作家 氷室 瑠璃 

ひまわり畑は脱原発の象徴 。
世界中の核廃絶を願い執筆活動中!
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絵とあらすじで綴る戦禍の子。第3話  十字架を背負った男 (岡山と原発の歴史をたどり 今思う事…)

2013-09-28 13:38:54 | ブログ小説「戦禍の子」

絵とあらすじで綴る戦禍の子。 

【第3話 十字架を背負った男】
   

 あらすじ

 夜になると人も近寄らぬ寂しい峠道… その峠には「この世とあの世を繋ぐ異界への入り口」そんな言い伝えが今も残っている。

いつごろからだろうか… 峠の頂上から少し下ったあたり、そう首の無い母子地蔵の辺りを、

身の丈の倍以上もある石の十字架を背負い、ずりり…ずりりと引きずりながら闇の中から突然現れ、いずこかへと消えてゆくという者がいると…

峠を彷徨う亡霊か、はたまた狐狸の仕業かと… 噂は噂を呼び今では誰一人近づくものはいない。


 それだけではない、村人たちがその峠に決して近寄らぬにはもう一つの深い訳があるのだ。


「死の山」だからだ。その辺り一帯は鳥も虫けらすら住めない死の森… 放射能に汚染された森なのだ。

かつて村人たちはみな目に見えぬ放射能(奇病)に怯え村を捨てた。先祖代々の土地を、山を捨てたのだ。

そして生き残った村人達は山向こうの谷あいの集落に逃れた。


 その峠ではかつてウラン鉱山が採掘され、一時はウラン特需に沸きかえった時代があった。

ところがあの忌まわしい事故の後、原発施設は見捨てられ放置されたまま廃墟と化した。

掘り出されたウラン鉱石のぼた山は、野ざらしのまま放射能を垂れ流し続けている…

わずか100人足らずの村の、半数以上が十年にも満たぬまに次々と死んでいった。

村人を苦しみ続ける奇病が、放射能によるものだと気付いたのはずっとあとからの事だ。
 
 少女が迷い込んだセカイで見たものは… 十字架を背負った男とは… 


 
 【物語の概要 と 時代背景】 第3話 十字架を背負った男

十字架を背負った男の舞台は、原発発祥の地「人形峠」であり、また原発を抱えている全ての市町村の象徴です。
 
1954年~1990年 そして、2011年現在まで、少女の魂は過去から未来へと原発に翻弄されてゆく村の様子を垣間見るのです。

自分の命を奪った『原爆』が『原発』に姿を変えて人々を苦しめていることを知りました。

広島、長崎の原爆投下で、敗戦を迎えた日本は、「核のないセカイ」へ向かったのではないのか?

 

              原爆戦没者の慰霊碑に刻まれた誓い


          安らかに眠ってください、過ちは繰り返しませぬから



 ついに約束は果たされず、65年の歳月が過ぎた。広島、長崎に投下された「原爆は」「原発」と名を変え、

核の平和利用の名の下に、国策として庇護され増殖していた。戦後の復興、高度成長時代、所得倍増計画、バブル…

拝金主義政策を隠れ蓑に、取り返しが付かないほどまでに… なんの保証も無い安全神話に踊らされてきたのだ。


 そんな時代、誰が「原発」の危険性に、真剣に関心を向けただろうか?警鐘を鳴らす者の言葉に誰が耳を傾けただろうか?

そして、広島、長崎の被爆者の体験を、誰がわが事と受け止めただろうか?

