(前日からの続き)
人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が
悲しむね。
六十 七十 八十 生きて来た人がね、私は
こう生きて来たと言いたくなるのもよく
分かるけれども、悩んで苦しんで切羽
詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。
その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とにかくただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。
軽くして欲しいんです、まず。
医者のね、頭痛がするから頓服下さい
というのと同じなんです。
頓服あげといてね、熱下げて頭痛とって、
頭痛とった後にね、何で頭痛くなったか
というの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。
頭痛とらないでね、説教したってしょうがないの。
だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、
ある人はおなかが痛いといってとんで来るかも
わからない。
先生、姑が!という人も沢山いたしね。
嫁さんとうまくいきませんという人もいたしね。
どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさい
というんじゃないですよ。
そうじゃなくって、どっちもに対して
いたわりがないと、人間関係なんていうものは
本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。
だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。
自分を可愛がりすぎるあまりに、相手が見えない
ということになっちゃうとこれはあぶないんです。
自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、その
辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。
自分が一番辛いと想うからね。
だけども、自分も辛いけれども本当は相手も辛い。
ところが、人間というのは不便というか
何というかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、
いないでしょ。
とってもじゃないけどありませんよ。
だから私ができたという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。
神様に自分の生命というものを差し上げちゃって、
投げ出しちゃって、それで、どうなとして下さい
といったら、まあやくざみたいだけれどもねえ、
そこで自分の生命の本体というものを見たから。
もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今こっちから
見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを
見ていると、あるいは感じてるとね、本当に
何とかして下さい、どうにかして下さい、
本当に辛い祈りが多い。
だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。
その役目を未来永劫五井先生は引き受けた訳だから、
だから、皆さんは安心してね、五井先生と呼んで
下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを聞かせるなんて、
とてもじゃないけど私の気持ちがゆるさないとかね。
どっかでかっこうつけたりとか、ありますね。
恥ずかしがったりとかね。
だけども、そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。
そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。
行ってどういう手当てができるか分からないけれども、
しかし、最善の手当てをするわけよ。
どういう手当てができるか分からないというのは、
皆さんの心に思ってるような手当てが果たして
こっちが出来るかどうか、その時期かどうか、
よくは分かんないけれども、しかし、神様の愛
というものを携えてこっちが行くということは
確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。
だから、いつかその悩みとか苦しみとか辛さという
ものは消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば
消えてゆくんだ、五井先生を通して神様の愛
というものが通ってきて、その大愛によっ
て我々の諸々のものというのは消えてゆくんだ
ということね。
そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。
やりやすいんです。
(つづく)
人に対する時というのはね、私の経験に
よればと、それを出しちゃうと相手が
悲しむね。
六十 七十 八十 生きて来た人がね、私は
こう生きて来たと言いたくなるのもよく
分かるけれども、悩んで苦しんで切羽
詰まって来る人というのは、それどころじゃ
ないんですよ。
その人の経験談を聞きに来た訳じゃなくって、
とにかくただ単純に慰めて欲しい。
そこから悲しみをとって欲しい。
軽くして欲しいんです、まず。
医者のね、頭痛がするから頓服下さい
というのと同じなんです。
頓服あげといてね、熱下げて頭痛とって、
頭痛とった後にね、何で頭痛くなったか
というの一緒に考えましょうよという
ゆとりを、そこから導き出すんですよ。
頭痛とらないでね、説教したってしょうがないの。
だから、ある人は頭痛で来るかもわからない、
ある人はおなかが痛いといってとんで来るかも
わからない。
先生、姑が!という人も沢山いたしね。
嫁さんとうまくいきませんという人もいたしね。
どっちにもいい顔しなさいというの。
それじゃあどっちもいい加減にしなさい
というんじゃないですよ。
そうじゃなくって、どっちもに対して
いたわりがないと、人間関係なんていうものは
本当にうまくやってゆけないということ
ですよね。
だから、そこで気をつけなきゃいけないのが、
自己愛というものですね。
自分を可愛がりすぎるあまりに、相手が見えない
ということになっちゃうとこれはあぶないんです。
自分自分自分が辛い辛い辛いと想うとね、その
辛い辛い辛いが相手を変に傷つけたりね。
あるいは、こう気持ちをにぶくさせてることが
あるんですよ。
自分が一番辛いと想うからね。
だけども、自分も辛いけれども本当は相手も辛い。
ところが、人間というのは不便というか
何というかね、そんな吸いとり紙みたいな人は、
いないでしょ。
とってもじゃないけどありませんよ。
だから私ができたという訳じゃなくって、私は
もうずっと十字架にかかったようなもんですからね、
前も言ったように。
神様に自分の生命というものを差し上げちゃって、
投げ出しちゃって、それで、どうなとして下さい
といったら、まあやくざみたいだけれどもねえ、
そこで自分の生命の本体というものを見たから。
もう私安心しちゃいましたからね。
安心した人間は今度、皆さんの中にその大安心
というものを分けないとね、いけませんでしょ。
そこで、私は十字架にかかりっ放しになって、
お浄めしたり話を聞いたりする訳だけれども、
そうやって皆さんと話をしたり、今こっちから
見たり聞いたり、祈りを届いたりするのを
見ていると、あるいは感じてるとね、本当に
何とかして下さい、どうにかして下さい、
本当に辛い祈りが多い。
だけども、その辛さをね、とかして、そうして
本当は、あなたの中に光があるんですよという
ことを、こっちはね、皆さんの守護霊さん
守護神さんと一緒になって出してゆく訳ですからね、
その流れを。
その役目を未来永劫五井先生は引き受けた訳だから、
だから、皆さんは安心してね、五井先生と呼んで
下すっていいんですよ。
五井先生にこんなつまんないことを聞かせるなんて、
とてもじゃないけど私の気持ちがゆるさないとかね。
どっかでかっこうつけたりとか、ありますね。
恥ずかしがったりとかね。
だけども、そんなこと言ってる内にストレスが
溜まってくんのね。
そういう遠慮はいらないんです。
どこでもいいんですよ、五井先生と呼べば
行くんですからこっちはね。
行ってどういう手当てができるか分からないけれども、
しかし、最善の手当てをするわけよ。
どういう手当てができるか分からないというのは、
皆さんの心に思ってるような手当てが果たして
こっちが出来るかどうか、その時期かどうか、
よくは分かんないけれども、しかし、神様の愛
というものを携えてこっちが行くということは
確かなんです。
そうして、皆さんの悩みも苦しみも抱きとって
浄めてるということも確かなんです。
だから、いつかその悩みとか苦しみとか辛さという
ものは消えてゆくんだ、五井先生に任せてれば
消えてゆくんだ、五井先生を通して神様の愛
というものが通ってきて、その大愛によっ
て我々の諸々のものというのは消えてゆくんだ
ということね。
そこさえしっかり見ていてもらえば、こっちは
本当に守り易いんですよね。
やりやすいんです。
(つづく)