「すずめの戸締り」は
「君の名は、」に比べると
ずっとわかりやすい、
などと書いたのだが、
この藤田直哉さんの解説記事を読んで、
考えがかなり変わった。
地震を起こすミミズを抑える、
宗像草太に恋をする、など
を通じて、鈴芽が成長する、
というのはよくある話だ。
> 「アガルタ」、つまり、人が憧憬し追い求めてしまう、
> この世に存在しない夢や幻の象徴は、「閉じられる」。
> それが大人になるということだ。
> 成熟するということである。
> あるいは、成熟した国家になる、
> ということではないか。
> 本作は、喪失を受け止めて、前向きに、
> 必要なことをしようと、訴えかけているのだ。
震災で母を喪った鈴芽は
そのイメージを追い求めて
成長できずに停滞の中にいる。
それをどう救済するのか?
この作品がユニークなのは、
この記事に書かれているように、
未来の自分が過去の自分を救済する
という形をとっていることだろう。
> 新海はこのように綴っている。
> 「他者に救ってもらう物語となると、
> まず救ってくれる他人と出会わなければいけない」(*2)
> が、そもそも他人と出会えなかったら、そこで終わりだ。
> しかし、誰でも「自分自身には出会える」。
> だから、誰かに助けてもらうのではなく、
> 自分で自分を救う、セルフケア的なメッセージを
> 込めた物語にしたのだと。
これは素晴らしいアイデアだ。
エヴァンゲリオンも同じく
喪失からの救済の物語だが、
そこでの救済は、アスカやマリ
との出会いに依存していた。
そこにモヤモヤとした
違和感があったのだが、
シンジは、自分で自分を
救うべきだったのだ。
未来の自分、とは、つまり
なりたい自分で、希望、夢、
と言ってもよいはずだ。
人を救うものは、
未来の自分への希望であり、
それがあればこそ
周囲の人々もその成長を
助けることになる。
新海誠監督と同様に、
喪失からの救済を繰り返し
描き続けている、村上春樹さんの
「ダンス・ダンス・ダンス」
の中で羊男が言う。
「ここでのおいらの役目は繋げることだよ。
(中略)あんたが求め、手に入れたものを、
おいらが繋げるんだ。」
「あんたは自分が何を求めているのかが
わからない。あんたは見失い、
見失われている。何処かに行こうとしても、
何処に行くべきかがわからない。」
まず、自分が求めるもの、
自分のなりたい未来があって、
それを誰かが繋げる。
人の成長、喪失からの救済、
とはそういうものなのだろう。
そして、大きな喪失を経験したりして、
自分が何を求めているのかが
わからなくなったときには、
「踊り続ける」しかない。
> 現実に存在しない「母=理想世界」を
> 追い求めるのをやめて、その心情を
> 「閉じよう」。「鎮めよう」、と。
> 喪失を受け止めて、前向きに、
> (今)必要なことをしよう
クローズアップ現代では、
震災で妻を失った男性が
「どういうつもりでこんな映画を
作ったのか?」と問うていた。
そういう人々に対して、
> 喪失を受け止めて、前向きに、
> (今)必要なことをしよう
というのは確かに
あまりにも傲慢だ。
でも、新海さんも言うとおり、
誰かの心を動かす、ということは
傲慢で乱暴なことなのだ。
きっといつか、その時が来れば
この映画が、あるいはこの映画に
続く作品が、何かの救いに
なることがあってほしい。
それは「祈り」に近いもの
なのかもしれないと思う。
いろいろな細部に
ついてゆけないものはあるのだが、
自分が自分を救う、という構造
その一点だけでも、
この作品は十分に輝いている。
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