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陳雲 (陈云 Chen Yun 1905-1995) 百度百科ほか

鳥籠理論そして陳雲(チェン・ユン 1905-1995)について 成城大学経済研究214号 Dec.2016   37-72

百度百科 陈云(チェン・ユン 1905年6月13日ー1995年4月10日) 偉大な無産階級革命家、政治家。傑出した(杰出)マルクス主義者。中国社会主義経済建設を創始した人であり指導者(奠基人)の一人。党と国家の長い経験と考察を経た卓越した指導者。毛沢東同志の核心的党の中央指導体制第一世代であり、鄧小平同志の核心的党の第二世代中央指導集団の重要メムバー。
 陈云同志は1930年代初めから党中央の指導工作を担当し、我々の党が人民をして革命、建設、改革の各歴史時期のおよそあらゆる重大事件を経験し、党中央にあって、さまざまな歴史時期の一連の重大な政策の決定と実施に参加し、何度も党と人民の事業発展の肝心なときに、党と国家の政策が十分重要な作用を発揮させた。陈云同志は中国人民解放事業の発展と成功のため、我が国社会主義制度の建設と確立のため、改革開放と社会主義現代化事業の開発と発展のため、全力で貢献し不朽の功績を打ち建てた。国内外で尊敬と威信は高く、全党全軍全国各民族人民の尊敬と愛を深く受けている。
 注1:叶永烈は、陳雲について書かれたものが少ないのは、彼が自分を宣伝することを好まず、陳雲を扱った画集、テレビ劇などを生前断っていたことが背景にあると指摘する。鄧小平に対しても常に自分は鄧小平の下にあることを強調した。陳雲は工員(労働者)出身であり、それゆえに中共領導層の出身が問題になったときも、あるいは文革のときも比較的平穏に暮らすことができた。彼の座右銘は「不唯上,不唯书,只唯实。交换,比较,反复。」。不唯上は権威を絶対としない意味、不唯书は書物を絶対とない意味、只唯实は現実あるいは本当の真理だけに基づくという意味だろう。そのあとの3語は真理あるいは現実に至る方法で、意見の交換、比較、検証の繰り返しを指す。 叶永烈,他影响了中国 陈云全传,四川人民出版社 华夏出版社 联合出版,2013,序。p.92参照

 家族関係 陈伟力(長女)陈伟华(次女)陈元(長男) 陈伟兰(三女) 陈方(次男) 孫:陈晓丹(陈元の子)陈小欣(同左)
陈云 国籍:中華人民共和国 民族:漢族 出生地:上海 出生日:1905年 逝去(逝世)日:1995年4月10日 職業:革命家、政治家 信仰:共産主義

人物生平
早年革命

 陈云は偉大なマルクス主義者で、無産階級革命家で、政治家。中国共産党と中華人民共和国の主要指導者の一人。中国社会主義経済の建設開創者にして基礎をなした人(奠基人)の一人。江蘇青浦(現在は上海に属する)人。1905年6月13日貧しい(貧苦)農民家庭に生まれる。二歳のとき父(陈梅堂)、4歳の時に母(廖顺妹),をなくす。裁縫を生業とする叔父(廖文光)により養われた。1919年高等小学科卒業後、貧しさ故に進学できず、上海商務印書館で学徒となり、のちに店員になった。1925年に五卅運動に参加。同年8月商務印書館発行所ストライキ委員会(のちの職工会)委員長となる。商務印書館大ストライキに参加、勝利を勝ち取った。すぐに中国共産党に参加、労工組織者として共産党の活動に従事し始めた。中共青浦县委員会書記、淞浦特別委員会組織部長、中共江蘇省委員会沪宁巡視員、江蘇省委員会常任委員兼委員会書記、中共上海闸北,法南区委員会書記かつ江蘇省委員会組織部部長、省委員会書記などの職を歴任した。
 注2:(幼くして両親を亡くした陳雲とその姉を養ったのは母方の祖母:外祖母であるが、この祖母も間もなくなくなり、陳雲は母方の叔父:舅父夫婦に養われることになる。その生活は苦しく小さな飲み屋を始めた。7歳のときに陳雲は小学校に入学したものの学校をあきらめざるを得なくなった。このとき飲み屋の客の顔安国民小学校長の杜衡伯は聡明な陳雲の学業が失われたことを惜しみ、無料での入学を認めた。陳雲はこの支援を忘れたことはなかった。1919年に陳雲はこの小学校を14歳で卒業したが、中学校にすすむことは金銭的にできず、小学校の時の教師張行恭の弟が務める上海商務印書館の見習い(学徒)の仕事を紹介され、上海に出ることになった。ここに共産党の党員が何人かいたことから、印書館は中国共産党の重要な基地になる。そして陳雲は1925年上半期に入党。6月下旬には印書館工会(労働組合)の設立の中心メムバーの一人になる。8月には工会はストライキを行い、成功裏にストが収束させる。しかし9月末に陳雲は上海を離れて故郷に戻らざるを得なくなる。四一二政変のあと、共産党員が虐殺されることがあったこともあり名前がでていた陳雲は逮捕されるおそれがあった。共産党の指示で農村に入り、農民運動を組織することになった。1928年1月には農民革命軍が組織され、米を奪って分配するなどの行為を行った。地主たちも武装して自衛団を作りさらに省政府に報告。省政府から国民革命軍に救援を求めた。そうした状況下で農民革命軍の正副指揮官がつかまり、26日に銃殺された。陳雲も危険になり、28年9月に遂に故郷の地を離れたとされる。・・・叶永烈,他影响了中国, 第1章)
