考えたことのさらに続き。
自分=神 という認識について書いた。
犯人の加藤智大さんがブログに書いた
言葉などがメディアで紹介されている。
そこには、強烈な自己嫌悪が見える。
それは一見、自分=神という認識と
正反対のように思えるが、
往々にして、正反対のものは、
同じものの裏表だ。
自分=神であるはずなのに、
すべてがうまくゆかない。
だからこそ、そこに、
強烈な嫌悪や憎悪が生まれる。
この、「自分=神」という認識の源の一つとして、
情報化社会、俯瞰的情報が溢れている社会、
ということを書いたが、もう一つの源は、
消費社会であるように思われる。
今の社会では、多くの人は、
小さい頃から「消費者」として育つ。
自ら望んで何らかの社会的組織、たとえば
運動のクラブなどに所属することが無い場合、
分断された個としての消費者という経験が、
成長期の社会的経験のほとんどすべてになる可能性がある。
「お客様」、"Dear Customer" としてしか、
社会とかかわらずに生きてゆくことができるのだ・・・
社会的インタラクションの相手として
入れ替わり立ち替わり現れるのは、
本音を隠して、腰を低くして、
隙あれば物を売ろうという商売人たちばかり。
お客様は神様です。
(「ばーか、そんなはずないだろ?」)
字義どおり、神様扱いされる一方で、
その裏側にあるものもすっかり見えている。
自分の小さい頃を考えると、
子供が立ち寄るような店のおばさん、
おじさんたちは、また近所の人たち、
でもあった。
そこには、商売とはいいながらも、
ある種のコミュニティ的な側面が
まだ色濃く残っていたと思う。
私たちは、この20年くらいの間に、
たくさんの自由を手に入れた。
24時間、好きな時間に買い物に行く自由。
たくさんの商品の中から自分にあったものを選ぶ自由。
・・・
しかし、その代償として、
ほんとうにたくさんのものを失ってしまったのだ・・・
とあらためて感じる。
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