軍が南京に入城したとき、各国の公使館などが暴徒に襲われる事件が発生した。日本の公使館でも多数の婦女子が凌辱を受けるなどの被害を受けた。この南京事件に対して日本をはじめとする列強7ケ国は激しく抗議した。事件に関してはソ連の関与が疑われていた。これを受けて4月6日 北京で張作霖がソ連大使館の捜索を実施し、ソ連の指示を裏付ける文書が発見されたとして公表した。他方、ソ連は大使館捜索を不当として中国との国交を4月9日断絶する。4月12日 上海で蒋介石は反共クーデターを起こして(4.12事件)、共産主義者弾圧に乗り出す。4月28日 張作霖は捕らえていた李大をソ連に内通していたとして絞首刑に処している・・・日本語のwikipedeaの南京事件などの記載による)

1928年10月 马寅初は立法院立法委員となり、翌1929年に立法院経済委員会委員長と財政委員会委員長にそれぞれ選出される(当選)。また南京国立中央大学、金陵大学、上海国立交通大学の経済学教授を兼任する。1931年九一八事変(張作霖が爆殺された満洲事変のこと 爆殺は関東軍による陰謀説が有力)勃発後、马寅初は「長期抵抗の準備」と題した一文を発表して、蒋介石(チアン・チエスー)の不抵抗政策、安内攘外(アンネイランワイ)(蒋中正つまり蒋介石が、九一八事変前の7月23日に示した方針で、国家の統一をまず行ったあと、国家主権を犯す外国を排斥するとした)政策を批判した。1934年の物価の大混乱と対外金融政策の不当について、马寅初は立法院会議で財務部長、孔祥熙(コン・シアンシー)を激しく非難した。

国民政府批判

1939年に抗日戦争が勃発したあと、马寅初は重慶大学の教授と商学院院長を任ぜられた。彼は抗日のため様々な評論を発表した。同時に彼は四大家族(蒋中正、宋嘉澍、孔祥熙、陈其美のそれぞれの家族のこと)を筆頭とする腐敗高官に対する憤怒を抑えることができず、高官に対する〔臨時財産税〕徴収を提案するとともに、高官の腐敗を公開し批判した。このため中国国民党への猛烈な批判(谴责)が生じたので、当局は1941年12月马寅初を逮捕し、貴州息峰集中営そして江西上饶集中営に拘禁した。しかしこのことが明らかになると、中国国民党は世論にさらに激しく攻撃されたので、1942年8月当局は马寅初を釈放せざるを得なくなった。このあと马寅初は当局の監視下に重慶の歌乐山に軟禁された。言論活動を制限を受けたが、その間に「経済学概論」「通貨新論」などの専門書を刊行した。1944年12月国民参政会の宣言が発表され、马寅初は再び言論の自由を獲得した。このあと、反蒋介石、反国民党の傾向は日増しに強烈になった。1946年7月、中華職業教育社の黄炎培(ホアン・ヤンペイ)の招きに応じて中華工商専科学校の経済学教授に就任した。1948年末、马寅初は中国国民党の弾圧を逃れて、中国共産党の庇護のもと華北解放区に移った。 

(马寅初は、1940年12月6日早朝 重慶大学の宿舎から国民党官憲により連れ出される。2日後の8日午後 事務手続きのため马寅初は官憲とともに大学に戻ってくる。このとき重慶大学の学生と別れの記念にとった記念写真が残っている。実際には集中営とよばれる牢に放り込んだのだが、12月13日、国民党は戦争地区の経済状況視察に马寅初が派遣されたと「嘘」を発表する。その後、再三の禁止令の中、1941年3月22日 马寅初の生誕60年を祝う会が学生主催で重慶大学で実施されている。また同様に重慶大学の学生たちの手で「寅初亭」と呼ばれる庵が、建築された。いずれも马寅初が学生に慕われていたことと、彼が抵抗のシンボルになっていたことをよく示している。寅初的故事pp.99-108)

新人口論

1949年8月马寅初は浙江大学校長に任命された。9月に中国人民政治協商会議第一次全体会議に出席。中国人民政府委員、財政経済委員会副主任、華東軍政委員会副主席に任命された。1951年5月に北京大学校長を任命された。その後、第一期第二期の全国人民代表大会委員、第一期から第五期までの中国人民協商会議全国委員(うち二、四、五期では常務委員)を歴任した。中華人民共和国初期、马寅初は、物価安定、通貨膨張方面で貢献があった。

