『川崎・中1殺害事件』というタイトルにはしなかった。
いろいろいわれている情報では、
被害児童は母子家庭の子どもであった、ということ。
加害者も離婚再婚のあった家庭で母親は外国人。
幼少期に虐待を受けていた、とのこと。
加害者もまた、被害者なり、と思う部分はある。
しかし、だからといって許されないことをした。
私は元々『死刑反対論者』である。
そもそも『死んで解決』というのが腹ただしい。
時として生きていく方が辛いことはあろう。
結婚していた時は元夫に冗談半分、
「ママの言っていることはイスラムの拷問刑しか適応できない。」
と言われていたが、私は『生きていくことの苦痛』の方が
苦痛のような気がする。
とはいえ、犯罪の後の刑には二つの意味合いがあり、
一つは『贖罪』であり、罪をあがなうことなのだが、
もう一つは『再犯防止・更正』である。
殺人のような罪を犯した場合、
よく言う「人を殺したら死刑」というのは贖罪、の方だと思う。
「死んで罪を償う」という意味である。
若い頃はこういう考え方しか考えられなかった。
しかし、最近は「更正・再犯防止」の視点から『死刑』を考えると
「死ななきゃ治らない」のである。
更正の余地がない、再犯防止が出来ない、となると、
一般人を守るためには
「死んでもらうしかない。」ワケで、
そういうのの方が実は意味合いが大きいのでは?と思うようになった。
というわけで、こういう『死ぬしかない。』という人は
一生かけて、私は『実験台』になるのが
ふさわしいのではないか?と思うようになってきた。
『人体実験』といえば、聞こえが悪いが、
『研究に貢献』といえばいいのだろうか。
つまり、『脳科学』でも『心理学』でも『発達』でも『教育』でも
何でもいい。
こうした悪質な犯罪は世界各国にあるわけで、
その防止・予防をするために、
徹底的にその人を調べることに一生尽くせ、ということだ。
再犯防止につなげるための研究に使える人材(?)なんか、限られている。
犯罪者こそ、その役割がふさわしい。
どこがどうなったら、どこでどうしたら、
犯罪になるのか?犯罪にならないのか?
それが分かれば、防止出来るんだから、それしかないように思う。
当然、『無期懲役』ということだろうけどね。
いろいろいわれている情報では、
被害児童は母子家庭の子どもであった、ということ。
加害者も離婚再婚のあった家庭で母親は外国人。
幼少期に虐待を受けていた、とのこと。
加害者もまた、被害者なり、と思う部分はある。
しかし、だからといって許されないことをした。
私は元々『死刑反対論者』である。
そもそも『死んで解決』というのが腹ただしい。
時として生きていく方が辛いことはあろう。
結婚していた時は元夫に冗談半分、
「ママの言っていることはイスラムの拷問刑しか適応できない。」
と言われていたが、私は『生きていくことの苦痛』の方が
苦痛のような気がする。
とはいえ、犯罪の後の刑には二つの意味合いがあり、
一つは『贖罪』であり、罪をあがなうことなのだが、
もう一つは『再犯防止・更正』である。
殺人のような罪を犯した場合、
よく言う「人を殺したら死刑」というのは贖罪、の方だと思う。
「死んで罪を償う」という意味である。
若い頃はこういう考え方しか考えられなかった。
しかし、最近は「更正・再犯防止」の視点から『死刑』を考えると
「死ななきゃ治らない」のである。
更正の余地がない、再犯防止が出来ない、となると、
一般人を守るためには
「死んでもらうしかない。」ワケで、
そういうのの方が実は意味合いが大きいのでは?と思うようになった。
というわけで、こういう『死ぬしかない。』という人は
一生かけて、私は『実験台』になるのが
ふさわしいのではないか?と思うようになってきた。
『人体実験』といえば、聞こえが悪いが、
『研究に貢献』といえばいいのだろうか。
つまり、『脳科学』でも『心理学』でも『発達』でも『教育』でも
何でもいい。
こうした悪質な犯罪は世界各国にあるわけで、
その防止・予防をするために、
徹底的にその人を調べることに一生尽くせ、ということだ。
再犯防止につなげるための研究に使える人材(?)なんか、限られている。
犯罪者こそ、その役割がふさわしい。
どこがどうなったら、どこでどうしたら、
犯罪になるのか?犯罪にならないのか?
それが分かれば、防止出来るんだから、それしかないように思う。
当然、『無期懲役』ということだろうけどね。