旧ブログ、旧々ブログからの愛読者の方もいらっしゃると思うんだけど、
私はプチ姫が1年生の頃からずーっと
『学童クラブ父母連絡協議会』の役員をしている。
全国的な組織であり、まず、各学童に父母会がある。
その次に市区町村レベルで『父母連』がある。
プチ姫の場合、Q小第2クラブに所属しているので、私はQ小父母会に所属している。
そのQ小の代表として、何名かが『戦区父母連』の役員となる。
その代表が都道府県レベルの父母連役員となり、
東京都だとその上が『都連協(区部)』『三多摩連協(市部)』となる。
そして、最終的には『全国学童クラブ父母連絡協議会』となっている。
『全国学童保育研究集会』も毎年、行われている。
私は父母連役員を6年間やってきた。
1年目は『事務局役員』、2年目から執行部(戦区父母連のさらに中枢部)に入り、
2年目は『全国研』が東京都だったので、『全国研』
3年目は『子どもまつり』の責任者で、
4年目以降は全体からは外れて、『障害児諸問題』だけ関わっている。
まあ、どこも役員決めでモメると思うけど、
私は好きで立候補して、役員をやってきたので、割と好きにやってきたし、出来たと思う。
3年目の『子どもまつり』は他団体と一緒になって開催するため、
その制約のため、離婚後に出来たことだし。
学童父母連は『学習』『交流』『交渉』を3本柱に活動している。
「ひとりぼっちの子をつくらないために
ひとりぼっちの親をつくらないために」活動している。
『学習』もしてきたし、『交流』もやってきた。
でも、毎年の大きなイベントの一つは『児童課』との『意見交換会』という
『交渉』だろう。
毎年、毎年、私たちは戦区に訴えてきた。
私たちはすごく頑張ったと思う。
全体的な大きな成果は
◎入学式の日の高学年の保育
◎朝8:15~の開所
◎定員越えの新クラブ創設、だと思う。多少の問題は残しているけど。
指定管理者制度は勝手に導入されたが、それによって延長保育も一部、可能となった。
まあ、これに関してはまだいろいろな問題が残っている。
障害児問題としての大きな成果は
◎確実なる介助員の配置(グレーゾーンの子も必要があれば配置可能となった)
◎2名枠の弾力的緩和
◎障害の理解を深めるための研修の実施
あたりだろうか???
私が役員をやる以前に3年生までだった保育が
『障害児は6年まで』となって、弾力的に4年、5年、6年と伸びていった。
プチ姫が1年生の時に正式に6年までとなり、
でも、だからといって、そんなに6年まで利用しないんだけどね。
私たちの時代は本当は私がやりたかったのは
◎特別支援学校在籍児童の入会
◎グレーゾーンの子の希望者は6年までの入所
なんだけど、そこまでは実現できなかったなあ・・・残念。
特に児童課は門前払いしていたからね、今まで。
ただ、今年の成果はそれを認めたことかなあ???
「今までは時代背景もあり、障害福祉課と連携していなかった。部が違うから。
22年から研修をし出して、特別支援教育について学んで、部を越えての連携がはじまった。」
「特別支援学校の人たちも困っている。
今までは児童課の勝手な判断で学校で認めていなかった。これからはその子どもを見る。」
というような内容の回答を引き出せた。
今まで認めずにかわしてきたことを『認めた』のは成果だよね。
そして、私は今回、最後の仕事として、はじめて、
『卒室後』のことを発言した。
「2、3歳の精神年齢しかない、一人で留守番が出来るわけがない子が、
無理矢理卒室させられてしまう。
必ずしも学童クラブがふさわしいとは思っていない。でも、児童課主体で
『障害福祉課』と連携をとって、卒所後のサービスを考えて欲しい。」と。
コレを児童課に伝えるのが、私の最後の仕事だと思ったから。
ただ、今年のメインは条例文の『入閣資格』の『欠格事項』として、
『心身に重い障害のある者』を削除して欲しい、だったけどね。
今まで特別支援学校の子が希望して、
ダメで「この条例にあるから」と言われてしまえばそれまでだから、
そこを「障害を理由で差別するなんて、時代遅れで恥ずかしい」という理由で削除を申し入れた。
回答は「児童課では条文を変更することは出来ない。」とのことだけど、
私は「児童課で出来るとは思っていません。他の市区町村の条例等を参考に
児童課主体で働きかけて下さい。」と訴えた。
会長も「議員さんも聞いて下さい。」とアナウンスを入れてくれた。
あー、この人は長年、私と一緒にやってきた人だった・・・
(時々、抜けるけど・・・(^^;))
PTAではよく「魔法学級は忘れられる」というが、学童は忘れられない。
必ず、『全体要求』の真ん中らへんに入れてくれる。
まあ、私もそれなりのことをしてきたけどね。
まあ、頑張ったよ。
最後のお仕事、頑張りました。
私たちの時代はココまでやりました。
後は、次の時代の方、よろしくね。
タダ・・・一言!!
