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第4部(10)犠牲乗り越え日本初のアーチ式 産経から転載

2014-01-05 09:44:47 | (英氏)原発・エネルギー問題

第4部(10)犠牲乗り越え日本初のアーチ式

2013.1.24 13:29 (1/4ページ)九州から原発が消えてよいのか

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 昭和29年9月13日、完成間近の九州電力・上椎葉発電所(宮崎県椎葉村)は冠水の危機にあった。

 午後、台風12号が鹿児島に上陸し、深夜にかけて九州を北上した。険しい九州山地の奥深くに位置する椎葉村は700ミリを超える豪雨に襲われ、村内を流れる耳川の濁流は、建設中の上椎葉ダムを乗り越え、その下流にある水力発電施設に流れ込んだ。

 「責任は全て俺が取る。被害状況を把握し、早急に復旧対策を立てろ!」

 上椎葉ダム建設事務所長、緒方惟明氏は幹部を集めてこう厳命した。

 台風一過。一帯に残した傷跡は凄まじかった。水にのまれた水力発電設備は、大部分を作り直さなければならなかった。ところが、日本初の大型アーチ式ダムは無事だった。建設に従事した技師たちは秋空にそびえ立つコンクリート構造物を見上げ、安堵の表情を浮かべた。

 

新方式に絶句

 

 昭和26年5月の発足当時の九州電力の発電設備は、火力55万4千キロワット、水力48万2千キロワットだった。現在の玄海原発4号機一基に満たない発電力に満たない。

 戦後復興に電力は欠かせない。全国9ブロックに誕生した電力会社は早急な発電能力の拡充を迫られていた。

 そんな中、九電が打ち出したのは、30年度末の5年弱で水力を30万キロワット、火力50万キロワットを増やす計画だった。当時の九電の企業規模から見れば、無謀なほどの増産計画だといえる。

 当時、九州にあった水力発電所は、水車と同じように河川の流れを直接利用するものばかりだった。この方式では、渇水時に安定した発電を望めないばかりか、電力不足時にとっさに発電量を増やすことができない。あらかじめ水を貯めておき、電力需要の変動に応じて発電量を調整できるダム式の水力発電が、どうしても必要だった。

 そのダム式水力発電の建設地点として、選ばれたのが上椎葉だった。優良なダムを作りやすい地形だった上、年間3000ミリ近い豊富な降水量が見込まれたからだ。

 ダム建設は、貯め込んだ水の圧力をどうやって受け止めるかが成否を分ける。上椎葉は戦前からダム計画があったが、当時日本で主流だったのは、巨大なコンクリート構造物の自重で、水圧に耐える「重力式」。水に負けないよう頑丈にするには、膨大なコンクリートが必要だった。

 昭和25年、米国の海外技術顧問団が上椎葉を現地視察し、「重力式」から「アーチ式」に変更するよう勧告した。

 アーチ式ダムは、その名の通り貯水池の方向に膨らんだ弧を描く。ダムにかかる水圧をアーチ作用によって堤の両脇に分散することができることから、より少ないコンクリートで、増水時の水圧にも耐えられる。工事費を10%以上削ることができるメリットもあった。

 だが、日本には前例がなかった。勧告を聞いた後の九電初代社長の佐藤篤二郎氏は「アーチ式か…」と絶句した。メリットが大きいことは分かっているが、ノウハウがなく難航が予想されるからだ。

 しかし、占領下での米側の意向は絶対だった。

 米国海外技術顧問団と九電は高さ110メートル、長さ340メートル、総貯水量7600万トンのダム本体と、出力9万キロワットの発電所を設計した。ダム本体は当時としては日本最大、世界でも4番目の高さ。当時の日本の国力、技術力からすれば破格の規模だったといえる。

 設計には、米国西部に造られたアーチ式「フーバーダム」建設に携わった技師らも加わった。

 上椎葉ダム着工の16年前に完成したフーバーダムは、高さ220メートル、貯水量400億トンという超巨大ダム。琵琶湖の貯水量が280億トンだということを勘案すると、そのスケールの大きさが分かる。

目標に向かって

 

 ダム本体の着工は27年8月だった。ダム設計を担当した原欽五氏(84)はこう思った。

 「日本で初めてのアーチ式のダムを建設できるなんて技師冥利に尽きる。こんな幸運な仕事に巡り合えることは、もうないだろう。フーバーダムの技術を全て取り込んでやろう」

 原氏は寝る間も惜しんで設計を続けた。さまざまな技術書を米国から取り寄せ、分からない部分は米国人技師から徹底的にレクチャーを受けた。コンピューターのない時代。原さんは2年間、機械式計算機で安全性能など設計に必要な解析作業を続けた。

 米国人技師の通訳を担当した九電社員は戦時中、米軍の捕虜となった人物だった。原氏はこう振り返る。

 「つらい捕虜生活を思い出し、米国人に教えを請うのは複雑な気持ちだったでしょう。でも、彼が米国人への心情をはき出すことはありませんでした。ダムを建造するという目標を最優先したと思っています」

 建設現場は平家の落人伝説が残る奥深い山中。セメントなどの建設資材は、40キロ離れた延岡市からリフトを使って運ばれた。ダンプカーやショベルカーなど重機も米国から直輸入した。

 建設を請け負ったのは鹿島建設。米国技師団の監督の下、懸命の作業に当たったが、当時の日本に大型重機を使った経験がある人はほとんどいない。事故も相次ぎ、工事が進むと、重機が足りなくなった。やむを得ず国産の重機を導入したが、今度は故障が続出した。加えて台風などの自然災害もすさまじく、工事は思うように進まなかった。

 それでも計画から1年余り遅れた昭和30年5月。ついにダムは完成した。総工費は当初計画の85億円から135億円に膨らんだ。

完成の陰に

 

 原さんら技師たちは、上椎葉ダムで培った全ての技術を「アーチダム 上椎葉ダムの計画と施工」と題した工事誌にまとめた。この工事誌は、ダム建設関係者のバイブルとなった。

 後に世紀の大事業と呼ばれた関西電力の黒部ダム建設でも、この工事誌は大いに参考にされたという。原さんは胸を張った。

 「上椎葉ダム建設を通じて、九電が日本国内のダム技術を押し上げた。今もそう自負しています」

 ただ、延べ500万人が従事した建設工事では105人の犠牲者が出た。豊かに水をたたえたダム湖を見下ろす公園に建立された慰霊碑には、こう記されている。

 「九州の産業発展の原動力となるこの世紀の難事業完成の陰には、どんなに多くの血のにじむ苦闘と犠牲が払われたことでしょうか。不幸にして少なからざる犠牲者を出したのであります。このことを思うとき、われわれは悲痛極まりない感慨に打たれるものであり、尊い殉職者の芳名を千載(年)残すことにいたしました。在天の霊よ、願わくばわれわれの微意を了とされ、殉職者諸兄姉の心血凝って成った偉業の成果を静かに見守ってください」


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