4月から復職します。
自分の闘病と主人の看病に没頭した1年5ヶ月が終わろうとしています。
この期間のことは辛いことばかりが思い出されます・・・
でも、二人で過ごした大切な時間。
一緒に闘った日々。
ずっと一緒にいられたことはありがたいことでした。
愛する人のことを書き残しておきたいと思います。
思い立ったらその時に・・・
同情をひこうとか、褒めてもらおうとかいう気持ちではありません。
辛い病と闘いながら精一杯生きた人がいた証として・・・
そして自分の中での覚書として。。。
今回は共に闘病した日々のことを・・・
愛する夫とは四半世紀以上の日々を共に過ごしました。
大きな病気をすることもなくいたって健康体でした。
だから・・・まさかこんな早くにお別れがくるなんて夢にも思っていなかった・・・
2007年に脊髄小脳変性症(神経難病)と診断される。
小脳は運動をつかさどる機能。手足の運動障害、構音障害、嚥下障害とさまざまな運動機能が低下していく病気。
この病気の特効薬はなく、進行を遅らせる内服薬とリハビリが唯一の治療だった。
一人では通院リハビリが困難になってきた頃から自宅で週2のリハビリを受けていた。
つかまり歩行が難儀になったが、2011年8月には車椅子で北海道旅行をしてきた。
私が行きたいといった函館中心。
少し嚥下が心配になってきていたが、美味しそうにお料理を食べていた。
温泉にも入ったしもちろん観光もした。
たくさんの人の手を借りてだが、旅行もできる、外に出ることができると二人で自信をつけたものだった。
2011年9月末頃から食欲が低下し腹部の異常を訴えるようになった。
我慢強い夫もいよいよ辛くなったのか、自分から病院に行くと言った。
10月2日に受診。レントゲン、心電図、CT、採血、エコーなどいろいろな検査の結果「大腸の憩室炎および腹膜炎」ということで緊急入院となった。
数日後にまず私だけ主治医となった内科医からICを受ける。
頭が真っ白になった。
病名「スキルス胃がん」 すでに腹膜播種をおこしており手術の適応ではない。
目に飛び込んできた血液検査の腫瘍マーカーは3桁を記していた。
治療は化学療法しかない。予後も伝えられる。
私の大腸手術が決定していたあとの告知だった。
自分だけ手術をして夫はできない。むごい現実だった。
多分・・・癌でも手術をして快復した私をみているので夫自身も手術ということを考えたと思う。 神様はひどい現実とそれに立ち向かう困難を私たちに投げかけてきたのだった。
当然、夫も夫の主治医も私は手術ができるのだからしなければいけないと言った。
夫は私の懇願で化学療法を受けることを承諾した。標準治療にのっとっての治療だった。
癌性疼痛軽減のため、内服でモルヒネも開始となった。
*ファースト治療 2011年10/13~2012年7/3
21日間のTS-1内服 + TS-1内服後7日目のシスプラチン投与。
シスプラチンは腎臓機能の問題が生じるので大量輸液を必要とするためその間は入院。
この治療は夫の身体に適したようで最初は効果が大だった。
この治療を6コース施行。(6コースまでしかできない)
2012年5月以降はTS-1内服を2コース施行。
効果は最初のみで、7月のCT検査では再発が確認された。
*セカンド治療 2012年7/23~8/20
パクリタキセル。
この薬は骨髄抑制が強く出る薬。脱毛もあった。
新たな薬を使うので入院して施行。
週1で施行する予定だったが、1回目施行後骨髄抑制が強く出てしまい、2回目は1ヶ月後にしかも減量して施行した。
3回目は外来で施行した。
8月末には痛みの増加と息苦しさで緊急入院。 8/24~10/19入院。
骨髄抑制がさらに強く出てなかなか改善されず、酸素投与。空気清浄機の使用等をした。
一時期は肺炎を併発し生命の危機を告知された。
幸い抗菌剤が効果を示すものが原因だったため改善する。