 1930年と1931年、前後して中共六期第三次中央委員会全体会議、四次中央委員会全体会議で中央候補委員、中央委員に当選した。1931年5月に中共中央機関安全的中央特科書記に任ぜられ、9月には臨時中央領導メムバーとなった。1932年に臨時中央常任委員、全国総工会党団書記になった。1933年に中央革命根拠地に入った。1934年中共6期第六次中央委員会全体会議で中央政治局委員、常任委員に当選し、白区工作部部長を兼任した。のちに長征に参加、全軍後衛任務の赤5軍団において中央代表となった。のちに軍事委員会纵队政治委員。1935年1月貴州で開かれた中共中央政治局会議(遵義会議)で毛沢東の正しい主張を支持した。
 注3:まだ25歳であった陳雲が1930年の中共六届三中会で候補中央委員に当選した背景にはコミンテルン(共産国際)の意向が働いている。当初コミンテルンは知識分子が外国語を理解し、マルクス主義の原書を読めることから、陳独秀のような知識分子を中国共産党の指導者として期待したが、陳独秀は右傾機会主義の過ちを犯し:陳独秀はコミンテルンの指示もあって国共合作を進め孫文が亡くなったあとも汪兆銘と組んで国共合作の延命をはかったとされる、続く知識分子の瞿秋白は左傾機会主義の誤りを犯したとされる:彼が最高指導者であったときに、起こされた武装蜂起が失敗したことを指している。こうした経験から、1928年6月モスクワで行われた中共六回大会は総書記に労働者出身の向忠発を当選させた。このように指導部の出身階層を問題にする雰囲気のなかで、陳雲は中央指導部にはいったとされる。そして翌年1931年には六届四中全会で中央委員に選出される。しかしこの1931年に重大な事件がおきる。六届四中全会で中央政治局候補委員に昇格した顾顺章が逮捕された(4月25日)。彼は労働者出身で組織と幹部の安全を保つための共産党内の組織の責任者で、党内の機密を良く知っていた。問題はその顾顺章がたちまち寝返った(叛变)ことであった。一部の幹部は直ちに上海を離れるが、結局6月22日 武漢で総書記の向忠発が逮捕される。この労働者上がりの総書記は、信じられないことだが すぐに寝返り多くの秘密を事細かくしゃべり新たな逮捕者につながるのである。多くの秘密を漏洩した向忠発は逮捕3日後の24日に処刑されたとされている。総書記のポストをねらっていた王明は1931年10月にモスクワに逃げたとされる 上海に残った幹部として陳雲と康生がおり このときから康生は防衛工作の責任者 陳雲は総務を担当し1932年3月には27歳で中共臨時中央常任委員になっている・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第2章)
 注4:このあと1932年10月に上海共青団の中央期間が国民党特務機関の捜索を受けた。そして逮捕された共青団書記の袁炳辉がやはり寝返った。コミンテルンの了解を得て中共臨時中央の博古、張聞天、陳雲の3人は江西に向かうことになった(1933年1月)。江西に入った陳雲は。瑞金にゆき、全国総工会の事務を劉少奇とともにとった。また1934年1月に瑞金で行われた中共六届五中全会では中央政治局委員に当選した。34年10月10日中央紅軍は西征を開始した。これはのちに長征にかわった。第五軍団における中央代表として第五軍団とともに江西を出発し長征にむかった。・・・・・・叶永烈,他影响了中国, 第3章)
 注5:さらに上海に再び向かい、そしてモスクワに至るのは遵義会議:1935年1月の内容を共産国際に報告することを毛沢東に頼まれたことによるのだがこれは危険でかつ重要な任務だった。まずソビエト区は敵に包囲され、言葉の違う四川を通る必要があった。そこで途中までは紅軍が護衛につき、その後は案内人となった地下党員の席懋昭とともに成都から重慶経由で上海に向かった。上海についたのは1935年6月末。上海では1936年11月に七君子事件の当事者の一人になる、浙江実業銀行副総経理の章乃器と連絡をとっている。かれは1957年の反右派闘争で右派分子として重点批判対象にされてしまうが、実は共産党との関係は密接で地下組織を支援していた。また孫文夫人の宋慶齢に密会して、ソ連への脱出の手助けを求めたとのこと。こうして陳雲は上海から貨客船でウラジオストックにむかい、あとはシベリア鉄道でモスクワに入ったとされる。上海をたったのは8月5日、モスクワには8月20日についている。そしてモスクワの共産国際執行委員会書記処会議:10月15日で遵義会議についての報告を行っている。もちろん内容は誰かがロシア語に翻訳したわけだが、そうだとしても中共中央と共産国際との連絡関係を回復し、毛沢東の主導権確立を認めさせた意味は大きい。このモスクワにいたとき、陳雲はレーニン学校と呼ばれる幹部学校で学ぶことができた。10月から学習をはじめ3月からは先生役を務めたというのは早すぎるとは思うが、彼が学生生活を楽しんだことは間違いないだろう。1936年12月にモスクワを立って帰国に向かうが西安事件の影響でアラムトにとどまらざるを得なくなる。1937年4月からは中共中央の新疆代表として新疆迪化に赴任している。その後1937年12月 迪化を経由したモスクワ発の飛行機に同乗し、王明、康生とともに延安に降り立ち帰国している。・・・叶永烈,他影响了中国, 第4章)なおソ連にいたときソ連の経済モデルを研究した。p.72 また英語を勉強して大意をつかめるまでになった。p.69