1935年12月にスターリンはソ連で毎年約300万の人口純増があることを「これは良い現象で我々はこれを歓迎する」と述べた。1953年ソ連国家政治書籍出版局は、ホホフの『現代マルサス学説は帝国主義であり、人類敵視の思想である』という書物を出版した。中華人民共和国初期、毛沢東は人口計画(计划生育)に反対を表明した。1952年に人民日報は「人口制限(限制生育)は中国を滅亡させる」という社説を発表した。(他方で)1952年12月政務院文教委員会は、衛生部の「人口抑制(限制节育)と人口流産の暫定的取り決め(暫行办法)」を批准した。1953年11月衛生部は「経口避妊薬と避妊用具の通関禁止」を通知した。1953年11月1日国家統計局は第一次人口調査結果公報を発表した。全国人口総数は6億を超え、人口成長率は1000分の20(2%)だとした。1954年12月27日劉少奇は中央第一次人口と計画生育座談会を主催し、講話のなかで「現在、党が人口抑制(节育)に賛成であることは認める(肯定)必要がある」とした。1955年3月1日中共中央は衛生部党組織の報告に対し「人口統制(控制人口)問題についての意見」を発出し、「節度ある扶養(节养生育)は広範な人民生活の重大な政策問題であり、我が党は人口抑制(节育)に賛成である」と述べた。1956年に毛沢東は自ら「全国農業発展綱要」を定め計画にしたがった扶養(計画地生育)を提唱した。同年(1956年)開催された中共八期大会は、関連する決議でこの観点(視点)を示し、「扶養(生育)方面では適切な統制を加える」との文字をまず国民経済発展計画5ケ年計画に入れることにした。1957年10月毛沢東は中共八期大会第三次中央委員会全体会議で逐次計画生育を実現すると(なお)述べている。

1955年马寅初は全国人代(全国人民代表者大会)第一期二次会議の浙江省グループ会議で計画生育実行の必要性を表明したが、賛成者が極めて少なかったので、時機ではないと考え、発言稿を自ら回収した。马寅初は1920年代から各種の報道の中で、中国の人口増加に対して憂慮を示してきた。1954年から1955年にかけて马寅初は浙江省で3度にわたり実地調査を行い、理論構築の準備を進めた。1957年2月最高国務会議において、马寅初は計画生育政策を提案し、多数の賛成を得た。同年(1957年)6月全国人代第一期四次会議で马寅初は新人口論についての書面発言を行い、正式に計画生育を提案した。7月5日には人民日報に「新人口論」が発表された。

批判に遭遇

1957年6月8日 人民日報はこれは何のためか(这是为什么)と題した社説を発表した。このあと中共指導部の整風運動は反右(右傾批判)に転じる。1957年11月11日光明日報(第二次大戦後 中国民主同盟により創刊された新聞で知識人相手の編集方針で知られた)社務委員会、民主党派の人々と马寅初ら無党派の人々とを招いて会議を開き、右派分子章伯钧(チャン・ポーチュン)を社長から、右派分子储安平(チュー・アンピン)を副社長・編集から、それぞれ解職し、社長に杨明轩、副社長・編集に陈此生を充てる人事を決定している(章伯钧と储安平とはいずれも民主的な発言で知られる。このときの右派闘争の犠牲者は全国で55万人とされる。改革開放後1981年まで行われた名誉回復=平反でなお右派であるとして中央で5人、地方で90余人が名誉回復から漏れたがこの二人はその中央の5人に含まれる。こうした人々のことを未获改正的右派:ウェイフオガイチョンダヨウパイとよぶ。章伯钧は中国民主同盟の創建人の一人。いずれも文化大革命で迫害を受け、章伯钧は胃がんのため病院で死去。储安平は安否不明だが殺害された可能性が高い。この光明日報の事件は中国で言論の自由が失われて行く明らかな兆候の一つといえる)。

(当時)马寅初とその人口論はまだ中央層の批判に会っていなかった。1957年から1959年の間に人民日報は马寅初の文章に言及あるいは批評した3編の記事を掲載した。1957年10月4日の人民日報は李晋(リー・チン)の署名で「右派が人口問題を利用して政治陰謀を進めることを許さない」と題する記事を、(また)1958年6月6日には权种(チュアン・チョン)の署名で「我が国の人口と就業問題」を、1959年4月15日には若水(ルオ・シュイ)の署名で「人口と人手」を発表した。これらの中で权种の「我が国の人口と就業問題」は马寅初の名前を挙げたが、ほかの2編は直接名前を挙げていない。また3編の批判の重点は马寅初ではなかった。

