きゅー日記

日常ちょっとしたの出来事を掲載

新春歩きing;日本橋七福神と築地・本願寺!

2014-12-22 17:28:10 | Weblog

 

mapionウォーキング人形町七福神

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

mapionウォーキング築地・本願寺

 

 築地場外市場と築地本願寺

 

 

間新六供養等

間新六は四十七氏の一人で、本懐を遂げて本所松坂町の吉良邸から高輪泉岳寺へ引き揚げる途中、携えた手槍に金子50両を結びつけ、自身の供養料として本願寺の塀外から内へ投じたと伝えられています。こののち長府毛利甲斐守の邸に預けられ、元禄16年(1703年)2月4日、自刃。24歳の若さでこの世を去りました

 

付録;名所旧跡

日本橋白木屋

昭和21年の白木屋で、手前が日本橋。<北側から南側を撮った写真>

☆現在のコレド日本橋の位置です。

第1話 焼け跡からの出発

右側のビルが白木屋

1945年9月、東京での新会社創設のため、井深 大(当時37歳) は樋口 晃、太刀川正三郎などの仲間とともに疎開先の長野県須坂から上京した。日本橋の白木屋の3階、電話交換台があった狭い部屋が新しい仕事場だ。焼け残ったとはいえ、建物の周りのコンクリートはヒビ割れ、窓ガラスさえない吹きさらしの粗末な一室である。それでも、だんだんと事務所らしい様相を呈してきた。井深たちは念願の「東京通信研究所」の看板を掲げた。自分たちの持てる技術を世の中に役立てていきたいという目的はあったものの、正直言って どの仕事から手を付けてよいか分からない。最初の給料こそ井深が貯金をはたいて皆に渡したものの、会社を存続させるためには、ラジオの修理と改造である。研究所で短波放送の聴けるコンバーター(周波数変換器)敵の放送を聴くことができないようにと短波を切られたラジオが世間にはたくさんあった。これをスーパーやオールウエーブタイプのものに改良するのである。戦後の世界情況やニュースに飢えていた日本人にとって、ラジオの修理と簡単に取り付けられるコンバーターは喉から手が出るほど欲しい。そのため需要は結構あった。こうした井深たちの仕事が朝日新聞のコラム"青鉛筆"で紹介されると、されると、ますますお客が増えていった。しかも、これには余得があった。お互い気にかけながらも終戦のゴタゴタで消息の分からなくなっていた盛田昭夫(もりたあきお・当時24歳)から連絡があった、軍需監督官として井深と親交のあった盛田は終戦と共に愛知県知多郡小鈴谷にある実家に戻っていたが、ある日配られてきた『朝日新聞』に目を通しているうちに、井深の記事に気づき、すぐさま井深に手紙を出した。折り返し来た上京を促す井深の手紙を見るや、盛田は既に決まっていた東京工業大学の講師の件もあって、すぐに東京に出て、研究所に顔を出すようになった。これで、再び、井深と盛田の交際が始まった。

第2話 東京通信工業株式会社

1946年5月、左から盛田(当時常務26歳)と井深(当時専務39歳)

1946年5月7日の昼、総勢二十数名の小さな会社「東京通信工業」(現ソニーの前身、以下東通工)の設立式が始まった。社長には戦後すぐの内閣で文部大臣を務め、文化人でもあった井深の義父の前田多門(まえだ たもん)になってもらい、専務に井深、取締役に盛田が就いた。
 ところで、井深は新会社を発足させるにあたり、設立の目的を明らかにした"設立趣意書"を、自ら筆を執り、取締役の太刀川に預けていた。それを設立準備のゴタゴタにまぎれて、すっかり忘れていた。後に、太刀川が井深に、「こんなことを書かれたんですよ」と見せたところ、「なかなか良いことを書いたんだなあ……」と自ら感心する始末。
 しかし、設立式当日の井深の挨拶は、その"設立趣意書"に書いたことと寸分も違っていなかった。いわく、「大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう」
 資本金は19万円。機械設備とてない。お金や機械はなくても、自分たちには頭脳と技術がある。これを使えば何でもできる。それには、人の真似や他社のやっていることに追従したのでは道は開けない。何とかして、人のやらないことをやろう。この時から、既に東京通信工業の進むべき道は決まっていたのだった。

 日本橋

現在の日本橋は東京市により、石造2連アーチの道路橋として明治44年(1911)に完成しました。橋銘は第15代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟(キリン)は東京市の繁栄を、獅子(シシ)は守護を表しています。平成10年(1998)に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年(1999)5月には国の重要文化財に指定されました。

日本橋・日本国道路元標

 日本橋は、慶長8年(1603年)に初めて架けられ、その翌年、いわゆる五街道の制が確立されてからは日本の中心、江戸繁栄の象徴となりました。明治に入ってからは、この橋の中央が国内諸街道の起点と定められ、今も橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれています。しかし、今では橋の上を高速道路が走り、日本を代表する橋としては残念な風景となっています。現在の橋は、明治44年に開通したアーチ型石橋です。 また、江戸時代、御禁制や公示の掲示をした高札場が南詰にあって、この種の場としては最も有名でした。高札場跡は、高札をかたどった記念碑が建っています。

橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年(1967)に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年(1972)に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣の佐藤栄作の筆によるものです。

 

郵便発祥の地

 日本の近代的な郵便制度は、明治4年(1871年)前島密の創意により、まず、東京-大阪間で始まりました。ここは新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところで、昭和37年、前島密の胸像と記念碑が建てられました。

 

 

小網神社

530年の古社。建物は中央区文化財。強運厄除のご神徳。

 ご鎮座530年あまりの都内有数の古社。社殿・神楽殿他は中央区区民文化財に登録。例年、正月初詣は多くの参拝者で賑わい、はとバスも運行される。また毎年11月28日のどぶろく祭は関東3大どぶろく祭の1つとされ、参拝者で賑わう。本祭は5年に1回行われ、都内有数の宮神輿が渡御、大変な賑わいである。 日本橋七福神詣の1つ、当社は弁財天、福禄寿が奉育されている。東京下町八社祭り(中央-台東区8社)では強運厄除のご神徳。

http://www.koamijinja.or.jp/index.html

水天宮

藩主が江戸詰めの間、代々、江戸城にも近いこの上屋敷に滞在していました。
この屋敷の名物にはいくつかありますが、その第一が、文政1(1818)年、第九代頼徳(よりのり)公により久留米から分霊した水天宮であります。

江戸っ子たちの間で篤い信仰を集め、塀越しにお賽銭を投げ入れる人が後を絶たず、ついに毎月五の日には参拝を願う江戸庶民のため門戸を開放しました。
それが「どうでありまの水天宮」とうたわれ、安産の願いを叶えてくれるという評判で、有馬家と「情け深い」ことを掛けて「情けありまの水天宮」との洒落た言い習わしが広まり、「恐れ入谷の鬼子母神」と共に江戸の二大流行語となりました。

http://www.suitengu.or.jp/aboutus/index.html

 日本橋七福神

日本橋七福神巡りは、中央区日本橋にある神社8社から構成される七福神めぐりです。日本橋七福神巡りは、近年策定された七福神巡りで、出発点は定められていないといいます。江戸下町の伝統を持つ繁華街の中にある神社8社から構成されており、比較的短時間に巡拝可能です。

http://www.tesshow.jp/chuo/nihonbashi7_index.html

 人形町

人形町の歴史は、江戸幕府公認の人形芝居の結城座が、
寛永12年(1635)に旗揚げをした事に始まります。
江戸五座のひとつとして盛況を博し、
平成2年(1990)まで江戸糸あやつり人形劇を公演を続け、
国の無形民俗文化財、都の無形文化財に指定。
江戸時代に多くの人形遣いが居住していた事から、
人形町と呼ばれていたと云われます。
人形町が、正式な町名となったのは、昭和8年(1933)。

毎秋10月には人形市と人形供養が大観音寺で行われ、

約50社の人形業者が参加する。

甘酒横丁

明治の初め頃にこの横丁の入り口の南側に尾張屋という甘酒屋があったことから昔は『甘酒屋横丁』と呼ばれていた。
  当時の横丁は今より南に位置しており、道幅もせまい小路であった。
 明治の頃この界隈には水天宮様をはじめ久松町には明治座が櫓をあげており、近くには「末廣亭」「喜扇亭」「鈴本亭」の寄席が客を集めていた。

また穀物取引所の米屋町、日本橋の川岸一帯の魚河岸、兜町の証券取引所が隣接していることからもこの界隈が賑わっていた
 関東大震災後の区画整理で現在のような道幅になり、呼び名も『甘酒横丁』と親しまれ人々に呼びつがれている。

蛎殻銀座跡

今日の銀座二丁目に銀貨鋳造所である「銀座」が開かれてから約200年後、幕府は銀座の組織改革を行い、座人の御役取放を命じ、享和元年(1801年)日本橋蛎殻町に銀座を移しました。この地は、蛎殻銀座と呼ばれ、明治2年に造幣局が新設されるまで、68年間、銀貨鋳造が行われました。

東京メトロ日比谷線、都営浅草線 人形町駅

鉄造菩薩頭:大観音寺

総高170センチ、面幅54センチ。鋳鉄製です。元は鎌倉の新清水寺にありましたが、鎌倉時代に火災に遭い、頭部のみが掘り出されました。その後、鶴岡八幡宮にありましたが神仏分離令により、鎌倉を離れ、明治9年現在地に安置されました。 昭和47年東京都文化財指定。

東京メトロ日比谷線、都営浅草線 人形町駅

谷崎潤一郎生誕の地

谷崎潤一郎(1886年~1965年)は、明治19年、現在の人形町で生まれました。谷崎は、大正の中期までは、「刺青」や「少年」など、耽美と背徳の空想的な世界を華麗に描きましたが、大正の後期から日本的な伝統美に傾倒して、王朝文学の息吹を現代に生かした新しい境地を開きました。「蓼喰ふ虫」「春琴抄」「細雪」「少将滋幹の母」などの代表作があります。

日本橋人形町1丁目7-10

 

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