昭和の爺の独り言

住みづらくなった世の中で、日々思うこと、感じることを書き連ねてみたい。
「もの言はずは腹ふくるる思ひ」・・・・。

何でもかんでも『総選挙』

2023-08-25 14:17:06 | 日記
今年の秋に衆院解散がありそうな噂がまことしやかに流れていたが、マイナ保険証の相次ぐミスや、議員たちの不料簡な行為によって、解散風は何処かへ消えてしまったような・・・・。

『総選挙』と聞くと、昭和の爺はすぐに衆議院解散・総選挙を連想する。

が、世間では様々な『総選挙』が行われているようだ。

食べ物の総選挙、観光地の総選挙・・・・・・、実に多種多様な総選挙なるものがあるようだ。

要するに、色々なジャンルで『ランク付け』をしたいのだ。

しかし、ランクが上だからと言って、それが本当に良いものだという保証にはならない。

それはあくまで選ぶ人間の主観である。

また大いに評判によるものであり、根拠を尋ねると実に曖昧。


十人十色と言うように、人の好みはそれぞれ。

人があれこれ言うものでもあるまいに。


ランク付けをしたがる人は、自分が上位ランクのモノを食べたり飲んだりして、オレは人並みだと勝手に安心しているだけなんだろうなあ。

また、こういうランク付けをする人たちは、人間にすらランク付けしているに違いない。

学歴や職種、経済状態といった外的条件で、人間のランク付けをやっているんだろう。

そういう連中は、ランク付けをされる側の気持ちなど、これっぽっちもわからない場合が多いようだ。

要するに上から目線・・・・・・で人を見下すように人やモノを見る。


人の値打ちなんて、外見でわかるものではないし、決められるものでもない。

「外見重視」の風潮は、この最近特に強くなっているように感じてならない。

まあ、それだけ人が人を目る目が衰えてしまった証左だな。

外見や評判に振り回されることが、いかに愚かなことか。

歴史がきっちりと証明しているのに・・・・・・・。

残念なことだ。


こういうものの見方をしていると、本当の人間関係など築けるものか。

と一人憤る昭和の爺である。


蛇足であるが、世間ではくだらない「総選挙」には関心を示すが、政治の世界の『総選挙』の投票率が極めて低いのは何故なんだろう?


平家物語&自民党

2023-08-24 09:00:00 | 日記
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱忌(しうい)、唐の祿山(ろくさん)、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば(*1)、久しからずして、亡じにし者どもなり。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ、心もことばも及ばれね。

上掲の文章は、平家物語の冒頭部分である。

この前段部分は、高校の教科書にも掲載されているが、後段のほうもなかなか手厳しいことを言っている。

これを現代風に読めば、今の自民党の驕り高ぶり、庶民の苦しみを憂えることなく、ひたすら己の欲望のために税金を食いつぶしているように見える。

そんなのだから、次の総理総裁候補が出てこないのだ。

総理になりたい輩は多けれど、その任に堪えうるものはなし。

これまで彼らが庶民を足蹴にしてきたツケが、遠くない将来にきっちりと回って来よう。

これも大政党に有利な「小選挙区比例代表制」による大きな弊害である。

政治家同士が切磋琢磨することなく、大政党の看板に守られて、ぬくぬくとしてきたからである。

かつての中選挙区制では、同じ政党どうして候補が争い、有権者にその顔がはっきりと見えていた。

今は、選挙と言っても候補者の顔がほとんど見えない。

特に比例区などは、支持政党の人間すらわからないのが実情。

これをいいことに、議員たちは惰眠と惰欲を貪ってきたんだ。

これは他の政党にも言えること。


そろそろ政治家の本分を思い出せよ!

滅ぶときが目前に迫っているのに、気が付かないのか???


