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何度かお伝えしておりますが、今週末5月20日(土)から、全国(高知は、あたご劇場)で上映される映画『君のまなざし』の見ものは、リアルな降魔シーンにあるらしいです。
そう、「リアルな」ということは、出演者に魔を入れ、それを吹き飛ばすか、やり込めるか、はたまた悟らしめるかは存じませんが、演技とかCG合成映像とかの技術的演出ではなく、実際に、憑かれている状態と、脱した状態を見ることができるということですね。
ということは、「今なんだか、体調悪いんだけど」という方は、体調が良くなる可能性が極めて高いです。
実際、昨年公開された『天使にアイムファイン』でも、数多くの病気の方が治っています。
話を『君のまなざし』に戻すならば、総合プロデューサー兼脚本で俳優として出演までしている、大川宏洋(おおかわ ひろし)ニュースタープロダクション社長は、バリバリの霊能者で、判断ができますので、降魔シーンで映画監督が演技として「OK!]を出しても、宏洋社長は実際に降魔できるまで撮影し続けたのだとか。
まさに、リアルエクソシストです。
https://the-liberty.com/article.php?item_id=12359
ということで、本日は、私の拙い降魔体験を書いてみようと思いました。
と申しますのも、何度か記事でご紹介した、他県の離島にお住いのMさんというご婦人に、電話でそのことをお話ししたところ、「ばくちゃん、それ、記事にするべきよ。」と勧められまして。
私としては、「個人的なことだし、他の方と、ドンピシャで符号することもないし、第一、少し恥ずかしい。」と、記事にするつもりはなかったけれど、「いや、それで困っている方は多いと思う。」とMさんに説得された形ですね。
幸福の科学では六大煩悩と言って、「こういう心の人は地獄に行ってしまう。」という基準があるんですけれども、それは貪(とん)瞋(じん)痴(ち)慢(まん)疑(ぎ)悪見(あっけん)というもの。
貪というのは、むさぼりの心。
瞋は、怒りの心。
痴は、愚かなこと。
慢は、自惚れの心。
疑は、疑い深い心。
悪見は、間違った見解。
これら6つの大きな煩悩を反省すれば、皆さん、天国行きは間違いないわけです。
恥ずかしながら私、とても怒りっぽい人間でして、昔から「ばくちゃんって、瞋(じん)の心が強いよね。」と法友たちに言われていましたし、私は恐れている嫁様(爆笑)にも、「あんた、かなりの癇癪持ちよね。」と言われる始末なんです。
しかし私、「でも、腹の立つことってあるよね。」「許せないって思い、大事だと思うな。」とち~っとも反省しなかった。(爆笑)
しかしまぁ、尊敬する大川隆法幸福の科学グループ総裁から、「幸福の科学の会員たるもの、常に正しき心を探求すべし!」とあるから、決して真面目ではない私ではあるが、少しづつでも「なんで俺、怒りっぽいんじゃろか?」と反省しようとする心は持ち続けていました。
で、どうやら、このアホ―な私ではあるが、めったやたらに怒っているのではなくて、ある傾向性があることに、初老の域に達した最近になってやっと気づいてきました。
それはどうやら、「自分自身が、自分の思った通りに動けないときにブチ切れる」というものでした。
要は、人様のことには余り心を動かさないんだけど、自分自身に腹が立っているし、「情けない」という思いがとても強く出てしまうのだと。
聖地四国正心館の伊藤館長さんには、「ばくちゃん、あなたは神の子なのだから、その思いは、神そのものを情けないと思う心となるよ!(如是我聞)」と教えていただいて、「それはいかん!」と、「いつかは瞋、怒りの心を克服せねば」と思っていました。
聖地四国正心館伊藤真道館長 http://the-liberty.com/article.php?item_id=2935
嫁様も何か思うことがあったのだろう。一念発起し、この2月に大川隆法総裁が降魔した地、名古屋に建立された名古屋正心館での、悪魔祓い祈願を家族四人で受けることができた。
ここからは汚い話で申し訳けないのだけれど、先月初め頃、朝方トイレに起きて用を足してて、恥ずかしながら私、オシッコの最後の一滴が便器に届かず、床に落ちてしまった。
一昔前の私なら、もう怒りで便器を蹴り上げるくらいの心境になったが、その時私は、不思議とそうならなかったのですね。
「どうしてだろう?」と寝ぼけたまま思いを巡らすと、過去の思いがフラッシュバックしてきたんです。
私が過去、怒りの思いを出していたときの風景が現れ、そしてそのときに、私に語り掛けている人物がいたことも。
その人物と思われるその姿形までは、はっきりとはわからないのですが、『声』だけははっきりと認識できた。
「情けない!」と怒り心頭の私に、奴がなんと言っていたかというと・・・。
奴は「し🔴」とつぶやいていた。
当時の上司筋の人物に立腹していたときも、「お前はし🔴のが怖いのか?お前は永遠の生命を信じていないのか?あいつは誰かがし🔴ないとわからんから、お前がし🔴でわからしたれ」と。
まぁ真面目な方とかだったら、こんな感じで鬱にして苦しめてるんだろうけど、私のような不真面目だけれども、年甲斐もなくカチンとくるような者には、こういう感じで発作的に行動を起こすような耳打ちをしとるようです。
そして、個々が持つ、小さな欠点を増幅させていくのが分かりました。
そのとき私は、なぜだかとても冷静でした。そしてこう思いました。
「なんや、あれは悪魔の仕業やったんか。まさか俺に悪魔が来るとは思わんかったわ。悪魔って、嫌がらせしかできんのやなぁ。ホンマ、情けない奴らやな。」と、私は心の中でつぶやいた。
そしたら・・・、
