最初に聴いてすぐに気に入った。
> 愛すべき人と出会い すべてを失って
> 砂漠のような心に 咲く花を愛と呼ぶ
愛とは失ってはじめてわかるもの。
まさにそういうことだ。
その意味で、この歌は、二人の間の「愛」の存在を
自明としているような歌へのアンチテーゼでもある。
たとえば、小田和正の「ことばにならない」。
> 終わるはずのない愛が壊れた
> 命尽きてゆくように
そこに本当に「愛」はあったのだろうか?
しかし、そんなことを思う一方で、
たとえば清水宏保なら、あるいは丹羽宇一郎なら、
そんな後ろ向きで軟弱なものは「愛」ではない、
と言うだろう、とも思う。
あなたのためになら、どんな苦労でもする。
この一言が、心から言えるようになるかどうかで、
人は二種類に分かれるのかもしれない。
もちろん、私には、そんなことは言えなかった。
私にできたのは、苦労の許容範囲で、
あなたの好きなことをする、くらいのことだ。
だから、私にできることは、STAYの歌詞のように、
あるいは、福山雅治の「最愛」のように、
喪われてしまったものを
悔みつつ思い続けることだけなのだ・・・
ついでに、「STAY」の詞の中には
> あの日から今日までに 僕が失くしたもの
> 全部あなたの中にあるから 並べながらこの道を
> あなたが歩いてきてくれたら 僕は
> 一つずつ取り戻しながら
> あの頃の僕になってもう一度 あなたと生きていたい
> 変わり果てた この街のような 心を砂漠に戻して
というフレーズがある。
最初に聞いたときは意味がよくわからなかった。
知恵袋でも質問している人がいるのだが、
今は以下のように考えている。
僕が失くしたもの=あなたの記憶、
だから、それがあなたの中にあるというのは当然だ。
あなたが(黄泉の国から?)
私のところを尋ねてくれたら、
失くしたものを取り戻して、
あの頃の自分に戻って、またあなたと生きてみたい。
たとえそれが砂漠のような心に
戻ることであったとしても。
これもまた、なんとも後ろ向きで軟弱ではあるが、
私にとってはとてもしっくりとくる心情だ。
> 信じあう それだけで 道がうまれてくる
ここはあまり好きではない。
まず第一に、他人=信じられない人
として出会い、信じあえるようになることは
そんなに簡単なことではない。
だから、反語的な歌詞なのかもしれない。
つきあっていると、
自分はこんなに好きなのだが、相手はどうなのだろう?
あるいは、今この瞬間にも相手が出て行ってしまったら?
今何をしているのだろう?というような疑いが生まれてくる。
しかし、それに耐えるということは、
「信じあう」というのと少し違うような気がする。
好き合っている二人の間というのは、
信じあうとか、あわないとか、そういう分別を
超えていると思うのだ。
それはフェロモンのパターンが一致している
とでもしか言いようのない、抗いがたい力だ。
たとえば森山直太郎の「愛し君へ」は
そのあたりをうまく捉えていると思う。
しかし、多くの人が書いているように、
そのことと「愛している」ということとは別のことだ、と思う。
少なくとも「恋」と「愛」とが違うくらいには。
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