 注6:延安での生活で注目されるのは比較的落ち着いていたこの時期に陳雲は大量の読書を行い著述をおこなったということ、p.88以下 そして奥さんになる于若木と知り合い、1938年3月に結婚した。彼女のお父さんの于丹绂は中国から初めて日本に送られた留学生の一人。早稲田大学に留学して日本語に堪能。帰国後山東第一師範の校長を務めた。家族には学者になったものが多い。彼女はその3女である。・・・叶永烈,他影响了中国, 第5章)
抗日戦争
 (遵義)会議のあとで「遵義政治局拡大会議伝達提綱」を書いている(撰写)。同年6月四川省天全县灵关殿から秘密裏に長征の隊列を抜けて、成都、重慶を経て単身上海に至り、共産党秘密工作の回復に従事した。そのあとまた上海からモスクワに至り、共産国際執行委員会書記処で、中国工農赤軍(紅軍)の長征と遵義会議の状況について報告した。もっとも早期の赤軍の長征の宣伝である「西行隋軍見聞録」を書いた。中共駐共産国際代表団に参加した。1937年4月に新疆迪化(現在の乌鲁木齐)に戻り、中共中央の新疆代表に任命された。5月に新疆と甘粛の境目にある星星峡地区に赴き、赤軍西路軍の生き残り400人余りを接遇して迪化に入るのを支援した。11月に延安に戻ったあとは、中共中央組織部部長に任命され、党の建設と党の幹部工作に重要な貢献があった。延安の整風期間においては、マルクス主義哲学を学び、中国革命の経験教訓を総括し、領導する者は工作の指導において、上を絶対とせず、書を絶対とせず、ただ「実」を絶対とする科学的態度を取らなければならない、それを自身の行動の準則としなければならないとした。1944年3月には西北財経事務所(办事处)の副主任、政治部の主任に任命され、中共中央の陕甘宁边区の財政経済工作を主管した。経済を発展させ、供給を保障する方針を実現させた。1945年6月には七届一中全会で中央政治局委員に継続当選し、8月には中央書記処の候補書記に任ぜられた。
解放戦争
 抗日戦争勝利後、重要な戦略的意義のある東北解放戦争を参加領導した。北満と南満を転戦し、中共中央北満分局書記兼北満軍区政治委員、中共中央東北局副書記兼東北民主連合軍副政治委員、中共中央南満分局書記兼遼東軍区政治委員、東北軍区副政治委員、東北財政経済委員会主任、沈陽特別市軍事官制委員会主任などの職を歴任し、東北全体の全域の解放と東北経済の回復に突出した貢献を行った。1948年8月ハルビンで行われた第六次全国労働大会で「当面の中国職工運動の総任務」と題した報告を行い、10月には中華総工会主席に当選した。
新中国初期
 中華人民共和国成立後、中央人民政府委員、政務院副総理兼財政経済委員会主任に任命され、全国の財政経済工作を担当(主持)した。1950年10月中共中央書記処書記に任命された。全国財政経済の統一、金融物価の安定、国民党政権下の10年以上の長きにわたった悪性通貨膨張の収束、工商業の調整、国民経済の回復、抗米援朝戦争勝利の保障、糧食・綿花など主要農産品の統一購入統一消費(统购统销・・・購入・消費の政府統制)など重要な決定とその活動のなかで、生産資料の私有制に対して順序立てて進められたのは(再有步骤地开展)、私営工商業の社会主義改造であり、国民経済第一次五カ年計画の制定と実施において、中国社会主義工業化の基礎の开创性を固める工作中、彼は実際の状況から出発。一連の慎み深く(慎重で)現実的な方針と政策を提出実施して、多くの人が卓越した貢献をしたと考えることを行った。(他方で)彼は1953年に生じた陰謀・党の分裂活動では断固として、高岗と饶潄石raoshushiに反対した。1954年に国務院副総理に任命された。前後して商業部部長、国家基本建設委員会主任を兼任した。1956年9月、中共八大で「社会主義改造基本改造以後の新たな問題」という発言をおこなった(という意見を提出した。)。当時の中国の社会経済の実際状況にもとづき、ソ連経済モデルを突破する新たな経済体制構想を提出した。すなわち、国家経営と集団経営を工商業の主体とし、一定数量の個人経営を補充とする。生産領域では、計画生産が工農業生産の主体とし市場の変化に応じて進行する自由生産を補充とする。流通領域では、国家が市場を掌握することを主体とし自由市場を補充とする。中共の八届一中全会において、中央政治局常務委員と中央委員会副主席に当選した。
