光りの進軍  光りよ通え・・・☆

合言葉は光の使命を果たす。
心一つに情報発信

第4部(1)昭和20年8月9日 長崎爆心地への送電に命を懸けた「電力戦士」産経より転載

2013-12-30 08:28:13 | (英氏)原発・エネルギー問題

第4部(1)昭和20年8月9日 長崎爆心地への送電に命を懸けた「電力戦士」

2013.1.14 23:10 (1/3ページ)九州から原発が消えてよいのか

前のニュース

 昭和20年8月9日午前11時2分。長崎湾に臨む長崎市戸町の自宅でうたた寝をしていた川口末松さん=当時(19)=は凄まじい突風と地響きに飛び起きた。北側の板戸は吹っ飛び、棚の食器も散らばっていた。

 「近くに爆弾が落ちたぞ…」。そう思った川口さんは慌てて屋外に飛び出した。ところが、周囲は穏やかで普段と変わりがない。何が起きたかよく分からないまま、北方の稲佐山(いなさやま)を眺めると、山の背後から巨大なキノコ雲がもくもくと姿を現わすではないか。

 米軍のB29爆撃機ボックス・カーが落としたプルトニウム型原子爆弾・ファットマンだった。このたった1発で稲佐山北側の長崎市中心部は灰燼に帰した。

 ファットマンは長崎市松山町のテニスコート上空約500メートルで炸裂した。数千万度の火球が空中に発生し、1万分の1秒で直径30メートルに膨脹。これが発する熱線はあらゆるものを瞬時に焼き尽くし、少し遅れて衝撃波と爆風が街を押し潰した。続いてあちこちで火災が起きた。

 死者7万3884人、重軽傷者7万4909人。当時長崎市内にあった民家の3分の1に当たる1万1000戸あまりが焼失した。

 

   × × ×

 

 午後2時ごろ。爆心地の南約2.9キロの長崎市五島町にあった九州配電(九州電力の前身)長崎支店にも火の手が迫ってきた。

 「長崎に電力を供給できなくなる。九配だけは焼いてはならんぞ!」

 現地の消防責任者はこう叫ぶと、消防本署の移動命令を無視し、支店前に消防車をとめた。支店の倉庫には、電線などの資材が大量に詰め込まれていた。小川敬二支店長をはじめ九配従業員約60人も消防隊員とともに深夜まで懸命の防火作業を続けた。『九州配電株式会社十年史』は当時の様子をこう伝える。

 「小川支店長指揮の下に先づ社屋付近に起こった無数の煙っている火を消し、続いて爆心地方面各所に拡がった火災に対し防護態勢を整備して行った」

 「挺身隊」という名の女性従業員も多かった。男性従業員は召集や徴用を受け、人手不足だったからだ。女性たちもすすとホコリで顔を真っ黒にしながら、電線を守りきった。疲労困憊した従業員に小川支店長はこう命じた。

 「お客さんが困っている。われわれ電力戦士は、一分一秒でも早く電気をつけなければならない!」。

 

   × × ×

 

 長崎市は明治19(1886)年に九州でもっとも早く電灯がともった地域だが、原爆により送配電設備は壊滅してしまった。

 稲佐山ふもとの長崎火力発電所と浦上、竹の久保、銭座の3変電所は壊滅。電柱1413本が倒壊・焼失した。長崎湾西側の飽の浦(あくのうら)変電所は無事だったが、送電線の鉄塔が倒れた。

 唯一、残ったのが爆心地から南に8キロ以上離れた江川変電所。九配従業員は防火活動の疲れを癒やす間もなく10日朝から、この江川変電所から少しずつ、送電線を北へ延ばしていった。

 川口さんも九配長崎支店の従業員の一人だった。自転車を押し、ようやく支店に到着すると、巡視隊として爆心地付近の調査に赴くよう命じられた。

 そこで川口さんは終生忘れられぬ光景を目の当たりにした。か細い声で「水をください…」とすがる人々。子供を抱きかかえたまま息絶えた母親。爆心地に近づくにつれ、さらに凄惨となり、遺体の多くは爆風でバラバラに引き裂かれ、真っ黒に焦げていた。

「遺体がゴロゴロと転がっていました。『あちこちに』ではない。ここもそこも遺体ばかりでした…」

 川口さんは生存者に「後から助けがきっと来るから」と声をかけながら、ひたすら北へ向かった。

 高台から一望すると、異国情緒あふれる街はすっかり消え失せていた。一面にがれきが広がり、所々から炎がくすぶる。川口さんはつぶやいた。

 「悪魔の炎だ…」

 実は3日前の8月6日に広島に新型爆弾が落ち、街が壊滅したという風の噂を聞いていた。「まさかこれが同じ爆弾なのか」「爆心地に行けば病気になるんじゃないか?」-。次々に恐怖が浮かんだが、「一刻も早く電気を通さねばならない」という使命感で動揺を必死に押さえ込んだ。

 川口さんらの命がけの奮闘により、長崎市内の大部分で送電が再開されたのは、わずか3日後の8月12日だった。けがや火傷に苦しむ生存者たちにとって電灯の光はどれほどまばゆかっただろうか。

 あれから67年余り。川口さんは85歳となり、今も長崎市に暮らす。あの日の光景は片時も忘れることはなかったが、ごく最近まで家族にも一切話さなかった。いや、話せなかった。

 

     ◇

 

 原発の長期停止により、存亡の危機にある九州電力。九州の産業と暮らしを支えてきたことは間違いないが、平成23年の福島第1原発事故以来、社員らはプライドをズタズタに引き裂かれ、すっかり身をすくめてしまった。他の電力会社に先駆けて、火力、水力、原子力の発電普及に寄与してきたフロンティア精神あふれる企業風土はどこに行ったのか-。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