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TV-CMおよびTVドキュメンタリー番組のディレクター & カメラマン

石丸進一 投手

2015年08月15日 | その他

高校野球の名門 佐賀県立佐賀商業高等学校から
プロ野球 名古屋軍 (現中日ドラゴンズ ) に入団した
石丸 進一 (いしまる しんいち 1922年ー1945年 ) 投手。



向かって左が石丸進一投手。 
右は、先に名古屋軍に入団していた
兄の石丸藤吉 (とうきち 1914年ー1991年 ) 選手です。
石丸進一投手は、
1943年10月12日、ノーヒットノーランを達成しています。
長いプロ野球の歴史の中で、戦前最後の大記録です。


(出陣学徒壮行会 8月13日のブログ参照 )
この大記録の9日後、石丸進一投手は、
神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会に参加しています。

注: 当時、プロ野球選手の多くは、徴兵猶予を得るため
   大学の夜間部などに籍を置いていた。
   石丸進一投手は日本大学夜間部。


(特攻隊員 石丸進一 )
1945年5月11日、石丸進一投手は、
鹿児島県鹿屋航空基地 (かのやこうくうきち ) から
特攻隊員として出撃 ・・・
還らぬ人となりました。
終戦は、この日からわずか3ヵ月後のことです。


(特攻隊員 石丸進一 )
出撃を前に石丸進一投手は、
同じ特攻隊員だった法政大学野球部の
本田 耕一 (ほんだ こういち 1923年ー1945年 ) 選手
を相手に最後の投球練習を行いました。
(本田選手は5月14日戦死 )



見事なストライクを10球 ・・・
この時の様子は、
石丸進一投手の従弟 牛島 秀彦 (うしじま ひでひこ )
の著書 『消えた春 』 の中で
ドラマチックに描かれています。



以下は、石丸進一投手が遺した手紙です。



『野球という職業を選んだことを幸福に思っています。
 苦しいこともありましたが、
 それ以上に野球に楽しみを得ました。
 24歳 (数え年 ) のいまの私には、
 何の悔いるところもありません。
 明 5月1日、必ず敵艦命中します。
 『忠孝』 私の人生は、この二字にて終わります。 』



今年は終戦から70年 ・・・
高校野球は100年の記念大会 ・・・
平和な時代に戦争を考えることは難しいです。
しかし、私たちの誰でもが出来る供養の方法があります。
それは、戦争を忘れないことです。
忘却ほど残酷なことはありません。
私たちの記憶から戦争の事実が消えてしまえば、
戦争で犠牲になった多くの人々があまりにも気の毒です。
今年のこの時期、テレビでは、
いつになく戦争の報道が多いように感じます。
これは、日本人の良心なのだと思います。
70回目の終戦記念日 ・・・
合掌。

jfk-world
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