 1957年1月に中共中央経済工作5人小組組長を担当した。中国の社会主義建設に対して、彼は一貫して実事求是の原則を堅持。現実条件を顧慮せず急いでことをなそうとする誤った傾向に反対した。建設規模を国力に見合った一定のものとすること、人民生活の基礎を整えたうえで建設規模を拡大するすることを主張した。国民経済計画は、総合平衡(全体としてのバランス)を保たねばならないと主張し、均衡のとれた発展を実行するとした。50年代末から60年代初めの、国民経済が極めて困難に遭遇したとき、彼は過大な鋼鉄生産指標がもたらした経済全体の調整について毛沢東から委託を受けて、劉少奇、周恩来、鄧小平とともに、都市の2000万人を農村に送る(下乡)果断な措置により、また一部の商品価格の引き上げや、貨幣の回収(回笼)などの一連の正しい措置により、国民経済を回復させた。農業の発展中に遭遇した困難の解決のため、彼は上海青浦などを調査して、農村での請負制(包产到户)政策をまとめ、中国農業改革の先駆思想となった(先駆けとなった)。彼のこの主張やそのほかの実際的経済の主張は、「右傾」ととられることになり、毛沢東の冷遇を受けることになった。
 注7:1952年に革命戦争年代に養った喫煙の習慣を絶った。1959年心臓病:冠心病を患った。回復はしたが完治はしなかった。・・・诸天寅, p.202)
 注8:1959年7月2日から8月16日陳雲は心臓病のため休んでいた。1959年6月から1960年9月まで。南方で休養していたとも、各地の実情を調査していたともされる。他方 鄧小平は転倒による骨折で同様にこの会議に出なかった・・・叶 p.201-202
 注9:1957年に反右派闘争で批判を受けた包産到戸 安徽省での農業建て直し策として1960年に復活してくる しかし1962年の7000人大会で安徽省の曹希経は批判を受け第一書記の職務を免ぜられるしかし 実際には各地で包産到戸が試みられ 農村工作部長の邓子恢は指示を表明していた。毛沢東の指示でこの問題を調査していたら田家英は調査の上 農業生産に効果があることを毛沢東に報告している。このとき鄧小平も明確に賛成。毛沢東に面談した陳雲も賛成を明らかにする。しかし毛沢東は、包産到戸を社会主義にするものだとして認めず、1962年9月の邓子恢の職務停止にむかう。・・・・・叶 220-223,228;诸,134-137
文革期間
 文化大革命の間、彼は党内の中央委員の名義(肩書)を保ったまま、江西省南昌市のある化工石油機械工場の実情調査(蹲点)に下放された。1972年4月に北京に戻り、周恩来の意見により国務院の業務工作に参加し、国際経済の形勢と対外貿易発展問題とを研究した。彼は現代資本主義をよく研究して成果を提出し、世界市場で中国が占めるべき地位があるとした。1975年には第五届全国人代常任委員会副委員長に選出された。1976年に「4人組」を粉砕する決定に参加するなかで、叶剑英に対して「この闘争は避けることはできない」と述べた。
 注10:3年近い間、工場で労働したり農村に参観するほか、そのほかすべての時間を彼は読書にあてた。再び資本論をよみ、レーニンが10月革命後に書いた新経済政策と党内民主生活方面の著作をあわせて、我が国の経済体制と党の民主集中制問題を深く考えた。・・・诸天寅, p.213)
 注11:1969年10月林彪は命令を出し老革命家劉少奇、陳雲、鄧小平、李先念、叶剣英、王震たちの離京を命じた。陳雲に対する扱いは中央委員の名義を失わななかった点で違っているほか、周総理自身が暖気の手配、接触する人の数を減らすなどの配慮をしたことも知られている。実情調査とは朝八時からの労働とその後の政治学習に参加すること。1970年にはしかし状況は変化、8月23日の廬山で行われた九届二中全会に中央は参加を求めた。ただ陳は心臓病のため全体会議などに参加できたにとどまった。さらに1971年9月13日に林彪の事件がおき、周恩来は一部老幹部の起用をはじめる。中央の批准を得て4月22日北京に戻るための陳雲の出立が決まる。4月24日に陳雲はほぼ3年ぶりに北京に戻った。なおこの2年あまりの間に、魯迅、毛沢東、マルクスエンゲルス、資本論、レーニン、スターリンなどを読んだ。資本論については延安で一度、そしてこの江西で今一度読んだとしている。そして周恩来は国務院で外貿工作で陳雲の助力をえることにする。・・・诸天寅, p.138-143)
改革開放後
 4人組を粉砕したあとの、1977年3月の中央工作会議で、彼は鄧小平を党中央の領導工作に再び参加させるべきだと発言した。1978年の中央工作会議で彼は率先して冤罪虚偽案件(冤假错案yuan1jia3cuo3an)の名誉回復に言及した。彼は続いて開かれた十一届三中全会で、中央委員会副主席と中央政治局常任委員に当選し、中央規律検査委員会第一書記を兼ねることになった。中共十一届三中全会のあとは、彼は鄧小平を核心とする第二代中央領導グループ(集体)の重要な構成員となり、党と国家の主要決定を行う人(主要决策jue2ce4ren)の一人となり、中央領導グループのその他の同志とともに、思想路線、政治路線そして組織路線の拔乱反正(乱れを正すこと)の推進(进行)で全党を牽引(带领dai4ling3)、経済建設では中心として、4つの基本原則の堅持、改革開放の基本路線の堅持して制定執行にあたり、中華人民共和国建国以来の多数の歴史遺留問題と、現実生活上に現れた新たな問題を正しく解決し、中国独特の(特色的)社会主義事業を成功裏に創建するうえで重大な貢献を行った。彼は鄧小平が提出した実事求是で毛沢東の歴史地位を確立することを全面支持(全力支持)し、毛沢東思想の主張を堅持発展させた。中国の改革開放と社会主義の現代化建設に対して、彼は一連の根本的な意義のある(具有深刻意义的)思想と重大な政策を提案した。