私はプチ姫のことでは何も困っていない。
ずーっと同じ介助員の先生がマンツーマン、
2名枠に泣かされて、追い出されたり、他のクラブに行け、という話は出たこともない。
私が話してきたから、障害の理解もそこそこあり、
健常児との合同保育を仲良くやれて、
特別支援学校に入れなかったせいもあり、学校種の苦労もない。
6年間、安心して、楽しく学童生活を送れたよ。
ただ、他の子どもたちのためにだけ、頑張ってきたと思う。
まあ、逆に言うと、プチ姫に手がかからなかったから
他の子のために出来たんだけどね。
あっ?!そういえば、児童課に「ありがとうございます。」って言わなかった・・・(^^;)
卒室の時に言おう。
今後は『学童大運動会』と『子どもまつり』があるけれど、
それは、参加して、遊ぶだけ。
私の仕事としては終わったと思う。
そして、そのあと、いつもの飲み会。
とある学童の会長がズボンにケチャップを垂らして、汚してしまった。
プチ姫は帰宅後、「ズボン、ケチャップで汚しちゃったね。」と話していた・・・(^^;)
こうして、私はプチ姫も一緒に参加することも多い。
ショートに預けたり、隣にいたり、保育室にいたり、いろいろだけど、
プチ姫は母一人、子一人のため「プチちゃん」と呼ばれている。
子どもが二人以上いると、「お子さん」になるよ。
飲み会によく一緒に参加しているため、「プチちゃん」と呼ばれて、
みんなにかわいがられている。
先日の地域の子どもまつりといい、父母連といい、
プチ姫のことはみんなが大事にしてくれる。
みんながかわいがってくれている。
本当に『特別にかわいがられている子』だと思う。
保育園の時も多分「園で一番かわいがられている大切にされている子」だった。
『特別扱い』ではなく、『えこひいき』でもなく、
それが『特別支援』なんだと思う。
ただ、『特別な支援』は誰でも出来るんだよ。
戦区中でかわいがられているから、やっぱり、プチ姫が生活するのは戦区なんだと思うけどね。
私はプチ姫が1年生の頃からずーっと
『学童クラブ父母連絡協議会』の役員をしている。
全国的な組織であり、まず、各学童に父母会がある。
その次に市区町村レベルで『父母連』がある。
プチ姫の場合、Q小第2クラブに所属しているので、私はQ小父母会に所属している。
そのQ小の代表として、何名かが『戦区父母連』の役員となる。
その代表が都道府県レベルの父母連役員となり、
東京都だとその上が『都連協(区部)』『三多摩連協(市部)』となる。
そして、最終的には『全国学童クラブ父母連絡協議会』となっている。
『全国学童保育研究集会』も毎年、行われている。
私は父母連役員を6年間やってきた。
1年目は『事務局役員』、2年目から執行部(戦区父母連のさらに中枢部)に入り、
2年目は『全国研』が東京都だったので、『全国研』
3年目は『子どもまつり』の責任者で、
4年目以降は全体からは外れて、『障害児諸問題』だけ関わっている。
まあ、どこも役員決めでモメると思うけど、
私は好きで立候補して、役員をやってきたので、割と好きにやってきたし、出来たと思う。
3年目の『子どもまつり』は他団体と一緒になって開催するため、
その制約のため、離婚後に出来たことだし。
学童父母連は『学習』『交流』『交渉』を3本柱に活動している。
「ひとりぼっちの子をつくらないために
ひとりぼっちの親をつくらないために」活動している。
『学習』もしてきたし、『交流』もやってきた。
でも、毎年の大きなイベントの一つは『児童課』との『意見交換会』という
『交渉』だろう。
毎年、毎年、私たちは戦区に訴えてきた。
私たちはすごく頑張ったと思う。
全体的な大きな成果は
◎入学式の日の高学年の保育
◎朝8:15~の開所
◎定員越えの新クラブ創設、だと思う。多少の問題は残しているけど。
指定管理者制度は勝手に導入されたが、それによって延長保育も一部、可能となった。
まあ、これに関してはまだいろいろな問題が残っている。
障害児問題としての大きな成果は
◎確実なる介助員の配置(グレーゾーンの子も必要があれば配置可能となった)
◎2名枠の弾力的緩和
◎障害の理解を深めるための研修の実施
あたりだろうか???