痛みが増強してきて緩和ケアチームの介入があり、抗不安薬を内服するようになる。
この頃は抵抗力もないので積極的な治療はできない状態になった。
家につれて帰りたいと願い、ソーシャルワーカー・緩和ケアチームの介入を経て訪問医・訪問看護の段取りをしてもらい、以後は在宅で看ることにしたのだった。
食事量が減ってきていたので、退院間近には胸にCVポートの埋め込み手術をしてもらった。
尿意を頻回に訴えていて排尿困難があったので体力温存のためにと挿入した尿留置カテーテルもそのままで退院することになった。
経口だったモルヒネも点滴のルートから入れるようになった。
病院同様、吸入や吸引ができるように福祉器具のレンタルをして、ベッドも介助しやすいよう位置を変えて、ハード面でのできることはすべてやった。
点滴(高カロリー輸液)交換や、モルヒネ薬の交換は私が、週1で入浴に合わせて針の差し替えを訪問看護師が、尿カテは2週に一度訪問医が交換してくれていた。
在宅では、病院ではできなかったお風呂も訪問看護師の力を借りて入れてあげることができた。好きなときに好きなものを食べることもできた。
テレビだって気にせず見ることができた。
なにより、一緒に笑ったり泣いたりといつも二人で、全てのことが大切な時だった。
11月くらいまでは少しずつではあるが食事も摂れていた。
歯磨き、髭剃り、清拭、更衣、トイレ介助・・・生活の全ては介助が必要だった。
三度三度キッチンに移動(車椅子で)し、エプロンをして食事をする姿を見ているのが嬉しかった。たった一口でも・・・
12月に入り、胃の腫瘤が触れるようになり、次第に腕や頚部、鎖骨上のリンパ節も腫大しているのがわかった。直に食事は通らなくなり痛みもさらに増強し不安も増大したようだった。
12月末には腹水も溜まり始め胃の腫瘤がわからなくなるくらいだった。
病院とのつながりもあり受診しては採血やらCTをしていた。その都度状態に関しては検査結果も含め夫には伝えていた。
腹水が溜まったら薬を使ったり穿刺して抜くことができるが自宅ではできず、病院に行くことになる。すると入院かもしれないなどと。
テレビのリモコンすら操作する気力もないほど辛さが増強して、年が明けると自分から病院に行くと言い出した夫であった。
2013年1月8日が受診日であったが、辛くて辛くて7日には病院に行くと言い・・・
そのまま入院となった。
入院して直ちに腹腔穿刺を施行。2L引けた。
腹水自体からは癌細胞が検出されず、引いた後もそう溜まることもなかったので、医師は低栄養からではないかといっていた。
高カロリー輸液から維持液に変更ししかも1日に500mlとなったが、腹水が増えることもなかったので、12日からまた高カロリー輸液にもどすことになった。
もしかしたら、もう一度家に帰れるかも知れないと医師は言っていた。
11日は身の置き所がないようで寝たり起きたりを繰り返していた。
辛そうだった。
吐血だったのか?!口の中が黒かった。
この日、病院に泊まっていれば・・・
ずっと傍にいてあげらなかったのが悔いて悔いて・・・
私らしくもなく夜中に何度も目が覚めた。その時になんでおやっと思わなかったのか・・・バカ
12日 主人の誕生日だった。
少しでもなめられたらとケーキを買っていつもより少し早めに病院に向った。
病室に入り夫の姿を見て動揺した・・・
すでに努力様の呼吸(肩呼吸)をして、呼びかけには発語がない。
一生懸命呼びかけた。
そうしたら・・・ 左目から涙がポロリと・・・
私のことがわかったんだね。。。 遅くなってゴメン・・・
その1時間後くらいには手をかすかに動かした。
そしてもう一度、呼びかけに対して今度は右目から涙がポロリ・・・
静かに静かに
眠るように
痛みや苦しさから解放された安楽にも見えた顔で
16時46分 永遠の眠りについた。
私の母と叔母と甥っ子夫婦に見守られて・・・
共に闘った日々に終止符が打たれた。。。
長い間
