聖那☆”と話そう ぽっかぽか4

自分の気に入ったものを写して行きたいです♪

世界遺産 原爆ドーム

2008-03-27 23:41:32 | Weblog
被爆時の状況
1945年8月6日午前8時15分(投下が15分で、爆発は16分ともいわれる)、
原爆ドームの南東上空約600mの地点で
原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂した。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で凄まじい熱線で包まれ、
0.8秒後衝撃波に近い猛烈な爆風が襲い、
1秒もかからない内に瞬間的に崩壊したと推定される。
3階建ての本体部分はほぼ全壊したが、
中央のドーム部分は全壊を免れ外壁を中心に残存した。

その理由として

衝撃波を受けた方向がほぼ真上からだった
窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜けた
本体部分の屋根は真上からの衝撃により押し潰されたが、
ドーム部分は屋根が鉄よりも融点の低い銅板であったため、
爆風到達前の熱線で融解し、爆風が通過し崩壊しなかった。
以上のような理由により、
ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃が加わらなかった
と考えられている。
建物内にいた職員など約30名は熱線と爆風で全員即死したと推定される。
なお、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち、
1名は被爆直前の8時前後に産業奨励館から自転車で帰宅し、
唯一の生存者となった。

その後しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、
やがて可燃物に火がつき産業奨励館は全焼して、
ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなった。


世界遺産 原爆ドーム

2008-03-27 23:41:02 | Weblog
原爆ドームは原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、
一方では
「悲惨な戦争を思い出すので撤去すべき」
などの意見もあり、その存廃が議論されてきた。
広島市は経済的に負担が掛かるなどの理由で原爆ドーム保存には消極的だった。
しかし、1960年に
被爆が原因と見られる急性白血病で亡くなった1人の女子高校生が
「あの痛々しい産業奨励館だけが、
いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろう」
と記した日記を読み感動した平和運動家の河本一郎が中心となって
保存を求める運動が始まり、
1966年広島市議会が永久保存することを決議、
その後風化を防ぐため定期的に補修工事が行われながら保存されている。
1995年史跡に指定され、
さらに翌1996年12月5日には、
ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定された。
最近では立ち入り禁止区域に入っての落書きなども問題になっている。

また、2004年以降、
原爆ドームの保存方針を検討する
「平和記念施設あり方懇談会」
が開催され、博物館に移設する、屋根をつける、
などの議論も出たが、
2006年に今後も原状のまま保存する方針が確認された。


平和公園 原爆死没者慰霊碑

2008-03-27 22:00:33 | Weblog
慰霊碑は1949年に成立した
広島平和都市建設法の精神に則り、建立が計画された。

慰霊碑の設計は丹下健三(当時東京大学助教授)が担当。
平和記念公園の敷地内の広島平和記念資料館と原爆ドームを結ぶ、
直線上に設置されている。
原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、
屋根の部分がはにわの家型をしている。
中央の石室(石棺)には、
国内外を問わず、
亡くなった原爆被爆者の氏名を記帳した名簿が納められている。

なお慰霊碑のデザインは、コンペによって募集され、
前衛彫刻家イサム・ノグチの案に内定したものの
日系アメリカ人というノグチの出自を理由に
難色を示す意見が各所から出たため、
ノグチ案を生かしたかたちで
丹下が再デザインした経緯がある。
初期のデザインでは、
原爆ドームをのぞむ巨大なアーチであったが、
当時の広島市が資金難であったことから、
現在のデザインに変更された。

当時の浜井信三広島市長は、
米国アーリントン公園の無名戦士の墓の慰霊碑に感動し、
広島の慰霊碑にもぜひ碑文を刻みたいと思った浜井が
この碑に盛り込もうとしたのは
「誓い」と「祈り」であった。
石室の碑文は雑賀忠義・広島大学教授が
当時の浜井信三・広島市長の依頼を受けて提案、揮毫した。


