人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

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授与された お浄めの印の効果について

2012-04-11 10:48:45 | スピリチュアル
 (問)講師、(常任幹事)、フェローにそれぞれ
お浄めの印が授与されており、皆さんから求め
られれば、積極的にお浄めしてお上げなさいと
言われております。お浄めの印をいただいたものは、
神を信じ愛一筋に、その人にかわって祈らせて
いただく限りにおいて、入信10年の人も20年
30年の古い先生方であっても、そのお浄めの効果
には軽重なしというつもりでお浄めさせて
いただいてよろしいですか。私如きがという
気持ちはやめて。


 (答)それでいいんです。印というのは何か
というと、天から流れてくる神様の愛の気という
ものをですね、ある人にはいやしの形で、ある人
には法則の形、又ある人には違う形でその時々に
応じて流すものなんです。それが印なんです。

 今、白光が色々分けてる、フェロー印、
講師(常任幹事)の印、宇宙子科学の印と。何で
分けているかというと、人間というのは本来一つの
神様から流れてきている生命でして、今あなたが
言ったように。本当に真心こめて、神様お願い致し
ますと言う時には、皆軽重はないんですよ。
 守護霊さん守護神さんが後ろで働いてね、こう
上にいくんです。それは間違いないんです。

 ただ、印というのは無心に使えば使う程
いいんですが、無心に使おうと思うと、例えば、
印というのはね、私が統一会でこうやってる、
昌美がやってる、あるいは村田さんがやってるのを
見ていると、何か特別なものに皆思うんですよ。
 で、自分があんなに使えるかしらと思うから、
例えば、フェローの印などもらっても、あれは
基本形であって、フェローの変形なんか
あるんですよ本当はね。だけどもらっても、自分は
その印の形を組むだけで精一杯だと思うから動かない
だけでしてね、あれはこちらから観ていると、
肉体的には動かしてないけれども、霊体はずっと
全部動いちゃって、すごく複雑な印を皆
切るんですよ。みんな動かしていない様に見える
けれど、皆それぞれ個性個性に応じて、
フェローならフェローの800人居たら、
800種類の印がその人の個性に応じて
切れるんです。それは何故切れるかというと、
守護霊守護神が付いていて、その人の世界に合った、
世界に合ったというのは世界が皆違うというのでは
なくて、その人の霊界というのかな、その人が帰る
魂のふるさと、そこに応じて、この人だったら
この天地の住人だから、こういう印がこの人には
一番伝えやすいな流しやすいなと思うと、上から
その気が降りていって、それで全部が印を
切り出すんですよ。

 で、如来印を組んで私を呼んで下さっている
時でも、如来印からずっと如来印の変形が
出来てですね、100人居たら100種類の印で
皆五井先生を呼んで神様を呼んで、一つに流れて
いっているんですよ本当はね。だから、印を組むも
組まないもなくて、これが印ですよと、はいっと
いって与えられたら、肉体は動かなくても、
霊体神体はそれで自由自在に切っているんです。
 そう考えて下すっていいんです。

 ただそれがね、今みんな動かしてもらって
おりますけれど、あれなんていうのもね、今本部で、
ここでやっているようなことをやればね、
ものすごくパニックになりますよ。何故かというと、
生前五井先生や昌美とかね、その人達だけしか
切れないようなものが何で切れるかということに
なって、それだけで真偽どうしようかということに
なって、くだらない話になるんです。結局、先程
〇〇さんが言った、とっても自分にはまだまだ
切れないという想いね、それが一つ邪魔をしている
ということとね。霊体は自由自在に切っているのに
肉体の想いというものは、自分はまだまだとか、
あの人は偉いとか、とてもあの人には及ばないとか、
そういう余計な想いがあるもんだから、肉体と
霊体が一致しないんですよ。霊体は自由自在に
動いているのに、肉体は中々それについてゆかない。

 だから、肉体と霊体は、自分が本当に使わせて
いただく時というのは、例えば〇〇〇〇ではなく、
つまり神様の愛が流れ込んで、神様の一つの器に
なって、神づまりにつまって、自分が言うんじゃ
なくて、後ろで守護の神霊が言って下さって
いるんだ、五井先生が言って下さっているんだ、
神様が私に言わせて下さってるんだという想いに
なればですね、〇〇〇〇という肉体的な個性とか
肉体の生命とかいうものは越えてしまって、素直に
天から言葉が流れてくるんです。

 言葉というのは神様の光ですからね。本当に
言葉の中に生命があって光があるということに
気がついていれば、みんな喧嘩なんかしなくなるん
ですよね。だけれども、言葉というものは容易に
口から出そうと思えば出てゆきますから、それほど
皆考えずに出していって争いになってゆく訳です。

