今日も勝手に長文で語る…(御免なさい)
料理をしていると、度々、火を弱めるのが遅れて鍋底を焦がしてしまうといったことがある。火加減の強弱にはタイミングがあり、味付けもそうだけれども、誤ると料理の出来栄えを大きく損ねてしまう…。それは慣れない食材のせいだったなのか、慣れない調理器具だったせいなのか…、それとも、単に不器用だったのかは、おいとくけれども…汗
大事なのは、いったん損ねてしまったものは、取り戻せるのだろうか…と言う話
料理であれば、1から作り直す、生き残ったところを救出する、ごまかす…(ぇ)、開き直る…(ぇ)、別のもので簡単に済ませる…があると思う。ケースバイケースといった感じだ。
人の歩みにおいても、乳幼児期や学童期、青年期前期、中期…、となっていくのだけれども、その時期その時期にある程度適切な火加減や味付けがあるらしい。厳密には個人差や個人の特性、環境差という食材や調理器具の違いがあるだろうから、そう考えると、子育てに関しても1つに決まったマニュアルが作れるわけもないのだけれども、それでも遅れが出てしまい、その影響が出てしまうと、それを取り戻すのは容易ではないことが想像できる。
例えば、小学校や中学校にほとんど行けなかったり、うまく過ごせなかった子が、後になってそれを取り戻せるのだろうか。
これに関してはその子が望んでいたかどうかによっても違うかもしれない。望んではいたけれども得られなかったパターンと、そもそも望んでなかったパターンとでは違うと思う。
その子がそれに満足してるパターンであれば大きな問題はないのかもしれない。
問題になりそうなのは、望んではいたけれど得られなかったパターン。
小中学校の話で言えば、もともと集団が苦手で1人でいるのが好きなパターンであれば、小中学校に行けなかったことだけで、大きな問題になるとはあまり思えない。むしろ行けなかったことが望んだ環境に近く、その子にとってはベターだったかもしれない。
逆に、集団は好きだけれども、なんだかの理由でそれが得られずに、孤立してしまう状況においてはどうだろうか。理由はそれぞれだと思うが、代替手段が見つからない場合、その子はその後もそれを求めて彷徨ってしまうという可能性も考えられると思う。側から見れば、集団で過ごすということは単にワイワイやってるように見えても、それ以上に人は人々から学んでいることも多いと思う。(適切な関係が築ければという前提はあるけれども…)
難しいのは、後から小中学校時代に戻ることは無理と言うことである。高校で仮想小中学校時代を求めることも可能かもしれないが、限界はある。体や脳が高校の年齢であるため、全く小中学と同じ体験にならないし、しかも、同級生に同じように考える人が何人いて、どのくらい繋がれて体験できるのかと言う問題がある。相対的に人数が少ないはずなので、相性問題も考えると、仮想小中学校フレンズみたいのを作れる可能性はそもそも低いはずである。それでもいろいろ試してみて、問題の半分くらいは解決していくんだろうけれども、残りの半分が問題になってくるだろうと思う。しかもそれによって高校時代で培うことが期待されるものがなおざりになってしまうのも見逃せない。もっとも、成長はステップのように下から積み重ねるのていくものなので、何かを完全にスキップして次に進むと言うのがうまくいかないケースも多く、代替手段やうまい技法を使ってでもステップを解決する(したことにする)必要はあると思う。ただ、自然に任せると、結果的に1周遅れ2週遅れと遅れが積み重なっていくような気もしていて、その遅れを成人期以降に持ち越してしまうと、自然に解決させるにはますます難しくなり、その後の人生にとってもあまり建設的では無くなってくるだろうなとは思う。
もちろん、人生において望んでたものが全て得られるのかというのは、誰にとってもあり得ないのだけれども、ただ、未成年時の脳がまだ発達している段階での特に精神面や社会面で望んでいたものが得られなかったというのはかなり痛手なのではなかろうかと思えることがある。(要素や程度にもよるとけれども…)
