被爆時の状況
1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、
原爆ドームの南東上空約600mの地点で
原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ、
0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、
1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。
3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、
中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。
その理由として
衝撃波を受けた方向がほぼ真上からだった
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜けた
本体部分の屋根は真上からの衝撃により押し潰されたが、
ドーム部分は屋根が鉄よりも融点の低い銅板であったため、
爆風到達前の熱線で融解し、爆風が通過し崩壊しなかった。
以上のような理由により、
ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかった
と考えられている。
建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される。
なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、
1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、
唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、
やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼して、
ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。
1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、
原爆ドームの南東上空約600mの地点で
原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ、
0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、
1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。
3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、
中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。
その理由として
衝撃波を受けた方向がほぼ真上からだった
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜けた
本体部分の屋根は真上からの衝撃により押し潰されたが、
ドーム部分は屋根が鉄よりも融点の低い銅板であったため、
爆風到達前の熱線で融解し、爆風が通過し崩壊しなかった。
以上のような理由により、
ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかった
と考えられている。
建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される。
なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、
1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、
唯一の生存者となった。
その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、
やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼して、
ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。