 とに角、そういう印を組んで、はいやって下さい
という時には、積極的にやっていいんです。その
積極的にやる時には、私がやるんじゃないんだ
という想いでやれば、どんな人でもやっていけるん
ですよね。講師あるいは宇宙子科学が一本指だとか
何だとか、そういうことに決して把われることは
ない訳で、皆一緒なんです本当に。ただその人の
住む世界、その人の魂を支えている世界によって、
霊人の種類が違います。それから、霊人の応援の
種類が違います。ですから、ある人に弁財天が
ついてある人に寿老人がついているというのと
一緒でしてね。守護霊さんの格が上とか下とかいう
のではなくて、その人のこの世の中での働き、
向こうへ行っての働きの違いを現わす意味で、皆
それぞれに分かれているという区分だけの意味
ですよね。

 ですけど、違う働きが全部一つになって、神様は
愛である、神様というのは無限の愛のゆるしの方で、
我々から見たらあの人に何か役割があるんだろうか
と思われるような人でも、こちらからは分からない
けれども、神様の方から見れば、大いに用いて
ゆこうと思っていらっしゃる訳で、人間が肉体の目
から見て、あの人は役立たずだなあと思っても、
神様の側から見たら、こんなに素晴らしい器はない
という人がある訳なんですよね。決して印なんか
切らなくても、宗教なんか入らなくっても、目が
きれいな人でも口のきけない人でも、何でも
いいんです。何でもいいんですと言ったらいけない
けれども、とに角、その人の想いが気持ちが心が
光輝いているかいないか、そこなんですよ。

 だから、印というのもいかに素直になるかと
いうこと。ただそれだけなんです。印を切らせて
いただく時には、その辛い悲しみそういう想いを
捨ててね、どうにも神様と呼んでるだけでは
駄目です。だから何とか柏手を打ってお浄めを
して下さいという時には、私が中に入ってますから、
その人の天命が完うされますようにと祈って、
そこで柏手を打ってお浄めをしてゆけば、その人
自身も空っぽになる、打った人自身も浄められる
という、両方いいんです。ですから、軽重なし
誰かれなしと考えて下さればいいんです。ただ
さっきも言ったように区別はあります。

 しかし、区別というのは、大きな働きを、大調和
という一つの大きな目的の中に、その流れの中に
入れ込む為の仮の区別ですから、あくまで仮の区別
ですから、全く誰がどうの誰がどう偉いとか、
フェローは良くって幹事はどうのこうのという
ことはありません。全くありません。ただ人間
というのは、やっぱり一つずつ段階を踏んで、
あなた七年来ましたよ、この印を上げますよと
言っていかないと、誰も彼も平等ということに
なれば面白くないし、人間の癖というか想い癖
というか習慣というか、そういうものを神様は
よくご存じですからね。

 そういう人間の人間らしい良いところも悪い
ところもひっくるめて、それをとったら、とに角
人間は一所懸命にならないということをよく御存じ
ですから、七年経ったらフェローの印をもらえるん
だとかね、くだらないことですけど、何かそういう
目標というものを持たないと。実は休んでる時にも
休んでいない時にも、印なんて切り切りに切って
いるんですよね。切りっ放しなんだけど、
そんなこと肉体人間は判りませんからね。で、息を
するのと同じように印を切ってる、印を切ってる
ということは神様に想いが流れていると。想いが
流れているというよりも、神様の方から人間に
対する想いが来て、そして、本心の奥の奥の方から
神様ありがとうございますという流れが想いが、
神様の方に流れ込んでいって、それで生命という
ものは成り立っている訳ですからね。

 だから、自分は意識するしないに関わらず、
神仏の光と人間は交流をして生きているものです。
 感謝しながら成り立っているもんですから、その
生命の成り立ちが判ってくると、自然に祈り心が
湧いてくるし、祈りが出てくるし、あるいは印が
組めるようになる。そうなってゆくんです。本当に
何事にも無駄ということはないんです。

 例えば、フェロー印の七年目というのは、七
というのは完全数でしょう。一・三・五・七という
のは全部完全数なんですよ。七というのは全部の
一つのまとめなんです。東洋も西洋も完全数は七
なんですよね。元をたぐってゆけばね。七は一つの
目標ではあるけれども、それぞれの霊体幽体神体
というものに対しても、完全数に近づいた所で、
一つの神界からのサインというんですか、気の流れ
というものを受けとめる、あなた器になりましたよ
という許可が出たことで、その人の霊位というのか、
そういうものを喜んで、私は一所懸命やりましょう
と、本当に輝いて一段二段と昇るんです。

 そういうことで、神様には無駄がないんですよ。
 全くこんなのはくだらない事じゃないかと
思ってることでも、それは人間の想念の方で
くだらないと思うだけでして、向こう側からすれば、
全く人間というものを深く深く考えて捉えて、
人間がいかにしたら深く愛し合えるようになるか、
赦し合えるようになるか、認め合えるようになるか、
調和できるようになるかという、そこだけを考えて
やっている。それがすべての現われなんです。
 ですから、不満や不平、不安や怒り、そういう
ものも一体どこから来ているものかということを、
一回考えてみて、とに角祈ってゆくということが
大事だと思います。