たとえば国民経済の均衡が深く損なわれて全面調整を行うにあたって、社会主義の時期には二つの種類の経済、すなわち計画経済と市場調節が必ず必要だとした。また改革の歩みはゆっくり(稳)であるべきで、石を探して河を渡るよう(摸着石头过河)でなければならないとした。試したら常にその経験を総括する。農業なくして安らかではない、食料がないと国が乱れると強調した。経済状況の不安定さ(不稳定)は政治状況の不安定さを引き起こすことを指摘した。政権党の党風(仕事をするうえでの態度)問題は、党の生死を分ける(重要)問題であり、徳才を兼ね備えた中青年の幹部を大量に選抜育成することは急務とした、などなど。彼はまた「一国二制度」構想により、香港とマカオに主権の回復をすること、また海峡両岸の和平統一を実現することに、大量の心血を注いだ。
 注12:1979年に直腸癌を患い切除手術を受けた。手術は成功した。・・・诸天寅, p.202)
 中共十三大以後、彼は中央領導工作を退き、中央顧問委員会主任となった。鄧小平を中核とする第二代中央領導グループから江沢民を中核とする第三代中央領導グループへの順調な移行において、党と国家が確固とした(稳定的)重大決定を進めることを保証するうえで、彼は十分重要な作用を発揮した。中共十四大以降、彼は仕事を離れた(过着离休生活)。1995年4月10日病により北京で亡くなった。主要著作は≪陈云文选≫3巻に収められている。

为共产主义事业奋头到底的一生-我所了解的晚年陈云・・・・・朱佳木 论陈云  中央文献出版社  2010年
陈云同志の境遇(身世)は大変苦しいもので、幼年時に父母を相次いでなくし、母方の叔父(舅舅)と叔母により育てられた。高級小学校(高小)を卒業後、14歳にして、家庭の負担を増やさないために、続けて学ぶ思いを断念して、上海の商務印書館文具売り場(文具仪器柜台)の見習い店員(学徒的工作)となった。1925年見習い期間が終わり(20歳)、虹口書店の店員になった。月給5元であった。まさにその年、上海で内外を震撼させた五卅惨案(ウーサ ツアンアン)が生じた。
(舅舅は陈云を養子として迎え、廖陈云と改名した。陈云は最初、私塾で教育を受けそのあと1914年から小学校で学んだ。しかし1916年夏 叔母が出産後、病にかかってから一家は困窮に陥り、陈云も叔父の小酒店の下手伝いを迫られるようになる。しかし店の客でもあった小学校長の配慮で、陈云は学費免除で高級小学の過程を終える。その後、商業学校に進学したが経済的理由で1ケ月余りで退学せざるを得なかった。商務印書館には小学校のときの先生の弟が働いていて、その紹介で1919年6月に働き始めた。最初は排字:植字部門で学徒工となったとあるが、その意味は時間があれば夜学に通えたということのようだ。陈云与马寅初 p.22-23)
(五卅惨案 1925年5月30日 上海で2000人ほどの学生が、5月14日に日本資本の紡績工場でストライキが鎮圧され、死傷者が出たことに抗議しようと集まった。これに対して英国の保留地警備官:巡捕が100人余りを逮捕した。午後になり万を超える群衆が、逮捕されたものの釈放を求めて集まったのに対して、英国の巡捕は射撃や殴打で鎮圧、多数の死傷者、逮捕者がでた。背景には共産党の指導のもとに、労働争議が多発していたことがある。....百度百科による)
(吴佩孚ウーペイフ 1916年に袁世凱が死ぬと中国の政局は不安定化する。孫文が南方で自立化を目指すのを北の北洋軍閥の中には武力でこれを抑えようとするものもあった。こうした中で1919年五四運動が発生する。吴佩孚は北洋財閥の直隷派に属する司令官であるが、武力統一に反対し、五四運動を支持する立場を明確にした。そのあと1925年までは日本と結んだ奉天派と争う形であった。....日本語のwikipedeaによる)
陈云はのちに自伝で次のように述べている。「それまで私は吴佩孚に賛成であった。このあとは、外に対して強権に抵抗し、内に対して国賊を除くという国家主義派を信頼した。(しかしその後)三民主義を読んで孙中山(スン・チョンシャン 孫文のこと)の道理は蛮多(すごい)と思った。」(陈云年谱 上卷  20)そこで彼は国民党に入り、商務印書館発行所分会の発起人(首创人)の一人になった。8月中旬、商務印書館の労働運動の積極分子は中国共産党の指示のもと、ストライキの列に加わった。スト中に彼は推薦を受けて、発行所職工会委員長、発行所職工会、印刷所工会、総務所同人会の連合ストライキ執行委員会委員長となり、併せて商務印書館の中で早期に入党していた董亦湘(トン・イーシアン)、恽雨棠(ユン・ユータン)の紹介で中国共産党に加わった。のちに彼は自身の入党の動機について次のように書いている。「入党の動機は明らかにストライキ活動(运动)そして階級闘争の影響だった。このとき「マルクス主義簡解(浅说)」「資本制度簡解」さらに「共産主義ABC」まで読んでいたが、なお理解していなかった。これらの本を見るとその説明(道理)は三民主義より納得できるものだった(更好)。スト活動して2冊の本を読了後、すぐに党に加入した。ただ私は入党時の経緯考慮を自覚し、入党してから、自分はかつての自分ではないことを自覚し、これからは自分は一家を構え事業を行うのではなく(今后不是做成家立业的一套)、革命を行うのだと考えた。この人生観の改革は、以後私にとって大きな助けになった。」彼はつぎのようにも言っている。「あのとき社会の改造が必要で、ただそうすることでのみ人類を解放できると理解した。この思想は私にとても大きな影響を与えた」(陈云年谱 上卷  25)そのとき陈云は20歳だった。
