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「廊坊事件」、と「広安門事件」 ねずさんから転載

2014-07-29 08:15:04 | 

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広安門外側


昭和12(1937)年7月25日の深夜に起きたのが「廊坊事件」、同年同月26日に起きたのが「広安門事件」です。
今日は、この2つの事件について書いてみたいと思います。

最近では、支那事変のことを「日中戦争」と呼ぶようになりました。
また、中共政府は、その「日中戦争」こそ、日本による支那への侵略の証であるという論調で、これを「歴史認識問題だ」と政治的な主張をくり返しています。

国内にもこれに賛同する勢力があります。
それは、ごく一握りの、数少ない人たちに過ぎませんが、彼らには「なぜか」巨額の活動資金があり、猛烈な宣伝工作によって、あたかもそうした中共の主張が、一般の日本人の思いであるかのように宣伝しています。

けれど、いかに宣伝しようが、嘘は嘘です。
ちなみに、シャンプー、リンスや化粧品、あるいはスナック菓子、インスタント食品や飲料などは、CM露出と販売数は、基本、比例します。
けれど、どんなに宣伝しても、よくないものは売れません。
つまり、ダメなものはダメにしかならないのです。

支那事変は、支那国民党に追い立てられた中共が、日本と国民党を争わせ、両者を共倒れにさせようとした工作活動によって始まったものです。
なにがなんでも戦争に引きずり込もうとする支那、百歩譲ってでも戦争を避けようとした日本であったのです。

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廊坊事件(ろうぼうじけん)
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「廊坊事件」は、昭和12(1937)年7月25日に起きた事件です。

この日、北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本軍の軍用通信回線に故障が発生しました。
おわかりいただけようかと思いますが、通信網の確立は、軍隊にとって生命線です。
当然のことながら日本軍は、修理のための通信隊修理チームに、警護のための歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、あらかじめ国民党側に通知をし、その了解を取り付けたうえで約100名を現場に派遺しました。

部隊は午後4時半頃に廊坊駅に着きました。
その廊坊駅には、国民党の第三八師第一三二旅、第226団の約6千人の兵が駐屯していました。
たいへんな兵力です。
6千人の中に、修理兵を含むたった100名の日本軍が派遣されたのです。

廊坊駅に到着した修理隊の隊長である五ノ井淀之助中尉は、国民党226団に到着を告げ、許可を得て廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を開始しました。
あらかじめ通告してあったのだし、用件は単なる修理ですし、事態はこれで何事もなく過ぎるはずでした。


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ところが、その修理の真っ只中である深夜午後11時10分、国民党軍は突然、修理作業中の日本軍に銃撃をしてきたのです。小銃による狙撃ではありません。軽機関銃による掃射を含むれっきとした軍事的攻撃です。

普通なら、この瞬間に、双方の銃撃戦が始まります。
いやもしかすると、迫撃砲などを利用した砲撃さえも加わるかもしれません。
ところが、日本側は、撃たれているのに、応射をしませんでした。
修理隊の五ノ井隊長は、応戦せずに、とりあえず弾が当たらないように身を隠せ、とだけ命令したのです。

とにかく戦闘だけはしたくない。
そもそも平和維持のために派遣されて大陸にいるのです。
それが軽々に発砲してどうなるのか。

ところがそうして、ひたすら弾を避け続ける日本軍に対し、なんと今度は、廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、銃弾を避けて隠れている日本軍に向かって、迫撃砲による砲火が行われたのです。
こうなると、全員、犬死です。
五ノ井隊長は、やむを得ず応戦を開始するとともに、本部に応援を依頼しました。
それが国民党の発砲から50分も経過した、午前0時頃のことです。

驚いたのは、通報を受けた日本軍(支那駐屯軍)の本部です。
慌てて第20師団に救援を命じました。
なにせ6千人の、最新鋭の装備に身を固めて、ドイツ式教練を受けた国民党軍に、わずか100名の日本軍が一方的に攻め立てられているのです。
6000対100です。

第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。
さらに26日午前2時30分には、第20師団の本体が、廊坊駅に向かいました。