国立広島原爆死没者追悼平和祈念館

2008-03-27 21:54:37 | Weblog
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は、
原子爆弾死没者の尊い犠牲を銘記し
追悼の意を表すとともに、
永遠の平和を祈念するための施設です。
併せて、原子爆弾の惨禍を全世界の人々に知らせ、
その体験を後代に継承するための施設です。

閲覧室では、1万4867人の遺影、
被爆体験記などを視聴できます。

原爆の子の像

2008-03-27 21:46:31 | Weblog
原爆の子の像は、
広島県広島市の広島平和記念公園内にある、
佐々木禎子(像のモデル、原爆による白血病で死去)
の同級生等による募金運動により作られた像。
1958年5月5日完成。

1955年11月8日に禎子の同級生に対し
「禎子さんを始め原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」
と新聞で禎子の死を知った青年により提案され、
設置のための活動を始めた。
12日に全日本中学校長会場で、
禎子の同級生8人によるビラ配りが行われ、
全国の中学校より寄付金が寄せられた。
12月に入り反響の大きさにより
広島市内の小・中・高校に運動への参加を呼びかけ、
「広島平和をきずく児童・生徒の会」が組織された。
1956年は街中での募金活動が繰り返し行われ、
年末までに540万円の寄付金を集めた。


広島護国神社

2008-03-27 21:36:22 | Weblog
祭神は第二次世界大戦までの広島県西部(旧安芸国)出身の英霊のほか、
広島市への原子爆弾投下によって犠牲になった勤労奉仕中の動員学徒
および女子挺身隊等など含め約9万2千柱である。
なお当神社は2006年(平成18年)を創建130周年としており、
招魂社と改称した時点から勘定しているようである。
またそれに伴い施設の拡張工事も行われている。
ただし、当神社は広島城本丸の南西部(江戸時代には馬場があった場所)に所在しているため、
広島市から著しい景観変更を伴う改築をしないように答申されている。

また、参詣するには広島城に入城することになる。
毎年中国地方で最も多くの初詣客が訪れることが有名である。
また、地元プロ野球球団・広島東洋カープが
必勝祈願のためチームとして参拝することでも知られている。
(以前はキャンプインの1月に行われたが、
現在は3月に行われる)
なお当神社の建物は原爆で全て失われているため、
全て移転の上、戦後に建築されたものである。

市の中心部に位置し交通の便が良いことから、
広島市民の多くがこの護国神社に初詣をする。
毎年1月1日~1月7日までの初詣参拝者数は50万人を超える。
同県には厳島神社があるが、
こちらはJR宮島連絡船を利用しないと行けないため、
広島護国神社よりも若干少ないらしい。

広島大本営

2008-03-27 21:28:06 | Weblog
広島大本営
広島城の敷地内に、
全国六鎮台の一つが設置され広島は軍都として発展していくこととなった。
歩兵第十一連隊や広島陸軍幼年学校などが城内に設置された。
日清戦争の際に大本営が東京から広島へ移され
1894年9月15日から1895年4月27日まで明治天皇は広島に行幸した。
これに伴い、帝国議会も広島城内で召集された。
戦争が終わるまでの短期間、
事実上広島市が日本の首都であったことになる。
また城内の大本営は
「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。
広島に大本営が置かれたことには、
山陽鉄道(現在の山陽本線)が
1894年6月に広島まで延伸され、
また宇品港(現在の広島港)が
1889年に大型船舶が停泊できる様に
整備されたことが最大の理由となっている。


広島城

2008-03-27 17:01:38 | Weblog
広島市西区己斐の地名は延喜式で
嘉字地名とされる前は
「鯉」であったと言われ、
ここから鯉城の別名がついた。
一説には堀にたくさんの鯉がいたからとも、
天守が黒いからとも言われる。

またこの別名から
「広島東洋カープ」
のチーム名が付けられた。
カープは英語で鯉の意味だそうです。