内と外との区別をするのが嫌いだった。
内と外を分けると、どうしても、
内のためには外はどうでもいい、
という思考になりがちだ。
内と外を分けることが、村八分的ないじめや、
相手を人と思わない悲惨な暴力などが存在する
原因の一つであると思う。
仏教でも言われているとおり、
原理主義的には、分別は諸悪、虚妄の根源である。
自己犠牲を厭わない人でも、
集団になると、他者の利害も絡むので、
なかなか自己犠牲的なポリシーを貫くのは
難しくなる。
群れて内輪を作ったりせずに、
バンドみたいに、自由な自立した個人が、
必要に応じてユニットを組んで、
必要が終われば解散する、
それでいいではないか、と思ってきた。
しかし、内と外を分けないと、
なにかと生き難い面もある。
博愛主義には限界がある。
実際問題、体力や時間が大きな制約になる。
どちらも友達と思っているのに、
その二人が喧嘩しはじめて、
君は僕の味方(こちらの内輪)だよね、
と両方から思われたり、
言われたりすることも多い。
能力があって柔軟な若いうちはよいが、
歳を取ると、上のような流動的な人間関係だけでは
寂しくなってもくる。
結局、バンド的な流動的コミュニティーというのも、
その大きな輪の中に入れる人と
入れない人を分けているから成り立っている、
ということも見えてくる。
もちろん、出入り自由ではあるのだが、
「能力」ベースになるわけで、
能力が低ければ、実質的に参加できない。
それは、一定規模の組織体が質と安定性を
維持するためにはやむをえないことだ。
「地縁」や「宗教」などの共同体は、
「能力」ベースではない、という意味で優れている。
その代わり、内と外を強烈に分けることになる。
人間にとって、共同体、組織、とは何なのか?
それは、単に、ひとりではできない個別目標を
達成するためのもの、というわけでもないだろう。
もっと深い、人間存在の根源に触れるような
部分があるからややこしいのだと思う。
地域、組織、共同体にどうかかわり、
どうつきあってゆくのが良いのか?
いまだによくわからない。
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