けれど、深夜のことです。鉄道が動いているわけでもない。
距離は50kmです。
トラックを使った強行軍でも、1時間に12キロ程度しか進めません。
なぜなら、全員はトラックに乗れないのです。それだけの数のトラックがない。
ですから重い背嚢を背負って駆け足で行軍し、交代でトラックの荷台に乗って一部が休憩し、他は走るという行軍なのです。

コヒマで死の行軍などいうまやかしが後年、裁かれたりしていますが、こちらは同じ50キロを4日がかりです。護送された米兵たちは、手ぶらで途中で海水浴やポーカーを楽しんだりした行軍でしたが、常識でいって、コヒマの行軍は、公園の散歩より楽な行軍でした。
これに対し、廊坊駅への行軍は、まさに地獄のような行軍だったわけです。
そんな努力までして、日本軍は仲間たちを助けるために、必死の行軍をしていたのです。

一方、廊坊駅の100名は、なんと明け方まで6000人もの国民党の大軍を相手に果敢に戦っています。
どんな戦いだったのか想像してみてください。
昼間、きつい行軍をして、やっと深夜、廊坊駅にたどり着いたのです。
そこで汗水流して通信施設の修繕をしていたら、いきなり銃撃を受け、応戦したら戦争になるからと、ひたすらガマンして応射しないでいたら、今度は迫撃砲を撃ち込まれ、やむなく応戦を開始したけれど、友軍の到着には、4〜5時間を要し、その間、ただひたすら、防戦をし続けたのです。

そんな彼らのために、日本軍の司令部は、夜明けとともに、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、支那兵が円状に群がっていたのです。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」、爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものさえあったといいます。

「ざけんじゃねえ、コノヤロー!」とパイロットは思ったことでしょう。
パイロットは、日頃の修練の業で、支那軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいる支那兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせています。
もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを助けようとしたその飛行兵の姿は、実に立派だったと思います。

26日の午前8時、やっと岡の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えます。
重装備の6000の支那兵は、日本軍がわずか100名なのをいいことに、好き放題、弾を撃ち込んでいたのですが、岡の向こうに、日本軍の本体の姿が見えたとたん、彼らは算を乱して逃げ出しています。