早くも党の七次大会で毛沢東同志は次のように述べたことがある。「各共産党員が入党するとき、現在の新民主主義革命に奮闘する、そして将来の社会主義と共産主義のため奮闘する、という二つの明確な目標を心に抱いており、共産主義の敵による卑劣な敵視、侮蔑、あざけりと嘲笑を気にかけることはない」(毛沢東選集 3巻 1059)。陈云同志も延安時代につぎのように言ったことがある。「一人の自ら共産主義事業に献身する共産党員は、党のために各時期の具体的任務に奮闘するだけでなく、共産主義の実現に向けて革命的人生観を確定(確立)するべきである」(陈云文選 1巻 137)。歴史が証明するところでは、陈云同志は不断に党の各時期の具体的任務に奮闘しただけでなく、同時に心の中で共産主義の遠大な目標を気にかけていた共産党人である。もちろん白色テロの恐怖下で秘密活動を行うときも、根拠地において苦しい生活を過ごすときも、単独で特殊な使命を執行するときも、あるいは重要な指導職務にあるときも、順調なときも逆境にあるときも、彼は一途に着実に共産主義事業のため奮闘を続けた。彼は一方では、共産主義に急いで向かうという論法で、実際からかけ離れることに反対したが、他方ではただ目の前の利益にこだわって、動揺のあまり共産主義の理想的言辞(言行)を放棄することにも反対した。
私(朱佳木)が陈云同志のもとで仕事をするようになったあとで、あるとき彼はほかの同志が提出した「共産主義ははるか先でいつになるかわからない(遥遥无期)」という観点について、「この観点は正しくない。共産主義ははるか先だが期限はある=遥遥有期,社会主義は共産主義の第一段階である、というべきだ。」彼はまた当時海外の人が要求していた我々の党の改名問題について、私に言った。共産党という字は、その奮闘目標を示していると。改名はできる。延安時代に、共産党の改名を提案する人があり、毛主席は「どんな字が良いだろう?国民党がもっともよい。残念ながらほかの人がすでに使っている」といった。開国解放後、一部の人は出国して数日。帰国して中国は外国と異なる、社会主義は資本主義とは異なる、と主張する。この種の現象を陈云同志は十分重視した。1983年党の十二次第二回中央委員会全体会議の発言を準備するときに、彼の発言原稿の中に「資本主義は社会主義に置き換えられるべきもの」と書き加えることと、最後に「社会主義万歳、共産主義万歳」(陈云文選 3巻 332-333)と叫ぶこととを、特に私に言づけた。
なお一つのことが陈云同志が共産主義の大きな目標を常に忘れなかった心境をよく説明できる。1983年の党の十二次第三回中央委員会全体会議の前、中央日常工作を担当する同志が、小平同志が講話するので、そのときに陈云にも話してもらえるだろうか、といったときだ。陈云同志はまず私に発言稿の起草を求め、併せて政権党(執政党)の党風問題を強調せねばならないとした。当時、彼は簡易報告から、農村党員の一部の集団訓練において、糧食補助のほか、休工賃を出し, それでもなお一部に党員はカネをもらわなければ出席しない。という有様を読み取った。彼は言った。「これは党が政権を取る前は想像できないことだ。解放前、同様に農村において、戦争を支援し、弾薬を輸送し、負傷者を救護し、休工を補償することはなかったし、かつかかわったために傷を負い死ぬことも常にあった。これを比較すると、現在この種の休工を補償するのは理屈に合うだろうか?仕事を休むことを補償された共産党員はちょっと考えるべきだ。このようにすることは共産党員の基準(标准)に合っているか?共産党員の基準は共産主義の為、自己の命の犠牲も惜しまず生涯奮闘することではないか。私は集団訓練を見るに、参加するにはお金が必要だという人は、共産党員になることはできない(陈云文選 3巻 332)。
 このほかもう一つのことが、私が陈云同志から離れた後、起きた。あのとき、関連する改革解放の一連の相応の法規制度は一度には仕上がらず、加えて党内にはただ物質文明の建設に注意し精神文明や思想政治工作を軽視する現象が生じた。指導幹部の中には「ただ金を見る(一切向钱看)」理論を鼓吹し、一部の人たちは改革解放の機会にあらゆる空買い空売り、その反対売買、賄賂を行い賄賂を受け取り、税関を潜り抜けて売買し、人を巧みに騙し(弄虚作假),騙し脅して財物を集め(敲诈勒索),関税は逃れて、ニセ薬やニセ酒の製造販売、はなはだしきは卑猥な映像の放映販売に至り、婦女売春などあらゆる悪事が出現した。この種の状況に対して、陈云同志は中央規律委員会の第六次全体会議で文書講話を発表し、つぎのように指摘した。「対外開放、そして国外先進技術と経営管理経験を導入し(引进)、我が国の社会主義建設に役立てることは、完全に正しく堅持するべきである。