自分に正直に、仮面を取って❗

~その時の感じた思いを大切にしたいだけ~

韓国映画トガニの衝撃❗

2019-09-22 16:34:00 | 日記
韓国映画トガニの訴え、それは何?
現在、日本と韓国との間では、相変わらずだが、歴史問題も絡んで、以前にも増して、いざこざが絶えない状況にあり、果たして、今後両国が本当に手を携えてやっていけるのか、危惧するばかりの自分だが、それとは別に、何気なく目に留まってレンタルして来た韓国映画のトガニ。

正直、震撼するほどの衝撃が自分の身体を突き抜けて、この世の不条理に対する怒りと悲しみが、身体の芯から込み上げた。

この映画。実話に基づくドキュメンタリー面もある為か、金まみれの薄汚さと薄っぺらな社会正義とが、やけに強調されて、思わず「ぺっ」と唾を吐きたくなった。

それくらい、はっきり言って、後味が悪いと言うか、逆に言えば創られた勧善懲悪のハッピーエンド映画ではないところが、反って、観る者にそれだけ強い印象を残すのだろう。もちろん、例に漏れず、自分もその一人となった。

そして、この映画が韓国国民の心を動かし、実際に、通称トガニ法という法律が制定されて、実話の加害者達に重罪が課せられたという。

ただ、自分が思うに、こういう類いの、社会的弱者が食い物にされる事例は、氷山の一角であり、この根強く、かつ、普遍的な問題は、自分も含めて、一人一人が真摯に向き合わねば、解決の方向には決して進まないに違いない。

人間の人間たる真実価値は、「実った稲穂が、頭を垂れる。」がごとく、こういった社会的弱者に保護の手を差し伸べることができるか否かにこそ、社会的強者とも言っていい、いわば金持ちの、理性の尺度が計られると思うから❗


人間の脆さと強さ、本当の姿とはどちらか?

2019-09-21 21:38:00 | 日記
人間の脆さと強さ、本当の姿は?
松坂桃李が主演した話題作である不能犯を観せてもらった。見つめるだけで、相手をマインドコントロールしてしまう役所だ。その目力冴える、イケメン俳優の新境地とも思える迫力だ。

映画の中では、人間の内なる殺戮欲求に応じて、殺人、つまり、刺客の仕事を請け負う。しかし、これは、現在の刑法では、決して裁くことができない犯罪。というか、それが如何に犯罪を目的としたものでも、そもそもそれは、実質的には結果発生不能な法律的にはどうにもできない行動。

だから、仮に、彼が何人死に追いやろうとも、何の罪にもならず、警察も手を出しようがない。それこそが、犯罪の成立が不可能という意味での「不能犯」。映画の中では、犯罪の「立証が不可能」という意味で、使っているが、それは必ずしも正確ではない。

まっ、それはどうあれ、興味をそそられたのは、主演の松坂桃李の迫真の演技と、この映画のメインテーマとも呼べる、人間の「生来的性質」だ。

このことは、映画の中では、主演の松坂桃李が、沢尻エリカ演じる、女性刑事の質問に答える形で、「知りたいんです。人間の脆さと強さ、どちらが本当の姿なのか?」と、即答することに象徴されている。

そして、自分に刺客として殺人を依頼したが為に、人間の生来的本質?を表すような出来事が次々と起きるその度に、「愚かだね~人間は。」と、繰り返し口走る。

要するに、感情に任せ後先考えずに、安易な行動に出てしまう、人間の脆さを揶揄しているのではないのかと、自分は解釈してしまう。

結局は、人間なんて、いくら偉そうに、万物の霊長だなどと、他の動物に対してでも、高を括っているが、人類が延々辿って来た歴史を知れば分かるとおり、無意味な殺しあいたる、戦争ばかりが無惨に繰り返される。

それにも懲りず、未だに、世界各地で武力闘争をやっている。こんな野蛮な人間の姿を目にすると、この映画ではないけれど、「本当に、愚かだね~人間は!」って、自分は嘆く気持ちを隠せない。本当に人間はこんなにも愚かな存在なのかとね。


寂しがる愛猫の姿に胸が詰まって…

2019-09-20 19:09:00 | 日記
三度目の母の入院。最愛の母だけに、いくら手術が上手くいき、術後が順調だと、息子の自分が胸を撫で下ろしてはいても、本当に心配しているのは、身近な家族だけではないようだ。

それが分かったのは、母が入院した後の愛猫の行動の違いだ。

重度の心不全まで患っている母が、二人だけで生活していた、父亡き今、独りきりでは、何かあっては手遅れだという思いで、近場に妻子と居を構えている自分が、数年前から夜は母と共に、昼間は妻子と共にという、二重生活?を続けている。

昼間、なんとか母独りでも大丈夫だと思えるのは、幸運なことに、昼間は、店を開けて、お客様がぽつりぽつりとは来てくれるから、日中仕事に行っている間は、お客様が、いわば、自分の代わりに、母の身を案じてもらえると期待できるからだ。

