医療の犯罪 1000人の医師の証言 - 序章 社会学的側面から 29P
社会学的側面から
社会学的見地から見ると、人間は群れをなす動物で、流行やファッションが示すように、たいへんな真似好きである。
人間は精神的に自由である、と一般的に考えられているが、実際には、そうした例はきわめて稀である。
自立した思想をあえて求めたり、未踏の地に足を踏み入れることを避けたがる。
とりわけ、自分を形づくったドグマを振り払い、自らを群れから知的に引き離すことを恐れている。
人間は指導者、とくに父親のイメージをもつ人物に従うことを安全だと考える。
その場合、その人物の性格を親しく知ろうとしたり、また、その人物がどこへ自分たちを導いて行こうとするのかを思いわずらったりすることはない。
個人が行進中の群れに参加した瞬間、あらゆる思考プロセスはストップしてしまう。
実際、従うべき指導者がなく、自らの頭で考えることを余儀なくされるよりは、見知らぬ人間でもそれについていく方が自由だと感じるのである。
立憲国家において我々の社会を規範づけている成文法は、国民の望む体制の不可欠の部分を成している。
国民はそれらの法に充分満足しており、それはそれで正しい態度である。
しかしいつでもそうだというわけではない。
科学の分野におけると同様に、法の分野でも、法律がすたれたり、時代に逆行したりする。
大多数の人々の欲求や社会的、科学的変化に対応しきれず、数十年、場合によっては数世紀も立ち遅れたりする。
実際、法律は刻々と変化して、古くなったものは新しいものにとって代わられるが、これは多くの場合、大きな圧力がかかってはじめて起こることであり、時には暴力を伴い流血沙汰になる。
今日および過去の社会不安が、時には革命や内乱にまでいたったことを思い出していただこう。
明らかに、改革は、激烈な個人主義者、異端者、群れからの逃亡者、恐れを知らぬ、従ってつねに少数者グループの手によって始められた。
医学的根拠に基づいて生体解剖の廃止を提唱する人々の多くが本書に名が記されている。
しかし彼らは依然として少数派である。
これは何を意味しているのだろうか?
叡智というものは、頭数で決められるものではない。
現在、全世界がその真実を認め、当たり前だと思っていることのほとんどは、また、多大な恩恵をもたらしたことが証明されている偉大な社会改革のほとんどは、当初、小さな、ばかにされた少数派、時にはたった一人によって提唱されたのである。
いわゆる文明諸国の法律は、せいぜい法律の省略ということはあっても、医学研究ないしは、“科学”という口実があれば、ありとあらゆる動物への残虐行為を許可している。
しかし、医学は自らも認めるように厳密科学ではない。
そして厳密ではないという(ことを認める)科学は、じつは科学などではなく、一種の自己矛盾にしかすぎない。
従って、動物になされている残虐行為は、非科学的であるのみならず、違法である。
それにもかかわらず、多くの国々では、いわゆる健康管理機関によって制定された規則に、そうした非科学的で違法なテストが課せられているのだ。
どうしてこういうことが可能なのか?
おそらく、これは、多くの人々が善良にも無視している事実、すなわち、そのような規則を課しているほかならぬ健康管理機関そのものが業界に牛耳られており、後者は、動物に対してあてにならないテストを、それがあてにならないというまさにその理由で実施するように圧力をかけている。
という事実に帰することができよう。
動物実験は、新しい大規模な薬害が発生するたびに、いつでも製薬業界に必要なアリバイを提供している。
そのことに気づいている人はたいへん少ない。
それには理由がある。
多くの市民は、当局の規則はちょうど盗難や強盗を取り締まる法律のように、自分たちの利益にかなっている、と思っているからである(ロックフェラー製薬グループが今世紀初め、自社製品の消費促進のために教育委員会にいかに財政的援助を行ったかについては、『世界医薬産業の犯罪』に説明されている)。
現時点でも多くの人々は、生体解剖は物事の秩序維持のために不可欠だと見なしている。
人間の強い群居本能が、他の多くの重要な障害と並んで、早急な改革への道に、またもや立ちはだかっているのである。
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