私が役員をやる以前に3年生までだった保育が
『障害児は6年まで』となって、弾力的に4年、5年、6年と伸びていった。
プチ姫が1年生の時に正式に6年までとなり、
でも、だからといって、そんなに6年まで利用しないんだけどね。
私たちの時代は本当は私がやりたかったのは
◎特別支援学校在籍児童の入会
◎グレーゾーンの子の希望者は6年までの入所
なんだけど、そこまでは実現できなかったなあ・・・残念。
特に児童課は門前払いしていたからね、今まで。
ただ、今年の成果はそれを認めたことかなあ???
「今までは時代背景もあり、障害福祉課と連携していなかった。部が違うから。
22年から研修をし出して、特別支援教育について学んで、部を越えての連携がはじまった。」
「特別支援学校の人たちも困っている。
今までは児童課の勝手な判断で学校で認めていなかった。これからはその子どもを見る。」
というような内容の回答を引き出せた。
今まで認めずにかわしてきたことを『認めた』のは成果だよね。
そして、私は今回、最後の仕事として、はじめて、
『卒室後』のことを発言した。
「2、3歳の精神年齢しかない、一人で留守番が出来るわけがない子が、
無理矢理卒室させられてしまう。
必ずしも学童クラブがふさわしいとは思っていない。でも、児童課主体で
『障害福祉課』と連携をとって、卒所後のサービスを考えて欲しい。」と。
コレを児童課に伝えるのが、私の最後の仕事だと思ったから。
ただ、今年のメインは条例文の『入閣資格』の『欠格事項』として、
『心身に重い障害のある者』を削除して欲しい、だったけどね。
今まで特別支援学校の子が希望して、
ダメで「この条例にあるから」と言われてしまえばそれまでだから、
そこを「障害を理由で差別するなんて、時代遅れで恥ずかしい」という理由で削除を申し入れた。
回答は「児童課では条文を変更することは出来ない。」とのことだけど、
私は「児童課で出来るとは思っていません。他の市区町村の条例等を参考に
児童課主体で働きかけて下さい。」と訴えた。
会長も「議員さんも聞いて下さい。」とアナウンスを入れてくれた。
あー、この人は長年、私と一緒にやってきた人だった・・・
(時々、抜けるけど・・・(^^;))
PTAではよく「魔法学級は忘れられる」というが、学童は忘れられない。
必ず、『全体要求』の真ん中らへんに入れてくれる。
まあ、私もそれなりのことをしてきたけどね。
まあ、頑張ったよ。
最後のお仕事、頑張りました。
私たちの時代はココまでやりました。
後は、次の時代の方、よろしくね。
タダ・・・一言!!
私はプチ姫のことでは何も困っていない。
ずーっと同じ介助員の先生がマンツーマン、
2名枠に泣かされて、追い出されたり、他のクラブに行け、という話は出たこともない。
私が話してきたから、障害の理解もそこそこあり、
健常児との合同保育を仲良くやれて、
特別支援学校に入れなかったせいもあり、学校種の苦労もない。
6年間、安心して、楽しく学童生活を送れたよ。
ただ、他の子どもたちのためにだけ、頑張ってきたと思う。
まあ、逆に言うと、プチ姫に手がかからなかったから
他の子のために出来たんだけどね。
あっ?!そういえば、児童課に「ありがとうございます。」って言わなかった・・・(^^;)
卒室の時に言おう。
今後は『学童大運動会』と『子どもまつり』があるけれど、
それは、参加して、遊ぶだけ。
私の仕事としては終わったと思う。
そして、そのあと、いつもの飲み会。
とある学童の会長がズボンにケチャップを垂らして、汚してしまった。
プチ姫は帰宅後、「ズボン、ケチャップで汚しちゃったね。」と話していた・・・(^^;)
こうして、私はプチ姫も一緒に参加することも多い。
ショートに預けたり、隣にいたり、保育室にいたり、いろいろだけど、
プチ姫は母一人、子一人のため「プチちゃん」と呼ばれている。
子どもが二人以上いると、「お子さん」になるよ。
飲み会によく一緒に参加しているため、「プチちゃん」と呼ばれて、
みんなにかわいがられている。
先日の地域の子どもまつりといい、父母連といい、
プチ姫のことはみんなが大事にしてくれる。
みんながかわいがってくれている。
本当に『特別にかわいがられている子』だと思う。
保育園の時も多分「園で一番かわいがられている大切にされている子」だった。
『特別扱い』ではなく、『えこひいき』でもなく、
それが『特別支援』なんだと思う。
ただ、『特別な支援』は誰でも出来るんだよ。
戦区中でかわいがられているから、やっぱり、プチ姫が生活するのは戦区なんだと思うけどね。