これが26日の朝の出来事で、支那兵たちが逃げた先が、通州です。
そして7月29日に起こったのが、通州事件です。

さて、この廊坊事件について、支那国民党は、当時、次のようなステートメントを発表しています。
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7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否した。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。
~~~~~~~~~~

まったく、どの口から、これだけの嘘が、いけしゃあしゃあと出てくるのでしょうか。
事前にちゃんと了解をとりつけていたのに「駅を占拠した」と嘘を言い、駅でもちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「彼らは撤退を要求した」と嘘を言い、実際には午前11時10分に支那国民東軍側から発砲しているのに、「午前0時に日本軍が支那に発砲した」と、これまたデタラメを並べています。
自分たちから迫撃砲まで撃ち込んできていたことは、口にチャックで知らん顔です。
そして最後は、「撤退した」とはおそれ入谷の鬼子母神です。

さらにいえば、6000対100という、圧倒的な戦いでありながら、日本軍を壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出しています。
これを「撤退」などと、よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

そしてその「撤退した」という支那国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、支那や共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

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広安門事件(こうあんもんじけん)
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廊坊事件は26日に鎮圧されるのですが、その同じ26日に起きたのが、「広安門事件(こうあんもんじけん)」です。

この事件は、この日、北京にいた日本人居留民の保護のために、日本陸軍の支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊(約千名)が、26台のトラックに分乗して、北京城内の日本兵営に向かって移動していたときに起きた事件です。

このときも、廊坊事件同様、事前に松井特務機関長が、部隊が北京城の広安門を通過することについて、国民党の政務委員会に連絡し、秦徳純市長の承諾を得ていました。
それは、国民党軍との無用の衝突を防ぐための日本軍の配慮です。

すこし補足しますと、本来なら日本は国際条約である北京議定書に基づいて駐屯しているのですから、支那側に通告する義務はありません。
地位は日本軍の方が上なのです。
本来、支那人というのは、上下関係しか理解し得ない種族ですから、本来であれば、日本は、高圧的に彼らを徹底弾圧していた方が、結果としては、彼らに無用な犯行を犯させなかったかもしれません。
けれど当時の日本は、どこまでも支那人を人間として対等に扱おうとしました。
ですから支那に派兵していた11カ国のうち、日本だけが、彼らを、まっとうな軍として認め、だからこそ、事前通告もキチンとしてあげていたのです。

世界の11カ国は、いわば無政府状態の荒廃地となっている支那に、自国の居留民保護のために軍を派遣しているのです。ですから各国の軍は、各国の都合で動けば良く、それに対してシナ兵が文句を言って来たら、それはいってみれば非公式な愚連隊やヤクザ者と同じ存在でしかないのですから(当時の支那には統一政府がなかった)火力にものを言わせて蹴散らせば良いのです。それが国際社会のルールです。

実際そのために、米英などは、支那に駐留している自国民1名につき、1名の軍を派遣しています。
そして言う事を聞かなければ、徹底して攻撃できるだけの備えを常にしています。
それだけ当時の支那は治安が悪かったし、もっというなら、異教徒である有色人種(支那人)は、何人殺しても罪にも問われない、というのが西欧人の基本的考え方でした。

これに対し、日本の派遣部隊は、日本人居留民6名につき、軍人が1名の割合です。
あきらかに欧米と比べて軍の派遣要員数が少ないことにくわえ、同じ有色人種に対して、常に公明正大であるべきという姿勢から、支那人たちに対して非道を働くものさえ、まったくありませんでした。

そういう情況にありましたから、本来なら、いちいち相手の了解などとりつける必要はないのだけれど、それでも、日本は支那人との無用な争いを避ける意味から、単に北京城内に入るために、門を通貨するということだけのためにも、ちゃんと事前に了解をとりつけていたのです。

そして日本軍は、午後6時頃、広安門前に到着しました。
ところが、事前に告知してあったにも関わらず、彼らは城門を閉鎖したままで開けてくれません。
もっとも連絡の不徹底は、国民党軍にはよくあることです。
そこで大隊顧問の桜井少佐が事情を説明して開門の交渉をし、その結果、午後7時半頃になって、やっと城門が開門されています。

ところが、日本の大隊が門を通過し始め、部隊の3分の2が通過したとき、突然、門が閉ざされたのです。
そして部隊が城門の内と外に分断された状態で、いきなり国民党軍は、手榴弾と機関銃を猛射して、日本側に猛攻撃を加えてきたのです。

敵は、城壁の上から、至近距離で攻撃してきます。
何もしないでいれば、日本側は全滅してしまいます。たいへん危険な情況です。
撃たれた日本側兵士が、バタバタと斃れます。
やむなく日本側は応戦を開始しました。
すると国民党軍は、兵力を増強して大隊を包囲し、日本側に対して殲滅戦を挑んできたのです。

この包囲戦に対する感覚も、日本人と支那人ではまるで感覚が異なります。
これは毛沢東が、実際に日本軍の南京戦を例にとって述べていることですが、「日本軍は敵を包囲しても、敵がそこで降参すれば、まるごとその兵たちを逃がしてやっている。こんなことをしているから、何度でも敵は武装をし直して襲って来るのだ。包囲したら、たとえ敵が降参しても皆殺しにする。それが戦いというものだ。」と、それが毛沢東の考え方だったし、支那人の古来変わらぬ戦いです。

日本側は多数の死傷者を出しながらも、至近距離、しかも塀の上から狙って来る敵を相手に、よく持ちこたえました。
これも、情況を考えればた、よく持ちこたえる事ができたものだと思います。普通なら、とっくに全滅しています。

こうして最初の発砲から約2時間が経過したとき、旅団からの日本軍救援隊が到着しました。
そして敵に対して、一時的な停戦を呼びかけ、
1 国民党軍は、いったん離れた場所に集結する
2 日本軍のうち、城内にいる者たちは、城内公使館区域に向かう。
3 城外に残されたものは豊台の日本軍旅団に帰投する
という案がまとめられ、ようやく午後10時過ぎに停戦が整ったのです。

この戦いにおける日本軍の死傷者は19名(戦死2名)で、同行していた軍属や新聞記者も負傷しています。

そしてこのときの広安門事件の首謀者や残党たちが、28日までに集結したのが、通州駅だったわけです。


通州事件
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通州事件の体験談
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