ネット上のレビューをいくつか見ていたら、
いろいろと考えさせられた。
一つ目は、こちらのレビュー。
批評家の杉田俊介さんが、作品への違和感について書いている。
最後のページに、筆者みずからが以下のように要約している:
『天気の子』の二重の欺瞞とは、
(1)「狂った社会」を大人たちが自覚的に変革したり
改善したりするという可能性を最初から想定していないこと、
(2)しかも、大人たちは堕落した存在であると断定することで、
責任を回避し、若者たちの口からこの世界はそれでも「大丈夫」だと言わせてしまうこと
つまり子どもたちの決断や自己啓発の問題として、見かけは大人の立場から
若者を応援し、希望を託す、という態度をとりながら、
全てを押しつけてしまっていること。
「僕たちは大丈夫だ」というラストは、
無責任な丸投げ、押しつけだ、というもの。
セカイ系ではなく、社会としてみんなで
しっかり考えることを放棄してはいけない、
という、シャカイ系、とも言える意見。
なるほど、とも思ったが、
その一方で、新海さんは、そもそも、
大人の力なんか、全く信じていないのではないか?
逆の方向の意見もあった。
「若月圭太のアニメ映画感想ブログ」
7月20日のエントリー。
一見、セカイ系とも思われる新海さんだが、
この作品では、セカイ系を全否定している。
Wethering with You という 英語の題名に触れて、
この映画は、むしろ、一人の人柱に押し付けずに、
社会全員で取り組め、というメッセージなのだ、と言う。
こちらも、なるほど、ではあるのだが、
やはり、新海さんは、セカイ系でも、シャカイ系でもないところに
いるのではないか、と思う。
つまり、一人の人柱であるにせよ、社会全体で取り組むにせよ、
そもそも、「社会が変えられる」というようなこと自体を
あまり信じていないようにも思われるのだ。
映画の中でも「天気は天の気分であり、(中略)
我ら人間は湿って蠢く天と地の間で振り落とされぬようしがみつき
ただ仮住まいをさせていただいているだけの身」
というセリフがある。
ラスト付近の須賀さんの「思い上がるな」
という言葉もある。
そもそも、人の手で世界が変えられる
ということは思い上がりも甚だしく、
そういう思いこそが、逆に、世界を滅ぼす、
ということはよくあることだ。
温暖化による異常気象も、
元はといえば、生活を良くしよう、
という思いによるわけだし
原発や、海洋プラスチックの悲劇も、
自分の信じる神のためのテロもまた、
そういうものではないだろうか?
世界を変えよう、などと考えず、
目の前の人と一緒に生きることだけを考えるほうがずっと貴い、
ということを、新海さんは訴えているように思える。
最後の一つは、こちらのレビュー。
エヴァンゲリオンの文脈において、「天気の子」を位置づけている。
そもそも、アニメーションの主人公は、
鉄腕アトムも、鉄人28号も、
スーパージェッターも、ガンダムも、みんな、
悪から世界を救うために喜んで戦うものだった。
ガンダムから始まり、エヴァンゲリオンに至り、
なぜ自分が戦わなくてはいけないのか?
と悩む主人公が導入された。
それでも、主人公は世界のために戦ったのだが、
エヴァンゲリオンの「破」では、
綾波レイ > 世界、というところに到達したのだ、
という
(見ていないのでわからないし、その後、
「シン・ゴジラ」では、また、社会全体で
悪に立ち向かう、というお話を
作っているように見える。)
この観点から「天気の子」を見ると、
やはり、セカイ系でも、シャカイ系でもなく、
それらを超えたところにあるのではないか、と思う。
それは一つには、私もそうだが、 新海さんが、
戦争を知らない世代である
ということがあるかもしれない。
戦争は人為による悲惨な事態の究極であり、
そういう悲惨さを避けるために、
社会として取り組み、
必要なら社会を変える必要がある。
でも、それをするために一番良い方法は、
「社会を変えよう」とするのではなく、
目の前にいる人と、何も足さず、何も引かずに
ただ生きることを強く願うことなのかもしれない。
* * *
とはいえ、帆高は、それでも、
「あの日に僕たちは世界を変えてしまった」 と考えて、
その上で、「僕たちは大丈夫だ」と陽菜に言うのだが・・・
最後に二人が出会ったときに、
陽菜は何を祈っていたのだろうか?
単純なようで、なかなか深い。
もっといろいろなレビューを読んでみたい。
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