1958年に中華人民共和国は民主党派整風と高校「双反」運動を展開した。1958年1月に马寅初の「我が経済理論 哲学思想と政治立場」と題した一書が出版された。そのあと「計画経済」誌が马寅初の経済理論へのコメント(商権的文章)を発表、「経済研究」「教学と研究」が同様にコメントを発表した。1958年4月19日に、民主党派が共同で編集する「光明日報」が、全国の「双反」運動の形式を反映させる形で、また北京大学の壁新聞から自ら選んだ形で、韓佳辰の「あわててまとめたもの(团团转)は唯物弁証法ではない 马寅初著「私の経済理論、哲学思想と政治立場」を評す」と中国革命史教研室の周家本、強重华の「马寅初の「新人口論」を評す」とを掲載したことは、马寅初を公開の文章で批判する序幕であった。5月9日光明日報は马寅初の「私の「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」を掲載、ここで马寅初は弁明を行っている。このあと「光明日報」は马寅初の文章を事細かく批判したものを掲載した。6月1日に「光明日報」は学術動態で「これは無産階級の思想かあるいは資産階級の思想か?学術界は马寅初の著作で議論を展開」と題した論稿を発表した。6月6日「人民日報」に発表された权仲の「我が国人口と就業問題」が马寅初の名前を挙げてから、「光明日報」は马寅初を批判する文章の掲載を加速させた。11月29日「光明日報」が「資産階級の学術思想を徹底批判する」との標題のもとで「北京大学経済系の马寅初の経済思想批判小組」の3編の批判文章を掲載。このあと「光明日報」はしばらく马寅初批判を停止する。1958年11月までに「光明日報」は37篇の马寅初を批判する文章を発表した。そのほかの中国新聞雑誌(新聞が2紙、学報・学術定期刊行物が10誌)で公開された马寅初を批判する文章は30篇で、合計は67篇であった。これらの批判は、马寅初の新人口論は、マルサスの人口論を源とし、社会主義の優越性に疑問をさしはさむもので、人民大衆を蔑視している、などなどの指摘を行っている。

1959年に马寅初はなお正常に各種の国事活動に参加した。3月12日、第二期全国人大代表に継続当選した。4月12日に、第三期全国政協委員に当選した。4月27日には第二期全国人大常委会委員に当選した。5月2日には、中ソ友好協会副会長として中ソ友好協会第三次全国代表会議に参加、併せて新一期理事に当選した。5月3日、马寅初は首都記念五四40周年記念活動に参加し、主席台の前に着席した。9月15日に马寅初は毛主席が招請した各民主党派団体代表者会議に参加した。9月28日、马寅初は中華人民共和国建国10周年慶祝大会において、毛沢東、劉少奇ら党と国家の指導者とともに主席台に着席した。

1959年末までに「新建設」「経済研究」「厦門大学学報」が各1篇の马寅初批判の文章を掲載したのみであった。1959年3月に马寅初は「北京大学学報」第1期に対して「光明日報」に4日にわたり連載した「「平衡論」中の团团转理論を再び論じる」の全文掲載を求めた。「新建設」の1959年11月号と「北京大学学報」第五期は马寅初が書いた「私の哲学思想と経済理論」を同時に発表した。このあと「光明日報」は1960年1月から、「新建設」は1959年12月号から連続して批判文章の発表を始めた。1959年12月19日、「新建設」雑誌は中共北京大学党委(陸平任党委第一書記)に書簡を送った。中には马寅初が「新建設」1960年1月号上に発表を求めた「重申我的請求」があり、「新建設」雑誌は中共北京大学党委員会この手紙を寄せて、審査(审看)を求めている。12月24日、北京大学人口問題研究会は学術講演会を挙行し、马寅初の人口論を批判した。1960年1月までに北京大学毛沢東経済思想学習研究会、北京大学毛沢東哲学思想学習会、北京大学人口問題研究会は、马寅初批判の高潮を盛り上げた。1960年1月11日、この3つの学習会は連合して「马寅初経済理論哲学思想と政治立場討論会」を開き、会議では一部の教員の発言のほか、大学の秘書である韩苹卿(ハン・ピンチン)が马寅初が巨額の株券を保有していることや、马寅初が土地改革に反対であったこと,さらに罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)、章乃器(チャン・ナイチー)ら右派分子への同情を暴露した。韩苹卿の暴露は、参加者を刺激し、马寅初は集団攻撃(围攻)を受けた。1月12日马寅初の血圧は190に上昇し、入院治療となった。1月13日に「北京大学校刊」は上記の3つの学習会による马寅初連合批判会議の模様を報道し、陸岱荪ら会議上の批判発言をも伝えた。この後北京大学で马寅初の消息が伝えられることはなかった。1960年「新建設」は1月号で马寅初の「重申我的請求」を発表、「200余りの諸氏が発表された意見は大同小異で、新たなものは大変少ないが、でも学ぼう」。1960年1月马寅初は北京大学校長の職務に辞表を出した。3月28日国務院は马寅初の北京大学校長辞職を認めることを決定した。