豪華な中華料理が一度は食べたかったけれども叶わなかったと言うのは、食べた人からすれば、人生に大きな影響があったりもするのだろうけれども、食べなかったからといって、人として大切なものが得られなかったまでに発展するケースはあまり無いと思う。(厳密には、家族でなら外食をしたという社会面や、1人なら自己決定をしたなどという良い側面はある)
逆に、精神や社会面においては、少し事情が違うのではないかと思うことがある。これらのものが得られそうで得られなかった場合の影響は、発達心理とかの世界では色々言われてることであって、当事者もなかなか悩むところになっていると思う。
料理の話に戻ると、下処理がうまく出来なかったために、後の味に影響を与えてしまうということはある思う。酢豚っぽいけれども、なんか違うとか…、このスープ、〇〇の風味がわからないけど…本当に○○スープ?とか…
( ま…程度にもよるけど…、調子悪くならずに食べられる程度にはなりたいよね…汗 by私の料理能力…)
人において、なんか普通と違うとか、○○がわからないというのは、多くの場合、経験の偏りやアクシデントからきてるのではないかと思う。厳密には発達障害の可能性とかその人のパーソナリティ特性とか言う話にもぶつかる可能性があるので深入りはしたくないのだけれども、それでも、経験値問題というのは決して小さくないと思うのが私の印象だ…
例えば仮に先天的な精神障害を抱えてたとしても、その子に合ったサポートをすることによってうまく経験値を積ませてあげることが、その子のその後のQOLに良い影響があるのは多くの人が知っていることだと思う。(その子に合った…と言うのところが難しいのだけれどもね…)
もっとも、精神面も社会面も恵まれて…という人はごく一部なので、程度の差こそあれ問題を抱えてしまうケースは潜在的には多いのかもしれない。(この程度差が問題なんだろうな…)
やはり環境差や個人差という多様性がある以上、子育てや子供育成のマニュアルは1つにまとめることはできないし、同じ意味で、何か一つの責任にしてしまうのも不可能で建設的では無い…(それに加えて「言うは易し行うは難し…」)
ただ「人は勝手に育つのだよ」という論理も時折聞こえるので、それはどうなんだろうと疑問を感じざる得ないと言うのが個人的な印象なんだよな…
(だからと言って過干渉になると、それも問題を引き起こすから、現実的には人を育てるって結構難しいよね…)
いろいろ吐き出してみたけれども、
タイトルの「遅れは取り戻すものなのか…」という個人的な回答は、どうしようか…
取り戻すものにもよると思うのだけれども、未成年の経験値というものであれば、
料理でいう、1から作り直すというのは前述の通り無理があるので…
それ以外、生き残ったところを救出し調理を続ける、もしくは、ごまかす…(ぇ)、開き直る…(ぇ)、別のもので簡単に済ませる…が回答になるのだと思う…
これは分野分野、要素要素のケースバイケースだろうから…それが具体的に何になるのかは模索しないとね…
私の場合、今回の文章にも現れているように、小学時代の人間関係にかなり不利なところがあったので、それを引きずってしまい(年齢がいったからと言ってすぐに解決する類のものでも無かったので)、中学や高校や大学の人間関係もうまく培えなかったし、いまだに影響がかなり出ている…
それでもツイッターやブログで、人との関わりを0にはしないようにしているのだけれども…、それなりに効果は出てるかなと思っている…(感謝)
一つ前の記事にも書いたのだけれども、家族の中だけで自分の中の精神面や社会性を成長させるのは、私の場合まだ難しい感じなので、いろいろ時間があるうちは模索したいと思う。
駄文長文に目を通してくださりありがとうございました…
今日の写真。
〜 ゴーヤの花 〜
「成長とはどのように起こるものなのか…」
初めてゴーヤの成長を観察してるんですが、ツル性の植物って面白いですね…