三女神を祭る御本社
杵島姫(いちきしまひめ)をはじめとする3つの女神が
祭られている御本社拝殿。
寝殿造の繊細かつ華麗な建築様式となっており、
拝殿のさらに奥には、本殿がある。
本社拝殿は切妻両流造となっている。
正面には、緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がある。
杵島姫(いちきしまひめ)をはじめとする3つの女神が
祭られている御本社拝殿。
寝殿造の繊細かつ華麗な建築様式となっており、
拝殿のさらに奥には、本殿がある。
本社拝殿は切妻両流造となっている。
正面には、緑青塗りの引き違いの菱形の格子戸がある。
厳島神社の社殿は長い歴史の間に幾度か手が加えられているものの、
造営当時の佇まいを忠実に伝えています。
108間(約275m)の廻廊が結ぶ社殿は、
寝殿造りの影響を強く受けた平安様式。
寝殿造りとは平安貴族の住宅様式で、
敷地の中央に寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物、
その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、
それらを通路で結ぶ対称形の配置を基本とするもの。
寝殿の前面には舞や儀式の場となる庭、
その先には池も設けられました。
その寝殿造りの様式を神社建築に巧みに取り入れ、
瀬戸内海を池にみたてた壮大な発想で
平安の雅(みやび)を映した究極の日本建築といえます。
大鳥居を背にして祓殿を正面からみると、
中央の軒が左右に較べて一段高くなっているのは寝殿造りの典型的な工法。
また桧皮葺の屋根に瓦を積んだ本殿の化粧棟など
随所に寝殿造りの様式が加えられています。
造営当時の佇まいを忠実に伝えています。
108間(約275m)の廻廊が結ぶ社殿は、
寝殿造りの影響を強く受けた平安様式。
寝殿造りとは平安貴族の住宅様式で、
敷地の中央に寝殿(正殿)と呼ばれる中心的な建物、
その東西に対屋(たいのや)と呼ばれる付属的な建物を配し、
それらを通路で結ぶ対称形の配置を基本とするもの。
寝殿の前面には舞や儀式の場となる庭、
その先には池も設けられました。
その寝殿造りの様式を神社建築に巧みに取り入れ、
瀬戸内海を池にみたてた壮大な発想で
平安の雅(みやび)を映した究極の日本建築といえます。
大鳥居を背にして祓殿を正面からみると、
中央の軒が左右に較べて一段高くなっているのは寝殿造りの典型的な工法。
また桧皮葺の屋根に瓦を積んだ本殿の化粧棟など
随所に寝殿造りの様式が加えられています。
千畳閣の隣に建つ五重塔は、
和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、
桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔です。
高さは27.6m。
応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。
内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、
内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、
裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。
塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。
またこの五重塔が建つ塔の岡は、
厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。
和様と唐様を巧みに調和させた建築様式で、
桧皮葺の屋根と朱塗りの柱や垂木のコントラストが美しい塔です。
高さは27.6m。
応永14年(1407年)に建立されたものと伝えられています。
内部は完全な唐様で、一般の見学はできませんが、
内陣天井に龍、外陣天井には葡萄唐草、来迎壁の表には蓮池、
裏には白衣観音像などが極彩色で描かれています。
塔内にあった仏像は、明治元年の神仏分離令により、大願寺に遷されました。
またこの五重塔が建つ塔の岡は、
厳島合戦で陶軍が陣を構えたと伝えられています。
天正15年(1587年)、
豊臣秀吉が戦で亡くなった者への供養として
毎月一度千部経を読誦するため政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂です。
島内では最も大きな建物で、
畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきました。
秀吉の急死によって工事が中止されたため、
御神座の上以外は天井が張られておらず、
板壁もない未完成のままの状態で現在に至っています。
江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようで、
大きな柱には当時の歌舞伎役者一行の名や川柳などが記されています。
明治の神仏分離令により仏像は大願寺に遷され、
秀吉公を祀る豊国神社となりました。
雨が凄く降っておりましたため、
暫くここで雨宿り![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_rain.gif)
豊臣秀吉が戦で亡くなった者への供養として
毎月一度千部経を読誦するため政僧・安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂です。
島内では最も大きな建物で、
畳857枚分の広さがあることから千畳閣と呼ばれてきました。
秀吉の急死によって工事が中止されたため、
御神座の上以外は天井が張られておらず、
板壁もない未完成のままの状態で現在に至っています。
江戸時代、既にここは交流の場・納涼の場として人々に親しまれていたようで、
大きな柱には当時の歌舞伎役者一行の名や川柳などが記されています。
明治の神仏分離令により仏像は大願寺に遷され、
秀吉公を祀る豊国神社となりました。
雨が凄く降っておりましたため、
暫くここで雨宿り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_rain.gif)