夜の街夜の街って、新たないじめ構造でしょうかね。
何かのせいにすることで、自分の責任を回避できるような気がするというのは、日本の体質なのか、人間の根本的な性質なのか。先日の燐光群のお芝居でもそれを強く感じました。
あなたの人生はあなたのもので、誰かのせいで曲がったわけではありません。
いろいろな困難はおきるものだけれど、それをどう解釈するかは自分次第だから!
私はハタチでやっと水商売を始められてほっとした。19の冬に家を出て、21の冬まで生活費の仕送りをいただいていたけれど、時給620円のアルバイトは、お月謝やトウシューズ代、発表会費の積み立てを賄って消えていく。私はちゃんとした公演を観に行きたかった。それまで、近所のアマチュアの発表会しか観ていなかったから。
ハタチになり、やっと水商売で少し余裕を得て舞台を観に行けるようになった。しかし、パリオペラ座の少女たちの完成度に撃沈した。マリシア・ハイデのドラマに心えぐられた。
そのころ私はジゼルの村娘のバリエーションをおどった。のちに狂気に至る、その前の純真な村娘。この曲を踊った時に、私は“ドラマをおどる”ことを試し、何かをつかんだ。ギャップ。ドラマを生むのはギャップである。技術の上に体験がのる。のちに狂気に至る純真な村娘を踊るのに、ハタチの水商売経験が作用したことを記憶している。
21の冬に、私は「大人になろう」と思い人生を手放した。
一度手放してみるとよくわかる。やるべきことを手放すと、当然、やるべきことがない。言われたことをやってみても、それは私の人生ではないのだ。どんどん転落が始まる。
転落から自分の人生に戻ろうとした時に、応援してくれたのも夜の街だった。
新たなレッスン費、衣装代、持ちチケット代、それを賄うのは夜の街の給料だ。
いまだ、アーティストの多くが、夜の街を副業としている。
この状況はダブルパンチである。
それを、なんとかしてくれとは思わない。
でもさ、私たちのせいに、しないでくれる?
喧嘩を売るようだけど、喧嘩をしたいわけではない。
あほーな私は、ひゃらひゃらとおどりながら、新たな仕組みを日々考えている。