(马寅初事件(7) 在 梁中堂博客linagzhongtang.blog.163com 2011/12/05によると、この1月11日の会合は反論の機会を求めた马寅初の求めに応じて設定されたもので、马寅初も出席した200人ほどの集まりだった。韩苹卿は、马寅初が、商務印書館の株を68000元、上海闸北火力発電与自来水公司の株を20000余元保有し、家賃収入が160余元あったことを暴露。また馬家の土地は買ったものなのになぜ補償されないのかと、土地改革に不満を表明したこと、当時、毛沢東から名指しで批判を受けていた、罗隆基(ルオ・ロンチー)や章伯钧(チャン・ポーチュン)を民主党派の優秀な人材として擁護、章乃器(チャン・ナイチー)についても高名な経済学者だと述べ,定息(商工業者の資産に固定利率を支払う政策)を止めることに反対した章乃器の主張を正しいとしていたことを暴露した。马寅初は、これらの点で反論できなかった。) 

(このとき马寅初が残した言葉。「人口問題は中国にとり最大級の問題の一つもし統制しなければ、もし盲目の発展に任せるなら、将来我が国の国家と党に大きな困難を必ずもたらす。…私はすでにこれを研究してこれを解決する方法を見つけている。私には説明する責任があり、それ(わたしの人口理論)を徹底して堅持する。このことで私は孤立をおそれない、批判闘争を恐れない、この問題で私はただ国家と真理のことを考え、自分のことは考えない。冷水をかけられることも煮えたぎる油をかけられることを恐れない。職を失うことも牢に入れられることも、いわんや死ぬことも恐れない。・・・どのような状況になろうと私の人口理論を堅持する」)

(罗隆基1896-1965は米英に長い留学経験をもつ。帰国のあと主として天津にあって抗日の立場で論陣を張り、新中国では民主陣営から参画した。しかし1957年の反右派闘争で失脚する。1965年に病没している。)

(章伯钧1895-1969はドイツへの留学経験がある。新中国では交通部部長 1957年の右派闘争で失脚。すでに見たように光明日報社長を追われている。罗隆基と同じく1980年の見直しでもなお名誉を回復されず右派とされた人物の一人。)

(章乃器1897-1977は国民党出身の政治家で新中国で糧食部長1952-57を担った。しかし反右派闘争で失脚。文化大革命では残酷な取り扱いを受けた。1966年に紅衛兵により捕縛されたうえ、大けがを負わされ、夫人は殺害され、全財産を没収された。1977年に病院の地下室で亡くなっている。1980年に名誉を回復された。)

このあと马寅初の政治と生活待遇に変化は生じなかった。第二期全国人大常務委員などの職務を行った。1962年1月马寅初は、浙江嵊县視察を行った。肺炎を患い、このあとは健康を損ね二本足の行動は不便になった。1965年马寅初一筋の腿が瘫痪にかかった。1964年から1965年初め、2つの会が招集された。马寅初が全国人代常務委員、あらためて全国政経常務委員に改めて任ぜられた。8月7日に周恩来主催で帰国した李宗仁(リ・ツオンレン)を歓迎する茶話会が開かれ、马寅初は出席を要請された。同年孙中山生誕100年記念委員会が設けられ、劉少奇が主任となり、马寅初らが委員となった。

 李宗仁(1890-1969)は国民党の軍人。国民党の中で蒋介石と長年対立した。日本軍とよく対抗したことで知られる。1938年3月―4月 台児荘の戦いで日本軍に勝利したことは中国国民を鼓舞したとされる。第二次大戦後、蒋介石が国共内戦戦局不利の責任をとり下野すると一時、総統を務めた。和平交渉を進めたが、党内の合意を取るにいたらず、台湾にはゆかずにアメリカで形勢を見守った。1965年7月、妻の末期がんが判明し帰国。中国政府の歓迎を受けた。