放射能の恐ろしさを身をもって体験した多くの国民がいる事など、省みようともせず突っ走ってきた責めは誰にあるのだろう…

 私は中学校の修学旅行で長崎に行きました。その当時は広島か、長崎が修学旅行の定番だったと思います。

卒業アルバムを開いてみると、巨大な平和の像、みんなで折った千羽鶴を捧げる様子、浦上天主堂の写真がありました。

遠い記憶を手繰り寄せても、平和学習の記憶すら印象に残っていません。

 そんな私たちが大人になり、親の代で造ってきた「原発」の甚大な被害を被り、その途方も無い処理を引き継がなければならないのです。

誰も逃れる事はできません。原発推進派、原発反対派と云えども、呉越同舟なのです。

 私は、高知で生まれ育ち、妊娠8ヶ月で岡山へ来ました。少女からのメッセージは高知で書きとめたものです。

娘が生まれ、幼稚園に行くようになって、初めてメッセージを読み返しました。2008年頃です…

その時ですら「原発って何だろう? 危険って何の事だろう…」原発に対して浅い知識のかけらも持ち合わせていませんでした。

まして「戦争や、原爆は」ニュースで聞くだけの過去の出来事でしかないのです。

 毎日の生活と子育てに追われ、目先の事意外目に入らない毎日に追われていました。

そんな日常の中で、原爆で死んだ女の子からのメッセージの話を真剣に聞いてくれたのは主人だけでした。


「戦禍の子のメッセージは、何よりも大切な事だから、きちっと書き上げて送り出してよう!」

そういって、背中を押してくれました。


そのメッセージとは一言で言えるほど短いものでした。


「原発と、原爆は同じもの、あたしの転生する未来に核はいらない!」



少女は2011年の未来を生きているわたし達に,過去から原発の危険性を警告してきたのです。



「もう、時間がない… 時間がないの…… 瑠璃早くメッセージを伝えて!」


時間が無いとはどう云うことなのか?何故急ぐのか?皆目検討がつきませんでした。

そして、しぶしぶながら、主人の言いつけを守り、毎日机に向かい書き始めたのが「戦禍の子」です。

書いてゆく中で私自身が、「原発」と言うものの危険性を初めてを知ってゆきました。

物語を通して、疑似体験をするように少女とともに体験してゆきました。

ここで云う体験とは、追体験と思ってください。体験者の体験を追いかけ、心で感じ考えるということです。

実体験の無い者には、体験者の気持ちや、体験はわからないのです。感受性で受け止め考える事しか出来ないのです。



 この事がきっかけで、日本の原子力発電所の歴史や、問題を考えるようになりました。

それは、この物語をブログにアップするようになって、「戦禍の子」の物語の検証をしてみようと思い始めた2011年の事です。


その時、お力を貸してくださったのが、西江清吾「放射能のゴミはいらない!県条例を求める会」の方です。

岡山県の高レベル廃棄物拒否運動の先陣に立ってこられた方です。

物語の事を理解してくださり、参考にと3冊の貴重な冊子を届けて下さいました。

その3冊とは、

 「原発のゴミはどこにいくのか 最終処分場のゆくえ」狙われている現地からの報告 青森、北海道、岐阜、岡山
 
 「原発ゴミの危険なツケ 最終処分場のゆくえ2」 原発はトイレ無きマンション。

 「漂流する原発ゴミ あなたうけいれますか」今も狙われている中国山地。

 被災地からの移住者が大阪に次いで第二位の岡山ですが、実は、福島や、茨木以上に危険性を孕んでいた土地なのです。

岡山に避難された方々とも、この真実を共有し、共に学び合い「脱原発」の実現に力を合わせられればと思います。

今、大切なのは力を合わせて、一つの方向に力を結集する事だと思います。そのために繋がる事が始まりです。

 下記記事も引用させて頂いたものです。 

 
         日本の原子力開発の歴史



戦後日本は、非核三原則を掲げ、平和への道を歩んできたのではないのか? なぜ「核廃絶」を唱えながら「原発」を増やし続けてきたのだろうか…

ヒロシマ、ナガサキへの原子爆弾投下からわずか10年後のことである。その背景には敗戦国日本が強いられた「安保条約の存在」があった。
               

1954年 中曽根康弘(当時、改進党議員)が、原始力予算案を国会に提出。ここに日本の原子力開発が始まる。

 (同年、ビギニ環礁で、アメリカの核実験により、第五福竜丸が被爆。世界的に「原水爆禁止運動が高まる)

 
1955年  岡山、鳥取県境 『人形峠で』ウラン鉱床発見。

1956年  人形峠、東郷、倉吉の三鉱山でウラン探鉱と、採掘が始まる。

1958年  人形峠で、鉱山の抗夫、原燃職員が、放射能汚染を訴える。

1959年  伊勢湾台風では1千㎥ほどのウラン残土が田畑へ流出。
                        
1966年  日本は原発操業開始。

1967年  動燃は(旧 原燃)は、国産ウラン開発を断念。ウラン鉱山は閉山。ウラン鉱山は、膨大な放射性ウランを野ざらしにしたまま放置した。

1988年 『人形峠』周辺のウラン残土問題が発覚。鳥取(方面)では、1万6000㎥の残土から、最大31.5ミリシーベルト/年、が測定された。


【知らされなかった放射能の危険】

 当時、鉱山で作業に当たっていたのは、流れの抗夫と、近隣の村民たちであった。原燃からは放射能の危険性について一度も説明は受けなかった。

ガイガーカウンターを当てると何万カウントで鳴るような場所でマスクもつけず危険で過酷な労働だった。

とくに、何も知らぬ村民を、ラドンガスのたまった空気の通わない坑道の奥で作業をさせていた。

次々と原因不明の病に冒され、閉山後わずか二十世帯、100人の村人のうち11人が癌で死亡(全国平均の約26倍)にものぼる。

ただ、放射能が原因であるとはまだ誰も考えていなかったのだ。(ウラン鉱山従事者手記)より

それでも…まだ、原発を作り続けますか? 次に虫けらのような扱いを受けるのはあなたかもしれないのに… 瑠璃


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