しかし同時に、対外解放により、資本主義の腐った思想と作風の侵入を避けようがないことを見るべきである。これは我が国の社会主義事業にとり、直接の脅威(危害)である。(しかし)もしわれわれの各段階の党委員会、我々の党員とくに老幹部が、このことをはっきりと認識して、高度に警戒(警)に努めるなら、共産主義思想を核心とする教育を対抗して(有针对性地)進めるなら、資本主義思想の侵入は全く怖くない。われわれはマルクス主義、共産主義の真理を信じており、資本主義の腐った思想と作風の浸食に必ず勝利できる。」彼は呼びかける、「全党の社会的力量を動員組織して、徹底して悪を除く精神で、堅い決心の戦いを進めねばならない」「もちろん誰であれ党の規律、政治の規律に反したものは、必ず党の規律、政治の規律の処理に委ねられねばならない。法律に違反したものは、法の処理に委ねられねばならない。各段階の規律委員会はこの原則で進めるべきで、さもなければ失職である。」(陈云文選 3巻 355-356)
共産主義の信念としては、マルクス主義に由来する人類社会の発展法則(規律)の科学が示されている。そこで陈云同志は党員とくに党員幹部にいくつかのマルクス、レーニンの著作を読むことを一貫して重視、提唱した。1983年後半、中央は3年の整党(規律強化)の実施を決定し、ある関連部門が整党のための学習文献目録を試作した。彼は見てからいった。「この目録には、マルクス、レーニンの物が全くないが、「共産党宣言」「社会主義 空想から科学の発展へ」「マルクスの墓前での講話」「帝国主義は資本主義の最高段階である」などなど、さらに毛主席の「中国革命の戦略問題」「持久戦論」から何編かを選ぶべきだろう」。ある同志が、マルクス、レーニンの本は長すぎるといったところ、彼は言った。「要約で済ませてもいい、私の文章を何編か減らして一二編残せばいいことだ(当時書名目録に上には5編の陳雲同志の文章があった・・・筆者注)。これは謙虚ではない、われわれのものは皆すべてマルクス=レーニンに由来するのだ」。その後、中央は、整党完成後、組織党員幹部が学習するマルクス主義の若干の基本著作を選出決定した。
共産主義の理想信念が堅固であるかどうかは、帝国主義の本質の認識関係と同時だ。1980年代、一部の人たちは、新たな科学技術革命が、資本主義が自身を絶えず更新するメカニズムを保有するように、資本主義の本質を変化させ、レーニンの帝国主義論を過去のものにしたと考えた。この観点に陳雲は高度に関心をもった。1989年の政治風波のあと、彼は一人の中央との会話において鋭く指摘した、レーニンが論じた帝国主義の5つの特徴、他国を侵略し、互いに覇権を争う本質は、過去のものではない、これを過去のものとする観点は完全な誤りであり、極めて有害だ。 
动画   陈云的故事・・・・・
1978年の日暮れ時、73歳の陈云とその夫人の于若木(ウー・ルオムー)がちょうど杭州西子湖畔を散歩していたとき、小さな商店の前で一振りの美しい壇木算盤が陈云の目を捕らえた。
于若木(ウー・ルオムー)「杭州の三潭に至る月が湖面に映るところで、小さな店見つけました。店先の勘定場に一つの算盤があり、彼はそれを取って打ち始めたのです。みんなに実演してみせたのです。とても熟練していました。」
陈云の算盤の一幕は、その場にいた撮影記者によってスナップに納められた。
1981年1月中国仏教協会会長の赵朴初はこの写真を見て、深い感慨に打たれ次の詩を読んだ。「ただ事実を求め 珠を上げ下げ加減乗除反復比較したうえで軍略をめぐらし 最後の決戦に挑む 熟練のはかりごととと深い思慮は国がたよるところ」
この詩は「共産主義のために算盤をとった(红色拿柜)」陈云の真実を写し取っている。
1917年の夏のある日 12歳の陈云は地元の青浦县の乙种商業学校で勉強するように送り込まれた。家人は彼が将来商店の中で帳簿を付けをすることを願ったが、残念ながらわずか1ケ月のちに陈云は家庭の貧困のため退学せざるを得なかった。この短い学習で勉学熱心な陈云は一生使い続ける二つの技能、珠算と記帳という技能を獲得した。これは彼が少年の時受けた唯一の正規の商業教育だった。
  1944年3月中国共産党が指導する陜甘宁边xiaganningbian区で、早くから職業革命家の道を歩んできた陈云は、毛沢東の提案で中央政治局会議決定で、中共中央西北局委員と合わせて、西北財経事務所副主任、とするとの新たな任命を受け取り、陜甘宁と晋缓边区の財経工作を担当することになった。
阵云と社会主義の新時期経済 『党的文献』1995年2期 1995年3月 pp.54-64
阵云は我が党我が経済工作の傑出した指導者である。彼は党の社会主義建設の歴史進程において、卓越した組織才能と、非凡な思想知恵を表し、全党の賞賛を受けた。社会主義建設の新時期に入ると、阵云はその豊富な経済工作を指導した経験をもって、文革中遭遇した国民経済の厳重な破壊の回復に努めた。中国の特色のある社会主義建設道路を探索し、改革開放事業の発展を推進し、重要な貢献を行った。
1.国民経済調整の首唱者かつ領導者
10年動乱による経済の破壊は厳重を究めた。1976年に文革が終わった時、中国経済はすでに危难にあった。国民経済のバランスはひどくこわされ、システムは僵化(バランスを失い)、企業管理は混乱し、経済効率はひどいありさまだった。 (作成途中での公開・いずれも研究のための試訳である)