「ぎゃぁー!」と言う声と共に、後頭部の左側が急に痛くなった。しかしすぐに、頭から山芋が抜かれるような感覚と共に、その痛みは消えていって、最後に温かい感覚とありがたい思いだけが残ったんですね。
ということで、参考になったかどうかはわかりませんが、慢心することなく、今後も精進を続けて行こうと思います。
ということで、幸福の科学経典『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』の一節をお届けいたします。
(ばく)
映画「君のまなざし」キャストインタビュー
まず、本章のテーマである「エクソシスト(exorcist)」とは何かということですが、日本語に訳すと、「悪魔祓(ばら)い師」ということです。
そして、エクソシズム(exorcism)が、「悪魔祓(ばら)い」ということになります。
(中略)
幸福の科学の三帰信者であれば、基本的には、仏法真理の教学と、『仏説・正心法語』の読誦、『祈願文①』の「悪霊撃退の祈り」等で、エクソシストとしての活動を行うことは可能だと思います。
ただ、その人の悟りに合わせて法力は強くなってくるので、日頃の教学、精進が連動すると考えてください。
在家の信者でも、よく勉強し、修行している人には、『仏説・正心法語』などを読誦するだけで、簡単な悪霊であれば、憑いているものを取る力はあると思います。真理の話をして、「正心法語」のCDをかけるだけでも、悪霊を取る力があるでしょう。
ただ、そうした普通の地獄霊、不成仏霊の背後には、悪魔や魔王などが控えていることもあります。
この世のヤクザでも、小者だと思って相手をしていたら、その後ろに親分が控えている場合があるように、悪霊の場合も、悪魔や魔王とつながっていることがあるので、あまり図に乗って相手をしていると、自分が敵わないような強い相手が出てき始めるので、気をつけなければいけません。
悪霊外しや悪魔祓いは、ある程度、個人でもできないことはありませんが、なるべく幸福の科学の支部や精舎等で行ったほうがよいと思います。
その場合、悪魔の側は、「仏・法・僧」を相手にして戦わなければいけなくなるので、向こうも正規軍でないかぎり互角には戦えません。こちらが教団全部とつながっていると、向こうは個人戦ではとても敵わなくなるのです。
「三宝に帰依する」「三帰誓願によって仏・法・僧とつながる」ということは、自分の身を護り、他の人に憑いている悪霊を外し、悪魔祓いをする上での力になるのです。「仏・法・僧と一体になって対抗する」ということであれば、強い力を発揮できます。
そういう意味で、三帰信者になると、エクソシスト能力も一段と高まってくると思います。さらに、出家修行者においては、その修行の度合いに応じて力が変化してきます。
修行者が転落する原因は、「貪(貪り)・瞋(怒り)・癡(愚かさ)」の「心の三毒」、あるいは「慢(慢心)・疑(疑い)・悪見(間違った見方)」を含めた「六大煩悩」です。
たいていは、このどれかに引っ掛かっています。悪魔に、これで引っ掛けられて、やられることがあるのです。
(中略)
特に、宗教家の場合は、やはり、「慢」のところに引っ掛かることが多いようです。
(中略)
霊体質の人も、気をつけないと、慢心することがあります。慢心していると、「敵のほうが強くなれば、自分がやられてしまう」ということが分からなくなるのです。
(中略)
したがって、エクソシストとしての活動を行う場合、基本的には、三宝帰依によって組織戦に持ち込んだほうがよいと私は考えます。
『エクソシスト入門──実録・悪魔との対話』(幸福の科学出版)P19、65~68
https://happy-science.jp/dharma/
軽くなる体験をしていますので、重いと思う方は是非ですかね。
初日に一回見て、昨日二回目見に行ったんですけど、一回目と二回目は全然印象が違ってました。
初回は、プロの役者と新人役者たちの差がやはり気に成ったり、「幸福の科学の建物」の中で使われている神さまの絵や像が唐突に出てくるシーンには違和感を感じたり、”幸福の科学臭”と云ったら怒られそうですが、ソレが気になって「う~ん、一般の人にコレ見せて大丈夫かな~」と思ってしまったんですが、次の日見に行ってくれた〝ほぼ一般人”の友人(しかも、かなり霊的!)の感想は、「健太役のひろしさんが可哀想やった。スゴイ親子の葛藤を感じた。アレ本当に(魔が)入ったり、出たりしてたよ。」というもの。私と同じように「かなりがっかりした!」と言ってたお仲間の男性も「帰ってから、時間が進むにつれ、映画の内容が自分の中でどんどん膨らみ、数々のシーンの中に感情移入していく自分がいた。観る人や心境によってさまざまに変幻する映画であることが判明した。」とおっしゃっているのを聞いて自分の見方の浅さを反省しつつ、二回目見に行きました。
一回目気になったシーンよりやはり、健太役のひろしさんのただならぬ変貌ぶりや主人公役の梅﨑かいと君の凛とした降魔シーンのすごさ(かいと君、声がいい!姿が美しい!)に圧倒される映画なのでした。
アノ〝降魔シーン”だけ見ても、この映画がただの「幸福の科学宣伝映画」なんかでは断じてない、本物の「エクソシスト(悪霊を成仏させる)映画」が日本に登場した!といえるでしょうね。
この脚本で、この三人の新人俳優なら、お金と時間さえかければ、ハリウッドもびっくりのもっと壮大なスケール感のある映画になったのは間違いないですが、そんな〝無いものねだり”するヒマがあったら、自分の中に巣くっている魔に打ち勝つ為にも、この映画何度も見た方がよいですね!(笑)
一回見て、ガッカリした自分を猛省しております。
ひろしさんの役名は、健太じゃなくて張飛(あさひ)でした。
我ながら、どんだけいい加減なんでしょう~