驕り高ぶった輩は、必ず滅ぶのが世の習いである。


最近では、ビッグモーターなどがその例か・・・・。


そういえば、先般松川るい自民党女性局長が辞任(いや更迭?)した。

例のバカンスと見まがうようなパリ研修旅行で批判を浴びた御仁である。

この御仁も庶民感覚からほど遠い人。

そのくせ庶民からは票をいただこうという図々しさ・・・。

最近、このような話も出ているようだが・・・・




結局、こうなるんだ・・・

2023-08-23 08:14:13 | 日記
やはり、こうなったか・・・という思い。

国のやることは、いつもこうだ。

丁寧に説明し、理解をいただいて・・・・・などと言いながら、結局は力(権力)で押し通してしまうんだ。


「処理水」の海洋放出については、適切だと思う。

IAEAのチェックもクリアしているし、科学的根拠も正しいのだろう。

が、国のやり方が前時代的。

お上のすることだから、お前たち下々は黙って従え・・・・・と毎度のパターン。


国が、特に総理や担当大臣たちが何度も何度も現地に足を運び、漁業者たちと対話を交わしていれば、状況は変わったはず。

また周辺各国に対しても同じこと。

胸襟を開いての対話を積み重ねれば、理解は得られるはずなのに、国はいつも一方通行。

そして最後は、「札びらで頬をはたく」ような行為をして、相手を沈黙させる。

今回も、数百億円という金が動くとか動かないとか。


これは沖縄の基地問題も同じこと。

最後は「カネ」をばらまいて、口を封じるのだ。

一番汚いやり方である。


漁協との面会で、岸田は次のように言ったそうだ。

「(漁業者の)生業継続に対する不安に対処すべく、たとえ今後、数十年の長期にわたろうとも、ALPS処理水の処分が完了するまで、政府として責任をもって取り組んで参ります」

過去のことから考えて、これが守られる保証などないのではないか?

これまでどのくらいの「約束」を反故にしてきたことか!


いずれ岸田も総理の座を去る。

その後のことは知ったことではない・・・・と高を括っているのだ。

岸田という男、しなくてもいい決断は早いが、するべき決断はめっちゃ遅い。

似ても焼いても食えない男・・・・・・。


「いただく」と「くださる」

2023-08-22 08:13:57 | 日記
最近、よく「〇〇していただく」などと「いただく」を使った表現をよく耳にする。

「いただく」も敬語(謙譲語)であるから、相手を尊敬しているニュアンスはあるのだが・・・・・。

なんでもかんでも「いただく」を使うことには違和感を覚える。


例えば、アスリートがメダルを取った時のインタビューで「皆さんに応援していただいて・・・・」と宣う。

この場合は、アスリートが皆さんにお願いして応援してもらった…という風に感じられる。

でも、応援する側としては、別に選手に応援をお願いされたわけではなく、勝手に応援しているはず。

つまり、この表現はアスリート中心の表現(第1人称)なのではないか?

この場合は、「応援してくださって・・・」と言うのが正しいのではないかとわたしは思っている。


一方、「〇〇して下さる」は、何のお願いしていないにもかかわらず「〇〇してくれた」という意味になるだろうと思う。

つまり、相手が自主的に「〇〇してくれた」ことになる。

これは、相手(第2人称)を中心にした表現であると思える。

最近のいい方は、自分中心の敬語を使うのが当たり前なのか?

自分ファーストの時代には、こういう表現が似合うのかな?


場合構わず、なんでも「〇〇していただいて・・・・」と言う物言いには、古い人間の爺には、どうもスッキリしないものが残る。


私は不勉強の故、文法的にどちらが正しいのかは判断がつかない。

が、昭和の爺は、相手を中心にした敬語を使いたいと思っている。

世界は自分中心には回っていないから・・・・・・。



欲望への抗力が衰退する時代

2023-08-21 08:03:44 | 日記
相手に対して優位な立場を利用して、セクハラ・パワハラなどを行う人間が、ずいぶん多くなったようだ。

いや、昔からこんな手合いはいたが、情報発信が進んだ今とは違って、表面に出なかっただけなのか?


このような塾講師がいると、親御さんたちは安心して子供を塾に通わせられないよな。


いずれにしても、こういう行為は人として最低のものであり、最も恥ずべきものである。

『破廉恥罪』は、窃盗・詐欺・贈収賄と道徳に反する行為を指すのだそうだが、この記事のような盗撮等も破廉恥罪に属するんだろう。



70年ほど人間をしてきて、社会の移り変わりを見てきた。

今ほど人間が「動物化」している時代はない・・・・と言えまいか?

欲望に対する抗力、つまり理性の力の著しい減退が目についてならない。

カネに対する欲望、性に対する欲望等々、本来ならば理性で制御すべきことが、制御できなくなっている場合が多々見える。

これでは、人間としての値打ちがないに等しい。

物質文明や経済が発達し、豊かになったせいで、人は我慢する心を忘れてしまったのか、我慢する習性を躾けられなかったのか・・・・。


特に、聖職と言われるような「教育者」「公務員」「政治家」そして「宗教家」の堕落を見るのは本当に残念なことである。

当然、尊敬すべき人たちも多いのだが、それより「悪」の方が目立ってしまう。

本来ならば、人の幸福に寄与すべき経済や物質文明が、人の堕落をもたらすとは・・・・。

何が間違ったのだろう。


おそらくこれは、「モノ」ばかりを見て、それを使う「人間」の研究を疎かにした結果ではないか・・・・と爺は思っている。

人間の質を向上させないと、どんな文明の利器も人を堕落させ、時には凶器にもなろう。

人を中心に物事を考えるような方策に、目を向けなければならない時期かもしれないな。