ありがとう
自分の闘病と主人の看病に没頭した1年5ヶ月が終わろうとしています。
この期間のことは辛いことばかりが思い出されます・・・
でも、二人で過ごした大切な時間。
一緒に闘った日々。
ずっと一緒にいられたことはありがたいことでした。
愛する人のことを書き残しておきたいと思います。
思い立ったらその時に・・・
同情をひこうとか、褒めてもらおうとかいう気持ちではありません。
辛い病と闘いながら精一杯生きた人がいた証として・・・
そして自分の中での覚書として。。。
今回は共に闘病した日々のことを・・・
愛する夫とは四半世紀以上の日々を共に過ごしました。
大きな病気をすることもなくいたって健康体でした。
だから・・・まさかこんな早くにお別れがくるなんて夢にも思っていなかった・・・
2007年に脊髄小脳変性症(神経難病)と診断される。
小脳は運動をつかさどる機能。手足の運動障害、構音障害、嚥下障害とさまざまな運動機能が低下していく病気。
この病気の特効薬はなく、進行を遅らせる内服薬とリハビリが唯一の治療だった。
一人では通院リハビリが困難になってきた頃から自宅で週2のリハビリを受けていた。
つかまり歩行が難儀になったが、2011年8月には車椅子で北海道旅行をしてきた。
私が行きたいといった函館中心。
少し嚥下が心配になってきていたが、美味しそうにお料理を食べていた。
温泉にも入ったしもちろん観光もした。
たくさんの人の手を借りてだが、旅行もできる、外に出ることができると二人で自信をつけたものだった。
2011年9月末頃から食欲が低下し腹部の異常を訴えるようになった。
我慢強い夫もいよいよ辛くなったのか、自分から病院に行くと言った。
10月2日に受診。レントゲン、心電図、CT、採血、エコーなどいろいろな検査の結果「大腸の憩室炎および腹膜炎」ということで緊急入院となった。
数日後にまず私だけ主治医となった内科医からICを受ける。
頭が真っ白になった。
病名「スキルス胃がん」 すでに腹膜播種をおこしており手術の適応ではない。
目に飛び込んできた血液検査の腫瘍マーカーは3桁を記していた。
治療は化学療法しかない。予後も伝えられる。
私の大腸手術が決定していたあとの告知だった。
自分だけ手術をして夫はできない。むごい現実だった。
多分・・・癌でも手術をして快復した私をみているので夫自身も手術ということを考えたと思う。 神様はひどい現実とそれに立ち向かう困難を私たちに投げかけてきたのだった。
当然、夫も夫の主治医も私は手術ができるのだからしなければいけないと言った。
夫は私の懇願で化学療法を受けることを承諾した。標準治療にのっとっての治療だった。
癌性疼痛軽減のため、内服でモルヒネも開始となった。
*ファースト治療 2011年10/13~2012年7/3
21日間のTS-1内服 + TS-1内服後7日目のシスプラチン投与。
シスプラチンは腎臓機能の問題が生じるので大量輸液を必要とするためその間は入院。
この治療は夫の身体に適したようで最初は効果が大だった。
この治療を6コース施行。(6コースまでしかできない)
2012年5月以降はTS-1内服を2コース施行。
効果は最初のみで、7月のCT検査では再発が確認された。
*セカンド治療 2012年7/23~8/20
パクリタキセル。
この薬は骨髄抑制が強く出る薬。脱毛もあった。
新たな薬を使うので入院して施行。
週1で施行する予定だったが、1回目施行後骨髄抑制が強く出てしまい、2回目は1ヶ月後にしかも減量して施行した。
3回目は外来で施行した。
8月末には痛みの増加と息苦しさで緊急入院。 8/24~10/19入院。
骨髄抑制がさらに強く出てなかなか改善されず、酸素投与。空気清浄機の使用等をした。
一時期は肺炎を併発し生命の危機を告知された。
幸い抗菌剤が効果を示すものが原因だったため改善する。
