第4部(2)被爆地に灯った希望の光 家族・同僚失う悲しみを押し殺し
昭和20年8月9日。B29爆撃機「ボックス・カー」が投下したプルトニウム型原子爆弾・ファットマンにより長崎市松山町の爆心地から半径2キロ以内はほぼ全ての建物が倒壊・焼失した。送配電設備も壊滅的な被害を受け、長崎市内全域は停電し、生存者たちは漆黒の闇の中で一夜を明かした。
翌10日、九州配電(現・九州電力)長崎支店社員の川口末松さん=当時(19)=は、壊滅した長崎市内の電力復旧の先遣隊として歩いていた。
「いつ電気は来るの?」
「今晩中には通電できますよ」
被災者の問いかけにこう答えると大きな歓声が上がった。地獄に落とされた長崎の人々にとって電灯は希望の光だったのだ。85歳になる川口さんは今もその笑顔が忘れられない。
「電気という仕事に従事して本当に良かった。そう思えた瞬間でした…」
× × ×
10日には、長崎の壊滅を聞き、福岡や佐賀の九配支店・営業所の従業員らが続々と応援に駆けつけた。急編成された復旧部隊は、長崎支店の倉庫内に保管されていた電線や配電器具を使い、突貫作業で送電区域を拡大していった。9日の被爆直後、長崎支店に猛火が迫る中、女性従業員らが懸命の防火作業で守り続けた貴重な代物だった。
努力の甲斐あって10日午後6時ごろには、早くも長崎市南部地区が通電し、夕暮れに電灯がポツポツと浮かび上がった。
11日になると復旧工事はさらに本格化。江川変電所に加え、諌早変電所からも電気が送られるようになり、市の中央、東部にも送電を再開。焼失した県庁前など官庁街の焼け跡には、電柱が一本一本増えていった。
「この地区は今日中に復旧するぞ!」「こっちの地区は明日通電できる」-。従業員たちは通電地域が広がる度に、自らを鼓舞した。
12日には長崎湾の西側も電気が通じた。原爆投下からわずか3日後に、爆心地直下で壊滅した地域を除く長崎市内の大部分の家に明かりが灯ったことになる。平成23年3月の東日本大震災に比べても、信じられないほどのスピードだといえる。
もちろん九配の従業員たちが原爆被害から免れたわけではない。九配従業員21人と家族77人の計98人が犠牲となっている。
殉職者21人のほとんどは、原爆投下に先立つ8月1日の空襲を受けた三菱重工業長崎造船所幸町工場や三菱製鋼所(現・三菱長崎機工)の復旧工事のため、より爆心地に近い現場にいた社員だった。息も絶え絶えに九配長崎支店に駆けつけ「電柱はほとんど倒れています」と爆心地近くの状況を報告した直後に倒れ、息を引き取る社員もいた。
多くの従業員は家族・親族、そして同僚を失った悲しみを押し殺して復旧作業を続けたのだ。
九配の復旧部隊は日に日に増え、軍も応援に加わった。最終的に復旧に携わった延べ人数は4千人に上った。
とはいえ重機などはほとんどない。いずれも人力による復旧だった。九配従業員らは長崎支店に寝泊まりし、早朝から日没まで復旧作業を続けた。宿直室は臨時救護所となり使えないため、硬いベンチをベッド代わりに仮眠を取った。
臨時救護所には次々と被災者が運ばれた。だが、薬も包帯も不足している。顔面は黒く焼きただれ、傷痕からウジ虫がわき、苦痛を訴える同僚。川口さんらは、「がんばってください」と声をかけることしかできなかった。
川口さんらは、変圧器に使う油で、亡くなった社員を支店裏で荼毘(だび)に付した。
そして迎えた8月15日。九配従業員は支店内のラジオを前に、終戦を伝える玉音放送を聞いた。全員が頭を垂れ、口をつぐんだ。
この日深夜、川口さんは原爆投下以来初めての帰宅を許された。緊張感と使命感から疲れを一切覚えていなかった川口さんだが、帰宅許可をもらった瞬間、1週間蓄積した疲労が一気に出てしばらくは歩くこともできなかった。
× × ×
『九州配電株式会社十年史』はこう記す。
「食糧不足資材欠乏等あらゆる困難の最中、次々と原子病にたおれ行く僚友を看護(みまも)りながら其屍(そのかばね)を市中に疎開材で焼きつつ、全員協力一致其屍の焼あとには次々と新しい配電線を建設、斯くて市民の光明たる電灯が点されて行った。この困難な復旧工事には、あの電話機を持ったまま殉職した社員達、工事中の電柱から吹き飛ばされて殉職した社員達、妻子全滅し孤独者となって尚引き続き建設に挺身した社員達のあの熱烈なサーヴィス精神が全従業員をたえず鼓舞激励してくれたし、復旧工事促進の中に躍動したのである」
終戦から68年目。川口さんは戦後、会社組織改変に伴い、九州電力社員となり、被爆地での復旧作業に携わった同僚とともに台風被害や水害がある度に、いの一番に出動し、電気の復旧に尽力した。被爆当時の復旧作業に携わり、今も存命なのはおそらく川口さんだけ。中には原爆症に苦しむ同僚もいた。被爆地での経験については家族にも長く口を閉ざしてきたが、歴史の証人として当時を振り返る決意を固めたという。
「あの被爆地で、支店長以下一丸となって懸命に電気を通した同僚たち。電気が通ったことを喜んでくれる人々。あれほど自分の仕事を誇らしく感じたことはありません。電力を守ることは人の命を守ることなんですよ」
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