現在、アフの上に立っているモアイの数はおよそ 50体です。
これらはすべて、 1950年代から始まった
世界各国の調査、発掘により復元されたモアイです。
かつて、この島には、
海岸線に沿って相当数のモアイが立っていました。
1722年 4月 5日 イースター (復活祭 ) の日、
この島を発見したオランダ人は、
海岸沿いに大きな石の造形物 (モアイ ) が立ち並んでいることを
報告しています。
この時、島の人口はおよそ 3000人と報告していますが、
現在、考古学的には、当時の人口は 1万人以上と推定しています。
オランダ人の発見からおよそ 50年後の1770年、
2番目にこの島を訪れたスペイン人も、
海岸沿いに立ち並ぶ巨大なモアイのことを報告しています。
さらに、大地には木々がなく荒廃していると伝えています。
最新の化石花粉の科学的な調査によると、
イースター島の主だった木々は
1650年頃に消滅したと推測されており、
スペイン人の報告はこの調査結果と合致します。
また、
巨大なモアイを運搬するためのテコやコロなどに大量の木を使い、
それが森林破壊を引き起こした ・・
という説にも符合します。
(12月 4日のブログ参照 )
この時、スペイン人は、時の王 = チャールズ 3世の命により、
丘の上に木製の大きな十字架を立てて帰りました。
4年後の1774年にこの島を訪れたキャプテン・クックは、
モアイは放置されたような状態で、倒れたモアイも数多くあった、
と報告しています。
また、スペイン人が立てた十字架は見当たらなかったと ・・
さらに、土地は痩せていると ・・
キャプテン・クックのイースター島訪問で興味深いのは、
タヒチから随行させた通訳と島民の会話が
可能だったということです。
これは、ホツ マツア王の伝説 ・・
つまり、イースター島へはタヒチ島の方から人がやってきた、
というポリネシア人移民説を裏付けるものです。
(12月 3日のブログ参照 )
その後、 19世紀の半ば頃まで、
イギリスやロシアが何度か訪問していますが、
この島の情報についてはあまり多くは報告されていません。
19世紀後半になり、
キリスト教ミッションや奴隷狩りなどで
ヨーロッパから多くの船が訪れるようになり、
モアイの実態が広く伝えられるようになりました。
その結果わかったことは、
ほとんどのモアイは意図的に倒されていたということです。
The huri mo'ai
フリ モアイ = 「モアイ倒し戦争 」 ・・
1770年以降、何らかの理由でこの島に争いが起こり、
モアイは倒されました。
モアイは、多くはうつ伏せに倒されていました。
それは、霊力が宿るとされる 『目 』 を封じるためであると
考えられています。
また、多くのモアイが酷く顔を傷つけられていました。
これは、憎しみの象徴でしょう。
では、争いの理由はいったい何だったのでしょうか ・・
次回は、その原因を探ります。
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