痛みが増強してきて緩和ケアチームの介入があり、抗不安薬を内服するようになる。
この頃は抵抗力もないので積極的な治療はできない状態になった。
家につれて帰りたいと願い、ソーシャルワーカー・緩和ケアチームの介入を経て訪問医・訪問看護の段取りをしてもらい、以後は在宅で看ることにしたのだった。
食事量が減ってきていたので、退院間近には胸にCVポートの埋め込み手術をしてもらった。
尿意を頻回に訴えていて排尿困難があったので体力温存のためにと挿入した尿留置カテーテルもそのままで退院することになった。
経口だったモルヒネも点滴のルートから入れるようになった。
病院同様、吸入や吸引ができるように福祉器具のレンタルをして、ベッドも介助しやすいよう位置を変えて、ハード面でのできることはすべてやった。
点滴(高カロリー輸液)交換や、モルヒネ薬の交換は私が、週1で入浴に合わせて針の差し替えを訪問看護師が、尿カテは2週に一度訪問医が交換してくれていた。
在宅では、病院ではできなかったお風呂も訪問看護師の力を借りて入れてあげることができた。好きなときに好きなものを食べることもできた。
テレビだって気にせず見ることができた。
なにより、一緒に笑ったり泣いたりといつも二人で、全てのことが大切な時だった。
11月くらいまでは少しずつではあるが食事も摂れていた。
歯磨き、髭剃り、清拭、更衣、トイレ介助・・・生活の全ては介助が必要だった。
三度三度キッチンに移動(車椅子で)し、エプロンをして食事をする姿を見ているのが嬉しかった。たった一口でも・・・
12月に入り、胃の腫瘤が触れるようになり、次第に腕や頚部、鎖骨上のリンパ節も腫大しているのがわかった。直に食事は通らなくなり痛みもさらに増強し不安も増大したようだった。
12月末には腹水も溜まり始め胃の腫瘤がわからなくなるくらいだった。
病院とのつながりもあり受診しては採血やらCTをしていた。その都度状態に関しては検査結果も含め夫には伝えていた。
腹水が溜まったら薬を使ったり穿刺して抜くことができるが自宅ではできず、病院に行くことになる。すると入院かもしれないなどと。
テレビのリモコンすら操作する気力もないほど辛さが増強して、年が明けると自分から病院に行くと言い出した夫であった。
2013年1月8日が受診日であったが、辛くて辛くて7日には病院に行くと言い・・・
そのまま入院となった。
入院して直ちに腹腔穿刺を施行。2L引けた。
腹水自体からは癌細胞が検出されず、引いた後もそう溜まることもなかったので、医師は低栄養からではないかといっていた。
高カロリー輸液から維持液に変更ししかも1日に500mlとなったが、腹水が増えることもなかったので、12日からまた高カロリー輸液にもどすことになった。
もしかしたら、もう一度家に帰れるかも知れないと医師は言っていた。
11日は身の置き所がないようで寝たり起きたりを繰り返していた。
辛そうだった。
吐血だったのか?!口の中が黒かった。
この日、病院に泊まっていれば・・・
ずっと傍にいてあげらなかったのが悔いて悔いて・・・
私らしくもなく夜中に何度も目が覚めた。その時になんでおやっと思わなかったのか・・・バカ
12日 主人の誕生日だった。
少しでもなめられたらとケーキを買っていつもより少し早めに病院に向った。
病室に入り夫の姿を見て動揺した・・・
すでに努力様の呼吸(肩呼吸)をして、呼びかけには発語がない。
一生懸命呼びかけた。
そうしたら・・・ 左目から涙がポロリと・・・
私のことがわかったんだね。。。 遅くなってゴメン・・・
その1時間後くらいには手をかすかに動かした。
そしてもう一度、呼びかけに対して今度は右目から涙がポロリ・・・
静かに静かに
眠るように
痛みや苦しさから解放された安楽にも見えた顔で
16時46分 永遠の眠りについた。
私の母と叔母と甥っ子夫婦に見守られて・・・
共に闘った日々に終止符が打たれた。。。
長い間
ありがとう