维基
陈云(チェン・ユン) 1905年6月13日―1995年4月10日 廖陈云(リアオ・チェンユン)と名乗ったことがある。江蘇省青浦县(チンプーシエン 現在の上海市青浦县)人。政治家にして経済管理家。陈云は中国共産党と中華人民共和国の第一世代そして第二世代の中央指導集団の重要な構成員であり、改革開放以後継続して党の重要職務を担った。
陈云は早くから上海の労働者運動を指導し、その後、中国工農紅軍に参加した。長征にも加わった。中共中央新疆代表、中共中央組織部部長、中共中央政治局委員等の職を務め、その後、東北に行き、東北局副書記に任じられ、東北財政経済委員会主任、中華全国総工会主席、中央人民政府委員を務め、「銀元の戦い」(人民元の価値を守る戦い)を指導した。
中華人民共和国成立後、陈云は中央人民政府政務院副総理兼政務院財政経済委員会主任を任じられた。全国経済回復工作を担当し中国の第一五カ年計画を制定。1956年中国共産党第八次大会で中共中央政治局常任委員に選出。中共中央副主席。その地位は毛劉周朱の四人に次ぐものであった。文化大革命中迫害を受ける。その後原職を回復。中共中央規律検査委員会第一書記となる。1987年鄧小平に代わり中共中央顧問委員会主任に選出、当時政権にあった八大長老の一人。

中略
中華人民共和国成立初期
1949年10月1日、陳雲は中華人民共和国開国大典に出席した。10月19日、中央人民政府委員会第三次会議で政務院副総理兼財政経済委員会主任、重工業部部長に任命された。11月政務院財政委員会を主催して(主持)、市場物価の安定、朝鮮戦争への支援、重大都市への供給などを討議した(研究)。1950年2月、全国財政会議を主催して、財政経済困難を克服する政策と措置を討議した。翌月政務院は「統一財政経済工作に関する決定について」を可決した。四月五月に至る間に、中国大陸財政経済工作は統一され、財政収支はバランスに近くなり、金融物価は安定に向かった。5月8日から26日の間、陳雲は(作業中)
改革開放時期
文化大革命後、華国鋒と鄧小平の矛盾が現れ始めた。陈云は1977年3月の中央工作会議で鄧小平の立場を支持(拥护)し、華国鋒の两个凡是 理論に反対した。1978年11月11日陈云は中央工作会議で発言し、四人組が起こした問題を中央が考慮決定することを求め、具体的に、六十一人叛徒集団事件、彭徳懐事件への対応と、四五天安門事件の名誉回復(平反)を求め、併せて文化大革命中の康生の犯罪についての調査を求めた。陈云の発言は大きな影響を与え、多くの出席者が意見を提出、会議は大きく進展した。
1978年12月彼は中共十一次第三次中全会に出席し、再び中共中央政治局常務委員、中共中央副主席に選ばれた。合わせて中央規委第一書記に選ばれ、中央規律検査委員会、公安、検察、民政など中央政法部門を所管した。彼は中規委の基本任務は、党規党法を守り(维护)、党風を正す(整頓)ことだと指摘している。このあと彼は積極的に文化大革命期の冤罪でっち上げ(冤假错案)の審理に取り組み、迫害された人の追悼、名誉回復に従事した。1979年2月の中越国境衝突(事件)について小平は、陈云の分析の助けを求め、陈云の支持のもと、中越戦争を開始した。戦争が1ケ月で収束したところで、同月、中規委と中央組織部は劉少奇の件について再審査を進め、名誉回復の決定をした。
このほか彼は中国の経済の進路に関心を集中した。1979年3月に計画経済と市場調節の関係について撰文(著述)を提出しはじめた。資源の分配比例は国民経済の発展速度に影響することを強調した。1979年3月14日、彼は国務院財政経済委員会主任を担当した。合わせて5月に宝山鋼鉄の調査建設にあたり、また国有企業の改革発展に注意を集中(聚焦)しはじめた。7月1日、陈云,薄一波,桃依林は国務院副総理に任命され、全国人大常務委員会副委員長は再任されなかった。同年10月、検査で結腸癌がわかり、10月24日結腸癌切除手術を受けた。同年末、林彪,江青反革命集団案10名の主犯の量刑をめぐる討論で、「党内闘争を死刑(杀戒)で終えてはならない」と断固として主張し、江青、张春桥らの死刑に反対した。
1980年6月後,体の状況が次第に回復すると、仕事に復帰し、中共中央政治局を用いて集団指導体制の形成を積極的に促し、計画生育政策を実行し、若年幹部層(梯队)の組織育成に取り組んだ。8月30日に国務院副総理を外れた。1981年、彼は中共中央規律検査委員会を主催し(中略 未完成)
 思想
一人っ子(一胎化)
陈云は一人っ子政策を固く支持した。彼は1979年6月1日の談話の中で法令をつくるなら「明確に一人と定めるべきだと」。「(李)先念同志が私に言った。もっともよいのは一人(でも)多いのは二人。私は再び強く、ただ一人と規定するべきだといいいたい。後世を絶ったと人に非難される心の準備は整った。そうでなければ将来はない。」
以下略未完

現代中国研究  2016-08-12(2018-06-10更新)

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