(文化大革命中の马寅初の悲劇と知られるのは彼が、1960年以降、心血を注いで書き上げていた大著「農書」が家人によって焼却されたことだ。この家人は家族かと私は考えたが邓加荣は服務員だという。・・・文化大革命が始まった時、その紙巻はおおきな引出:柜一杯になり、百万字以上の農書となっていた。残念なことにこの農書の草稿は、文化大革命の期間に家の服務員:家中服务员により、半ば臆病から、半ば盲従精神に支配されて、马の手紙、メモなどすべての文物や送られた書画とともに、四旧とみなされ焼き払われた。邓加荣 p.304) 
 怒涛のように沸き上がった革命の潮流に最初に晒されたのは。「破四旧」(古い思想、文化、風俗、習慣の破壊)と紅衛兵と呼ばれるものだった。全国各地では、古き封建時代の象徴である伝統的建築物や仏像が破壊され、芸術的価値の高い書画や骨とう品なども燃やし尽くされた。王曙光 p.183 
文化大革命の間、马寅初は基本として攻撃(冲击 チョンチー)を受けなかった。1972年に直腸癌のため、周恩来首相の指示で天津市人民医院院長で反動学術権威である金显宅(チン・シエンチャイ)が率いる医療小組により90歳の马寅初は直腸がんの切除手術を受けた。手術後、马寅初の下半身はすべて麻痺(瘫痪(タンホアン))した。1976年周恩来がこの世を去ると、马寅初は病院を訪問して遺体に告別した。1977年5月1日、马寅初は中共中央主席、国務院総理、中央軍事委員会主席の華国鋒が出席した游园活動に参加した。これは文化大革命が終わったあと、最初の社会各界の主な人を集めた重大な活動だった。1978年初め、小平が三度政権に復帰し、第五期全国政治協商会議主席になると、马寅初は全国政治協商会議常任委員となり、同大会の執行主席の一人となった。

马寅初の人口理論への批判については、中国人口は増加を続けた。虚偽やウソで作られた案件(冤假错案)の名誉回復を主管する中央組織部長の胡耀邦は、马寅初の材料を審査閲覧したあとで「あのとき毛主席が马寅初のこの話を受け入れていれば、中国の今日の人口が10億を突破することはなかったのではないか。一人を誤って批判し、数億人が増加した。我々は再びこのような誤りをしてはならない。共産党はここに誓う「再び科学者と知識分子を苦しませることはない(再也不准整科学家和知识分子了!)」と述べた。

晩年

文化大革命後、1978年12月に召集された中共十一期第三次中央全体会議、このあと马寅初の新人口論は再評価を獲得する。1979年7月中旬の一日、中共中央統戦部副部長の李貴は北京東総布胡同32号の马寅初家を訪れ、次のように述べた。「今日党の委託を受けて馬先生に以下のように通知します。1958年以前そして1959年末以降のこの2回にわたるあなたへの批判は誤っていました。実践が証明していますが、あなたの生育を抑制する新人口論は正確でした。組織上、あなたに対して犯された誤りを徹底して正し、名誉を回復します。馬先生が晩年を元気かつ愉快にすごされることを希望し、さらに健康と長寿をお祈りします。」马寅初は答えて言った。「とても嬉しい」「20年余り前中国の人口は多いとはいえなかった、現在ではあまりに多すぎる。生産を迅速に発展させる必要がある!」この会見の模様は1979年7月25日に新華社が報道し、7月26日の「人民日報」に掲載された。1979円9月11日、中共中央は、中共北京大学党委員会の1979年7月23日付け「马寅初先生の平反に関する決定」に文書で回答した、「中央は北京大学党委員会の马寅初先生の平反に関する報告と決定に同意する」

(马寅初の名誉回復の経緯について邓加荣は以下のようにまとめる。1979年2月4日上海冶金研究所の相徳欽が中央に対し、马寅初が最も早く人口の抑制を主張した貢献を指摘し、马寅初の扱いに見直しを訴えてまもなく、この手紙が一人の中央指導者により宋任穷に回す指示がつけられた。宋任穷は当時 組織部長で幹部の名誉回復:平反の責任者。6月21日には陈云とさらに胡耀邦も相次いで马寅初の平反を指示した。7月16日の李貴の馬家訪問、直接の伝達はこれを受けたもの。9月11日の決定で覆されたのは、1958年と59年の2度にわたる马寅初に対する大規模な批判と、马寅初に北京大学からの辞職を迫ったことの2点で、これらは覆されねばならない(予以推倒)。邓加荣pp.314-315)

 1979年9月马寅初は北京大学名誉校長に任命された。1981年2月中国人口学会が設立され、马寅初は名誉会長に推挙された。

1982年5月10日马寅初は病気のため北京で亡くなった。享年101歳(満99歳)だった。

 2016-03-28 試訳(2018-06-06更新)

 马寅初 百度百科

 马寅初 参考文献

 現代中国研究

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