医療の犯罪 1000人の医師の証言 - 序章 威嚇的側面から 27P
威嚇的側面から
生体解剖に反対する著名な医師はいつの時代にもいたにもかかわらず、なぜ生体解剖は有益であるという欺瞞が生き延びてきたのだろうか。
事情を知らない人々は、きっとそう問うだろう。
今世紀前半の英国で最も著名な医学博士の一人、ウォルターハドウェンは、生体解剖に反対する医師たちの一人を扱った自著『デゲール博士の難事』お序文で、この現象の説明をしている。
ハドウェン博士の記述する状況は、そのまま今日にもあてはまる。
その一部を以下に引用してみよう。
医師は学生時代にものを考えるということを教えられない。
期待されているのは、他人の考えと同化し、権威に従うことである。医師としての全生涯を通じて、彼はその時代の最新の医学的流行を受け入れなければ、威信も地位も失うことになる。
公的機関への任命、切望する昇進は、彼が医学界の広くいきわたっている慣行を踏襲しなければ手に入れられない。
彼の資格に非難の余地がなく、尊敬をかち得るだけの資質をもっていたとしても、容認されたドグマお狭い圏内で考え、行動する用意がなければ、多かれ少なかれ、孤立した道を歩く覚悟を引き受けなければならない。
今日の一般的な出版物は、おおむね、医学界の正統的権威者たちによって支配されている。
うじゃうじゃいる“医事記者”は、最新流行の医学文献から示唆を得、編集長の後ろ高く控えている謎めいた権力の好みを満足させるような記事だけを提供するよう期待されている。
非正統的な見解は、まれな例外を除いて掲載を拒否される。
医学界の正統派が一般の人々にふるう支配力の強固さはたいへんなものである。
そこで、たとえば健康問題に関する発言はそれがいかに重要で興味あることであっても、もし衛生省の役人たちの賛同や裁可を得ていなければ、ラジオ放送すら許されないのである。
時たま、新しい医学上の“発見”が大騒ぎされることがある。
大衆の目は大手新聞の威厳ありげな見出しのとりことなる。
各紙誌に一斉に同じような見出しがおどり、各放送局も同じ内容のニュースを知らせるとあっては、出来事全体が仕組まれたものではないかと疑う余地すらない。
新発見の中身は例えば、新しいがん細菌の発見であったり、新血清、ワクチン、化学予防接種の発見等である。
また、旧来の疾病に関する装い新たな理論、ハエ、ノミ、シラミ、ゴキブリ、犬、猫、オウム、ネズミ、ヤギ等に対する新たな挑戦といったものである。
しかし、よく考えてみると、これらの“発見”にはまったく独創性が欠けていることが、やがて必ず判明するのである。
これらの華々しい発表の中には、いかなる真の発見もなく、いかなる独創的な医学的概念も広められなかった。
医学に対する恒久的な寄与も、医学の進歩も達成されなかった。
一般の新聞は医学関係者のセンセーショナリズムを宣伝すること以外、ほとんど何の役にも立ってこなかった。
近代医学の主張のすべては実質、ジェンナーとパスツールの理論(予防摂取)に基づいている。
彼らはほとんど神のように崇めたてまつられ、その意見に疑問を抱くことは神を冒涜するものとさえ考えられている。
<近代医学>の科学的基礎は見つかっていないのかもしれない。
しかし、そこから得られる金銭的な利益はいささかも損なわれてはいない。
それをあえて危険にさらそうとする者は誰でも厄介なことに巻き込まれるか、さらにひどい目に遭うことになるかもしれない。
ハドウェン博士がほのめかしている「編集長の後ろ高く控えている謎めいた権力」とは誰のことだろうか?
その答えは、少なくとも二冊の本の中に記されている。
一つはモーリス・ビールの『The Drug Story(薬の話)』で、1940年代に初めて出版され、その後36回以上も版を重ねたが、アメリカの本屋で本書をあえて扱う者はいなかった。
もう一つは、私の『世界医薬産業の犯罪(三交社。原題:Naked Empress’ 1993年刊)』である。
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