前置きが長くなったけど、母の身を案じているのが、身近な家族だけじゃない、そう思ったその訳。それは、生まれた時から、特に母が可愛がっている愛猫の変化。これは、母が入院したその夜から、明らかに始まったのが、体感できる。先ずは、鳴き声だ。そもそも、普段はあまり鳴かない愛猫が、まるで、誰かを呼ぶように、にぁ~にゃ~やたらと叫び声を挙げ立てる。それも、古いけれども広いばかりの家の中で、あちらこちら動き廻っては、四方八方キョロキョロしては、まるで何かを探すようにだ。その上、声の質まで全く違う。不安を抱えた子猫のようだ。明らかに声質が異なるのだから、本当に不思議な程だ。

毎晩自分も泊まっているので、いつもと様子が違うのが、手に取るようによく分かる。

テレビ番組などで、自分は動物の言葉が理解できるという人の話を聞くけれど、それって決して嘘ではないのかも知れない。そう感じる瞬間だ。

人間のみが、感情や言葉を使い分けられる、なんていうのは、やはり人間から見た、単なる驕りに他ならないに違いない。実際、人間に最も近いと言われるチンパンジーに限らず、身近なところでは、カラスの賢さは、大学での研究対象にもなっていることで、それは証明されているのではないか?

となれば、他の動物だって例外ではないはずだ。そのことは、愛猫と常に一緒にいて、痛いほど肌身に感じる。よく、世間では、猫は、我が儘で、自分が食べたい時やじゃれたい時など、気に入った時にしか反応しないと言われるが、私にすればそんなことはない、って強く言いたい。

例えば、猫は昼寝することが長い動物なので、確かによく昼間は寝ているのが、うちの愛猫は、その代わり、夜は、まるで夜警番のように、じっと黙って座ったまま、目を見開いて周囲の状況を、警戒しているかに思えて来る。というより、確かにそうに違いない。うちの愛猫などは、ネズミ取りの名人でもあり、夜中に何度もネズミを取っては、ガタガタ騒いでいたので、その度起こされた。

そして、驚くことに、何もない夜は、ただ黙って静かに座っているが、早朝になると、本当に決まった時間に、自分のところに来て、にゃ~と言って起こしてくれる。だから、目覚まし時計⏰なんかは、要らないのだ。その上、自分達が呼ぶと、にゃ~と言って返事をするのだから、正に、人間の言葉を理解しているとしか、考えられない。

こんな可愛い愛猫が、母の早い帰りを待っているのだから、母も気が気ではないだろう。そして、母自身も、一刻
早く愛猫に会うことを願っているに違いない。

では、ラグビーW杯🏈を楽しむか(^-^)

最愛の人へ

2019-09-18 22:31:00 | 日記
今日、最愛の母が、肝臓がんの手術を受けた。これが三度目だ。ただ、幸いにも、転移のない早期がんであるため、切開しない、カテーテル手術の方法で、母の年老いた体には、極力負担の少ないものだった。そして、手術は順調に行われて無事終了した。息子の自分が、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもない。

ちなみに、母は、重度の心不全も患っているため、切開手術には、そもそも耐えられない身体なのだ。その意味でも、カテーテル手術で、治療できることは、本当に幸運だった。

重労働を強いられる家業を持った母は、自分にとっては、その身を削って、自分と弟とを育て上げてくれた、感謝しても、到底しきれない、正に最愛の人だ。間近でその作業を毎日見てきた自分には、机に座って事務をする自分とは、全く違って、如何に大変酷なものであるかがよく分かる。

そして、今から4年前まで、同じく、その身を削って、二人の息子達を育て上げてくれた、もうひとりの最愛の父は、既にこの世に存在しない。

56歳の時に、自宅の階段から転げ落ち、脛椎損傷による全身麻痺に陥った。それでも、なんとか家業に復帰し、その人生掛けた、生き甲斐の絵画の製作にも、もう一度挑戦したいって思いで、母と二人三脚で辛いリハビリにも耐え、医者からは「良くなっても車椅子でしょう。」って告げられたにもかかわらず、なんとか不自由ながらも、立って自分で歩けるまでに快復し、驚くことに、仕事も絵画もできるようになった。正直、この時は、自分もびっくりしたし、その努力と夫婦愛には、本当に頭が下がる思いだった。そして、父は、常々、社会貢献という言葉を口にしていて、縁有っての、東日本大震災の被災者からの、絵画の作成依頼にも、快く応じては、夢中で書いた絵を送っていた。

そんな、この世界中で、誰よりも尊敬して止まなかった父が、思いもよらない、いわば、医療ミスの形で、急逝した際の、自分自身の動転具合は、今思い返しても、この身体を無理矢理に掻きむしりたくなる程、信じ難い現実を突き付けられたのを、この体と心が覚えていて、思い起こす度に、目頭から熱いものが、うっすらと頬に流れ出る。

だから、自分にとっては、最後にただひとりこの世に残った、もうひとりの最愛の人、母に対しては、何としてでも、今は亡き父に起きたようなことだけは、絶対に起きないことを願いながら、精一杯のことをしようと、強い覚悟を決めているのだ。その思いは、東京で忙しく仕事しているため、なかなか顔を出せない弟も、きっと同じだろう。

だから、今も、最愛の亡父の遺影に向かって、誰よりもかけ換えのない母が、今までのように、元気な笑顔で、戻って来てくれることだけを祈っていた。

最愛という気持ちは、これが誰にとっても、本当のところではないのか。自分は、そう信じる。そして、詰まるところは、自己犠牲をしてでも、替われるものなら、自分がその身になっても、なんら後悔しない、そういうものではないだろうか。