JFK-World 世界の撮影・取材地トピック

Freelance Film Director
TV-CMおよびTVドキュメンタリー番組のディレクター & カメラマン

知覧特攻平和会館

2015年08月14日 | その他

鹿児島県 ・・・
雄大な桜島を見ながら薩摩半島を南へ ・・・



麓川 (ふもとがわ ) ・・・



そして、庭が印象的な武家屋敷 ・・・
知覧町 (ちらんちょう ) ・・・
ここは薩摩の小京都とも ・・・
また、ここには、第2次世界大戦中、
沖縄戦線に向かう特攻隊の前線基地がありました。



いまは静かなこの城下町に
「知覧特攻平和会館 」 があります。



板津 忠正 (いたつ ただまさ 1925年-2015年 ) さん
知覧特攻平和会館 初代館長。
元特攻隊員。
機体の故障により奇跡的に生き延びる。
板津さんは、
与えられた命に使命を感じ、戦後全国を行脚。
遺族に (仲間の ) 特攻時の様子を知らせるとともに、
(特攻隊員が ) 家族に宛てた手紙などを収集。



知覧特攻平和会館には、板津さんが生涯をかけて集めた
1000人を超える特攻隊員の
手紙や遺影が展示されています。



平和会館の横には、



『三角兵舎 (さんかくへいしゃ ) 』 が復元されています。



全国から集められたうら若き特攻隊員は、



出撃までの時間をここで過ごしたそうです。
彼らは 『軍神 (ぐんしん ) 』 と呼ばれていました。



特攻隊員の頃の板津さんと
鳥濱 トメ (とりはま とめ 1902年ー1992年 ) さん



知覧の町で食堂 (富屋食堂 ) を営んでいた鳥濱さんは、
特攻隊員から母のように慕われました。



鳥濱さんは、戦後、語り部として、
特攻隊員の在りし日の姿を後世に伝えました。



東京帝国大学文学部の2年生だった
久保 恵男 (くぼ よしお ) さんは、
特攻隊員として散りました。



久保さんが家族に宛てた手紙 ・・・
(一部 )
『我々はあまりに弱いし、不完全であるので、
 やむを得ず戦争という最も醜い営みにも
 没頭せねばならぬのだと思います。
 ともかく、日本の国は私たちがきっと護り抜きます。
 ただ、何よりも案ずるのは、
 私たちが護ったこの国が次の時代にいかなる生成をし、
 発展をするかということです。
 私のなしえなかった生活と理想を完成させてください。
 その頃にはすでに戦争も終わって、
 日本の国は、文化の上で苦しまねばならぬ
 時代だろうと思いますから。 』

軍国主義を良しとしない強い意思が窺えます。

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